
齋藤雄一騎手は今年でデビュー11年目。現在岩手の騎手リーディング2位につけている成長著しい中堅ジョッキーだ。2009年度は53勝でリーディング10位。2010年度は75勝で6位。徐々に勝ち星を増やしてはいるが不動のTOP3(菅原勲元騎手・小林俊彦騎手・村上忍騎手の上位常連)の域にはまだ少し......。そんなポジションに落ち着きかけていた齋藤騎手が、昨季は106勝で一気にリーディング2位に浮上し、俄然周囲の注目を集める存在になった。その"伸び"の要因はどこにあるのか? それがやはり最も齋藤騎手から聞いてみたいことだろう。そしてもうひとつ。彼は元々、2001年度限りで廃止となった新潟県競馬でデビューする予定の候補生だった。そんな"秘話"の部分にも触れてみたい。
横川:競馬学校に入る前、中学校ではバレーボールの選手だったんだよね。
齋藤:小学校からずっとバレーボールをやっていて、結構名門のクラブにも入っていました。中学の時には県の選抜選手にも選ばれたんですよ。
横川:そのままバレーを続ける、という道もあったと思うんですが、なぜ騎手になろうと?
齋藤:実家(新潟県新発田市)の近くに小さな牧場があったんですよ。馬は2、3頭くらいで、新潟県競馬に持ち馬を何頭か出しているくらいの本当に小さなところでしたが、そこで遊んでいるうちに馬という生き物に惹かれるようになって。それが中1くらいの頃かな。
横川:そこから"よし、騎手になるか"ということに?
齋藤:競馬っていうのはあまり知らなかった。ゲーム......ダビスタをちょっとやったことがあるけれどそれと実際の競馬や騎手を結びつけて考えたことはなかったです。ただ、身体はそれほど大きくなかったから、騎手はそれでもできる職業だということは知っていたし、それにうちの親がね、"自分できちんとお金を稼げるようにならないと半人前"みたいなことを常々言っていたんです。じゃあ騎手がいいな、と。でもいざ競馬学校に行きたいって言うと猛反対されましたけどね。
横川:ご両親としてはもっと違う職業を考えていたのかな。
齋藤:いや、やっぱりもうちょっとバレーを続けて欲しかったんでしょう。クラブの周りの子達もそうでしたからね。でもあの頃の自分は"高校に行ってもな~。別に学歴とか関係ないしな~"とか考えていて。今になってみると高校には行っておくべきだったなと思ったりしますけど、小さい頃はね、そんなところまで考えが回らなかった。
横川:そして新潟県競馬でデビューする予定だった......。
齋藤:横山稔先生の厩舎ですね。きちんとした形で厩舎にいたのは実習の半年くらいだったけど、中学校の頃からちょくちょく出入りしていました。
横川:それが、新潟県競馬が廃止されるという話になっていった。
齋藤:新潟でデビューできないということになって、もう辞めようと思ったんですよ。地元で騎手になれないのなら続けてもしょうがない、つまらないよって。そんなことをポロッと話したら稔先生に怒られた。"今は我慢しろ。競馬学校はきちんと卒業するんだ"って。稔先生がそう言ってくれなければ騎手になっていなかったかもしれない。
横川:そこから岩手に来たのは?
齋藤:横山稔先生が岩手の福田秀夫先生と同期ということで紹介してくれたんですが、その時には福田厩舎にも候補生(高橋一成元騎手・2002年秋にデビュー)がいたので、じゃあ小西先生のところで......となったんです。
横川:今にして思えば、そこで辞めずに騎手を続けていて良かった?
齋藤:んー。最初の頃はですね、新潟から一人で来て知らない土地で生活しなければならなかったし、新潟県競馬と岩手競馬の雰囲気の違いのようなものになじめない時期もあったし。毎年毎年辞めようかどうしようかと悩んでいましたね。思うような成績を挙げられない。レースに乗せてもらえない。新人の頃はそういうことで余計に悩むじゃないですか。
横川:デビュー間もない頃に怪我をしたりしてね(2003年、足の怪我により3ヶ月騎乗できず。その年は結局、デビューした前年よりも成績を落として終わった)。あの時は「このまま浮上できずに終わるかもしれない」と心配したよ。
齋藤:いや、自分はそんなに難しく考えてなかったですよ。若かったし、自分一人だったし、なるようになるだろうと思ってた。
横川:まあ、怪我したおかげでいい奥さんを見つけたから結果オーライか。やっぱり結婚が転機じゃない?
齋藤:周りにもそう言われる。小西先生にも結婚して変わったなって言われました。自分で振り返ってみてもやっぱり結婚したことが大きかったかな。その頃はまだあまり勝てない、稼ぎも少ない頃だったから、"こんな自分で家族を養っていけるのか?"といつも考えていた。今年ダメだったら騎手を辞めよう......。いい成績を挙げなきゃ。ヘマをしていられない。毎年その繰り返しでしたからホント競馬に集中していましたね。
横川:辞める話が頻繁に出てきてヒヤヒヤするね。でも、やっぱり家族が支えなんじゃないの? 結婚して子供ができて、それでガラッと変わったと思うよ。
齋藤:周りに"齋藤は結婚してがんばるようになった"と思われるようになって、ちょうどいい結果も出ているから、余計にそう見えるんじゃないかなあ。でもですね、子供に言われたんですよ。「レースのお父さん、カッコイイね」って。自分があまり勝ててない頃にそう言われてちょっとハッとした。自分たちは普通のお父さんじゃないじゃないですか。土日も一緒にいられないし。そんな自分が子供に何かを伝えるとしたら、レースでがんばっている姿を見せるしかない。"背中で魅せる"って言うと格好良すぎだけど、子供達にはカッコイイところを見せたい。だからがんばらなきゃと、それ以来思うようになりましたね。
横川:この3年くらいかな、勝ち星がグンと伸び始めて。そんな大ブレイクの理由はどこに?
齋藤:やっぱり家を建てたからかな~。
横川:また家庭かい!
齋藤:やっぱり言われますもん。「家庭が充実してるからな」って。一昨年は"家建てたからがんばるぞ"。今年は3月に3人目が生まれたから"もっとがんばろう"。家に帰って子供の顔を見てるのが一番のストレス発散になりますからね。家庭が原動力なのは間違いないです。
横川:でも、去年からの大活躍はそれだけが理由とも思えないけど。
齋藤:自分でもあまり実感がないというか......。騎手の数も減ってますからその分でもあるだろうし。固め打ちする馬に何頭も当たったということでもない。ただスランプと言うか"勝てない間隔"が短くなっていったな......とは感じてました。今年は去年以上にコンスタントに勝てていて、楽しくレースができています。なにより心理面で進歩しているという実感がありますね。ゲートに入ると余計なことはサッと忘れてレースに集中できるようになった。技術面はまだ何とも言えないけど心の面は変わったと思う。
横川:最近はね、「雄一に任せておけば」「雄一なら」と厩舎の評価も高い。成績も伴っているし。
齋藤:それはそれでプレッシャーもありますけどね。"ホントに俺でいいの??"って思う部分はまだある。まあでも、結果が良いから周りの見る目が変わっていく......という好サイクルになっているんですよ。自分では昔も今も努力の質が変わっているつもりはないんですが、いい結果が出ているから周りの評価が変わって、それがまたいい結果に繋がっている。いろいろなことが良い方向に向いているんだな、って。
横川:このままなら少なくとも盛岡のエース格は間違いない
齋藤:盛岡で、っていうか、全体のエースでありたいですよ。村上(忍)さんに負けているのは正直言ってもの凄く悔しいです。去年なんかも村上さんに勝ちたい勝ちたいって思って2倍努力してダメで、じゃあ3倍努力すれば勝てるかと思ってやってみたけどやっぱりダメで。今は何が足りないのか分からなくなってるくらいで......。
横川:齋藤騎手は負けず嫌いだからねえ。
齋藤:まあやっぱり負けるのは嫌ですからね。負けないために必死で努力してる......というところはありますね。
横川:さて、この後の目標を聞かせて下さい。
齋藤:厩舎と自分のダブルリーディング、かな。厩舎のリーディングは、自分が来る前は獲ったことがあるそうですが、自分がデビューしてからは一度もないんで、今年はわりといいところにつけていますし、自分もここまで育ててきてもらったからそろそろ貢献できるんじゃないかなと。自分のリーディングの方は、"それが目標!"と思っていてもあまり意識しない方がいいかもしれませんね。
横川:SJT(スーパージョッキーズトライアル)のワイルドカードにも出場しますね。
齋藤:出場する騎手の名前を見るとなんか凄いですね。でも楽しみにしてますよ。ただなあ。自分、こういうイベントっぽいレースは弱いんですよね。どうなるかなあ......。
ジョッキーズチームマッチ第2戦は12番人気のヤマニンエグザルトで勝利
そんなことを言いながら向かった高知でのSJTワイルドカードは総合5位。SJT出場権には手が届かなかったが、今の齋藤騎手らしい戦いぶりは演じてきたのではないだろうか。
今年7月に盛岡競馬場で行われた騎手対抗戦「ジョッキーズチームマッチ」では12頭立て12番人気の馬を勝利に導いてファンをあっと言わせた。8月には重賞・若鮎賞を制して大レースでも存在感をみせる。勝ち星の数だけでなくファンの記憶にも残る騎手へ。それが今の彼を押し上げる"好サイクル"の現れなのだろう。
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※インタビュー・写真 / 横川典視
今年、デビュー10年目のシーズンを迎えた山本政聡騎手。その節目の年に岩手ダービーダイヤモンドカップをアスペクトで制した。昨シーズン限りで菅原勲騎手が引退し、岩手競馬の騎手は世代交代が進んでいるところ。まだ20代の山本政聡騎手は、その旗手になりうる位置にいる。
岩手ダービー馬との出会いは、偶然ともいえる縁がもたらしたものだったらしい。
これまで冬場は育成牧場に働きに行くことが多かったんですが、その年はたまたま行く予定がなくて、そうしたら櫻田浩三厩舎から手伝いに来てくれと言われたんです。それで、アスペクトとエスプレッソの調教も担当しました。そのときの印象は、エスプレッソは成長途上で、アスペクトは完成度が高いというイメージでした。
2011 年の岩手2歳戦線を牽引した2頭だが、対戦成績は山本騎手の印象どおり、アスペクトのほうが上だった。
ただ、気が弱いところがあるんですよ。慣れている盛岡では強くても、水沢でいまひとつなのは、その影響かもしれませんね。
2歳戦線の締めくくりである金杯で惨敗し、その後に移籍した南関東でも苦戦。しかしアスペクトは見事に立ち直った。
南関東から戻ってきたときは、馬に不安感があるような雰囲気でした。それでもだんだん調子が戻ってきて、ダービー前の追い切りのとき、普段は厩務員さんが調教を つけているんですけれど、その人が「すごい手ごたえで、オレでは乗れない」と言ってきたんです。ベテランのその人がそう言うなら間違いないなと思って、ダービーでは自信をもって乗れました。
晴れてダービージョッキーになった山本騎手。しかし2年前にはダービージョッキーになりそこねた経験がある。
マヨノエンゼルのときは、技術的にもまだまだで成績もいまひとつ。ダービー前のレース(七時雨賞)が、自分でもちょっとミスしたなと思える騎乗だったんですよ。それで本番は乗り替わり。経験と技術が伴わないとダメだと感じました。そういう苦い経験があったからこそ、アスペクトで結果を出すことができたんだと思います。
成績が向上していく騎手の多くは、それにつながる何らかのきっかけを礎にする。山本騎手の場合は、それがマヨノエンゼルでの経験だったのかもしれない。
僕がレースに臨むときに考えることは、馬の気分を損ねないようにしようということですね。馬が気持ちよく走っているときは反応が違うんですよ。先行馬に乗る機会が多いですけれど、いちばんに気をつけるのはそこですね。でも、本当に好きなのは差し、追い込み。後方からだと道中でいろ いろ考えながら乗ることができて、騎手としての面白みが感じられますから。
今シーズンは菅原勲騎手の引退後。次代のエースをめぐる争いは熾烈を極めている。
もちろん、自分たち若手が盛り上げていかないと、という意識はありますね。僕よりも若い騎手が攻める騎乗をしはじめていますし。以前は岩手の騎手は岩手だけで乗るのが普通でしたが、最近は外に出ていることもひとつの要因かもしれません。
山本騎手自身も岩手以外での経験が豊富にある。
初めて遠征した佐賀では、岩手とペース配分がまったく違いましたし、それにインコースから一気に追い上げることがあるというのもビックリしましたね。それで僕も岩手に戻って水沢でインからのまくりを一度だけやってみたことがあります。レース後に先輩騎手から「危ないぞ」と怒られましたけれど(笑)。
岩手には小回りで平坦コースの水沢と、広くて起伏がある盛岡という、違う表情を持つ2つの競馬場がある。
水沢では、本命でもコース適性的に微妙という馬がいる場合、その馬を内に入れないようにして力を出させなくすることができますが、盛岡だとそれは無理。盛岡では力量が下の馬を上位に持ってくるには、展開崩れを待つしかないというところがあります。だから、メンバー的にペースが速くなりそうと思ったときには、直線に賭けるという乗り方をするときもありますよ。でも最下級クラスになると、ほとんどが事前の予想ができないくらいの混戦。それなのに新聞紙上で本命印がたくさんあると、精神的にキツイですね。本命で負けると次のパドックでけっこうヤジられるんですよ。『学校にもう一回行ってこい』とか......。
そういったなかでも成績は確実に上昇。プロの世界の厳しさを乗り越えていくためには、やはり自身の努力が必要だ。
馬に乗ったのは教養センターが初めて。卒業するときも、卒業してからも、これで食っていけるという手ごたえはなかったですね。デビューしてしばらく低迷していましたし、もし所属調教師が引退することになるのなら、同時に僕も引退して牧場に就職しようかなと思ったこともあるくらいです。その頃がちょうど結婚のタイミングで、向こうの親から「騎手はちょっと......」とか言われたこともありますし。でもそこで、あと1年だけ乗らせてくれ、と頼んだんです。その1年間は、前の年に比べて本当にたくさん馬に乗りましたよ。冬は荒尾に行けることになりましたし、牧場でも仕事させていただいて。盛岡に戻っても他の厩舎を手伝わせてもらいました。それでだんだん結果が伴ってきましたが、これまで成績が上がってこなかったのは、努力が全然足りなかったからなんだと痛感しました。
水沢所属でデビューした弟に続き、末弟も船橋所属でデビュー。現役では日本唯一の三兄弟騎手である。
僕は子供の頃からあまりガツガツしているタイプではなくて。2番目(聡哉騎手)は僕がひとつ言う間に10 くらい言ってくるような感じで正反対。3番目(聡紀騎手)は僕と同じタイプという感じです。でも行ったのが南関東ですから厳しいですよね。ウチらが岩手で名前を上げれば、3番目にも貢献できると思いますし、2人でもう少し上位に行ければと思っているんです。
長兄らしく、弟を気遣う発言がいくつか。それでも立場はプロ同士。自分が岩手競馬を引っ張る気持ちで、そして一気に頂点まで到達するほどの飛躍を期待したい。
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山本政聡(岩手)
1985年6月28日生まれ かに座 B型
岩手県出身 大和静治厩舎
初騎乗/2003年4月19日
地方通算成績/4,318戦352勝
重賞勝ち鞍/阿久利黒賞、青藍賞、若駒賞、
南部駒賞、岩手ダービーダイヤモンドカッ
プ、オパールカップ
服色/胴紫・黄一本輪、そで紫黄縦縞
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※2012年8月21日現在
(オッズパーククラブ Vol.27 (2012年10月~12月)より転載)
この7月から岩手で7回目の期間限定騎乗を行っている内田利雄騎手。その個性的なキャラクターともあいまって、岩手でも高い知名度と人気を得ている。昨季の在籍時には期間限定騎乗による「岩手通算100勝」も達成。ファンのみならず他の騎手や厩舎関係者からも一目置かれる存在だ。全国区の人気を誇る騎手だけに、内田騎手にまつわるあれこれはこれまでも様々なところで触れられているのだが、今回は改めて自身のこれまでとこれからをうかがってみた。
横川:それでは改めまして、騎手になろうと思ったきっかけのあたりから教えてください。
内田:父が川口でオートレーサーをやっていたんですがね、その父が自分に競馬の騎手はどうだ?と持ちかけて来たんですよ。"馬の背中の上で青春時代を過ごさないか?"という殺し文句でね。オートレースは規模がそれほど大きくないけど、競馬は全国規模のものだから安定しているだろう...と感じていたみたい。
横川:そんなお父さんは、内田騎手を最初から地方競馬の騎手にするつもりだったんでしょうか?
内田:うん、最初は父も"競馬=中央競馬"というイメージだったんじゃないですかね。でも父もあちこち聞いて歩いて、名前を売るのなら地方競馬の方がいいだろうと。中央競馬じゃ芽が出ないまま消えるような人もいるから、すぐに名を売りたいなら地方競馬だろ...という事になって。
横川:そこから宇都宮で騎手を目指す...という話になっていったんですか?
内田:当時は埼玉にいたから南関東の、それも浦和あたりで...って言う話もあったんだけど、父の先輩が北関東に馬を置いてる馬主だった事もあって。じゃあ宇都宮でお世話になろう、とね。それに北関東は騎手の数が少なかった。南関東は当時から多かったから。厩舎もすんなりね。所属する事になった厩舎が、当時宇都宮でリーディングトレーナーだったんですが、所属騎手がいないというので何人か見習いを採っていた。その中で残ったのが自分だけでね。
横川:オートレーサーの息子から騎手というのは、ちょっと珍しいパターンですよね。今でこそ競馬に全く関係のない家庭から騎手になる人も少なくないですが、昔は騎手の息子とか牧場で小さい頃から馬に...とかがほとんどじゃないですか。
内田:まあ同じようなもんでしょ。競技は違っても"レーサー二世"ではあるからさ。でも、小さい頃から競馬を見ておけ見ておけって言われたけど、興味なかったものね、その頃は。"身体が小さいなら競馬の騎手かな"ってくらいで、ダービーがどうとか三冠レースとか知らなかった。ま、その辺は騎手になってからも知らなかったけどね(笑)。そうね、73年くらい。ハイセイコーの頃ですね。
横川:そこからは順調に?
内田:順調そのものですよ。中学2年の夏休みから厩舎に住み込みで仕事をし始めた。家族から離れて一人でね。騎手学校でも真面目そのものの理想的な生徒。
横川:真面目な生徒だったんですか(笑)
内田:何で笑うのよ。真面目で成績優秀ですよ。紅顔の美少年。卒業式では総代もやったんだから。他の生徒が"総代はぜひ内田に"って言うから総代になったくらいですから。それでですね、競馬学校に入る時に面白い話があって。厩舎に通い始めた頃の身長が155~6cm、競馬学校を受ける頃には158cmくらいあったんです。
横川:"小柄"じゃないですね。
内田:そうそう。中学校で真ん中くらい。騎手学校を受ける中では大きい方ね。それで、今はそういう制限は無いんだけど、その頃は身長制限があった。それが156cmなんですよ。まわりからも"ちょっと背が高いんじゃないの~?"と言われていたんですが、1次試験の時に自分を測った先生が間違えた。5cm間違えて153cmという事になった。
横川:5cmってけっこう大きな差ですよね。
内田:まあ、そんなに大きな子は受けに来ないだろう...という意識があったんでしょうね。結局二次の面接の時に"内田、お前、なんか大きくないか?"という事で測り直したんですけども、あの時先生が間違えていなければ、もしかしたら一次で落ちていたかもしれませんね。
初めて岩手で期間限定騎乗を行った最終日、自身のバンド「ひまわる」のライブ演奏でファンを楽しませた(2005年8月16日、盛岡競馬場)
横川:それから三十有余年たちました。
内田:今年の10月で34年ですね。17歳の誕生日の2日後から騎乗し始めて、今年51歳になりますから。
横川:この間の、内田騎手の記憶に残っている馬を挙げていただくと...? たくさんいるんでしょうが、あえて絞っていただければ助かります。
内田:それはやっぱりブライアンズロマン。それとベラミロードですよ。1度しか乗ってないけどカッツミーとか、最近で言うとソスルデムン(釜山)とか、マカオのGIを勝ったスプリームヒーローとかもね、それぞれ思い出があるけど、やっぱりその2頭ですね。
横川:まずブライアンズロマンから、改めてどんな馬だったかを。
内田:自分に初めてのグレード(上山・さくらんぼ記念GIII)を獲らせてくれた馬ですし、北関東の大レースをたくさん勝ってくれた。すごく頭が良い、でもちょっと臆病なところがあって本当は馬ごみを嫌った。力の違いで揉まれるようなところに入る事はなかったんだけどね。あの頃にしては足長で、繊細な感じの体型。あの馬が出る前はああいう雰囲気の馬はあまり地方競馬にはいなかったですね。
横川:ベラミロードは僕もユニコーンSを見ていました。
内田:最後の最後でゴールドティアラに差された時ね。あまり大きな馬ではなかったけど、あれだけバネがある馬は乗った事がなかった。乗っていて気持ちよかったですよ。でもね、普段はおとなしくて何にもしない。何日も調教を休ませても全然暴れたりしない。調教師が"大丈夫なのか?"って心配するくらいおとなしいの。でもレースでは速い。凄いよね。
2000年の東京盃、2001年のTCK女王盃を勝って、NARグランプリ2000の3つの部門(年度代表馬、最優秀牝馬、最優秀短距離馬)で賞を獲ったんですよ。一度に3つも獲れるなんていうのもあの馬らしい。
小学生の頃に約2年間通った軽米町・観音林小学校で特別授業を行った(2009年7月7日)
横川:さて、これまで全国を回ってきた内田騎手が、浦和に腰を落ち着ける事になった。ちょっと衝撃的なニュースでもありましたが、その辺の経緯を教えてください。
内田:全国を回るのも年齢と共にだんだんと難しくなっていくんでね。浦和の騎手会長の見澤騎手(内田騎手の教養センター同期生)の勧めもあって、何年か前に出しておいたんですよ、その申込みのようなものを。南関東4場の騎手会でなかなか足並みが揃わなくて先送りみたいな形になっていたんですが、昨年荒尾が廃止になったでしょう。それで"廃止場の騎手を1場に1名受け入れる"という規定ができたんだそうです。つまり4場で4人までね。
横川:その規定を拡大していって内田騎手にも適用、と?
内田:拡大っていうか"そのもの"ですから。"廃止された宇都宮競馬場の騎手"ですから。転々としていたといっても無くなってからですからね。それで受け入れてもらえる事になったんです。
横川:落ち着く先ができたのは喜ばしい事ですが、毎年来てくれると思っていた自分たちから見ると正直寂しいです。
内田:僕も寂しいですよ。もう全国を回る事はできないでしょうからね。今年は"今までお世話になった皆さんにご挨拶をしたいから"と無理を言って回らせてもらってますが、今年の残る時間、できる限りあちこち行きたいと思うけども、日程がうまく組めなくてね。
横川:来年からの「浦和の内田利雄」はどんな騎手として生きていくのでしょうか?
内田:変わりないですよ。変わりない。1日でも長くレースに乗る、と。
横川:そろそろ騎手人生の終着点、引退という文字が...という事はないですか?
内田:引退してもやる事がないもの。それはもう乗れるだけは乗らないとね。だってねえ、志半ばで辞めてったわけですから、宇都宮時代の仲間が。そういう仲間たちの分までやらなくちゃならない。そういう使命があるんですよ。みんなだってそうでしょう? 東北で被災した人たちの分まで幸せにならなくちゃならないんですから。
横川:4000勝とかという記録とかが目標ではなく?
内田:そんな事はとてもとても。騎手として1レースでも多く乗る、って事ですよ。いつまでも若くはないんだから記録を狙って...なんてとてもね。もちろん与えられた仕事はきっちりこなしますが、いつまでも俺が俺がじゃなくて、若い芽を伸ばしてあげないとね。僕と一緒にレースに乗ると、若い騎手たちは楽しそうでしょ? 時には前に立ちふさがるかもしれないけど、若い奴らはどんどん越えていきますよ。そうやって世代が変わっていくんです。
例年、夏の頃に岩手で騎乗する事から"夏の風物詩"ともなっていた内田利雄騎手だが、浦和競馬所属となった事で期間限定騎乗で岩手に来るのは今回がラストという事になる。
自分からすれば内田利雄騎手の騎乗をもっと岩手で見てみたいし、その「終の棲家」は岩手競馬であって欲しかったとも思うのだが、こうなったからには内田利雄騎手の岩手での騎乗を応援しつつ目に焼き付けておく...というのが内田利雄騎手の決断に対する最大のリスペクトだろう。もちろん、また岩手で騎乗する姿を見る事ができる日を期待しながら...。
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※インタビュー・写真 / 横川典視
菅原俊吏騎手は30歳にしてデビュー5年目の若手騎手。なんだか微妙な言い回しになってしまうのは、菅原俊吏騎手がオーストラリアでの騎乗経験を持ちながら日本でデビューを果たした希有な経歴の持ち主だからだ。
彼の地での勝利数は24。岩手での初勝利の際には「久々の実戦だったので感覚が戻りきっていなかった」という"新人"らしからぬコメントを残していた。デビューの年こそ13勝にとどまったが、翌年からは順調に勝ち星を伸ばし、昨季は84勝で4年目にしてリーディング5位。今季もすでに80勝を挙げて上位を争っている。
横川:菅原俊吏騎手はオーストラリアで騎乗経験を持つ、珍しい経歴の騎手です。まずはそこから始めましょう。となると、競馬学校(JRA)に入れなかった話もしなくてはなりません。
菅原俊:競馬学校の試験に2度落ちたんです。どちらも減量が厳しくて。あと1kgか2kgくらいのところだったんですけど、無理に減量しているのが周りにも分かっていたみたいで・・・。
横川:それでも騎手になりたいという事でオーストラリアに渡ったわけですね。
菅原俊:あちらにある日本人学校に入りました。ライダーになるコースとトレーナーを目指すコースとがあるんですが、自分はライダーのコースで半年、それから紹介された調教師のところで半年修行しました。そのあとで、こっちで言う能力検査みたいなレースを20レースくらい乗ったのかな。それでOKが出ればライセンスが下ります。
横川:俊吏騎手のように騎手を目指してオーストラリアに渡る日本人は、どれくらいいたんですか?
菅原俊:そうですね、16~7人くらいはいましたね。僕のように地方やJRAの競馬学校に入れなかった人だけでなく、外国で騎手を目指そうと思い立って来た人もいました。トレーナーのコースに入る人もいたんですが、やっぱりトレーナーはコミュニケーションが難しいので、長続きした人はあまりいなかったように思います。
横川:今でこそ富沢騎手とか笹田騎手とか、海外でデビューして日本で騎乗する様になった騎手も珍しくなくなったけれど、俊吏騎手が行った頃は逆に"海外に行ったら日本に戻れない"と思われていた時期でしょう? それでも海外を目指したのはなぜ?
菅原俊:一度騎手を目指し始めたからには"騎手"というものを経験したかったんです。騎手ってどんなものだろう、レースってどんなものだろう、と。ビザの関係があって向こうでいつまでも騎乗するというわけにもいかない事も分かっていたし、一度あっちで乗ってしまえば日本に戻って騎手になれるとも思っていなかった。ビザが切れるまでやってみて、あとの事はそれから考えようと思っていましたね。結局あちらには、学校も含めて4年半ほどいました。
横川:それから日本で騎手を目指したわけですが、デビュー目前と思ったらいきなり存廃問題(2007年3月)で揺れる事に・・・。
菅原俊:直接試験を受ける制度があると聞いて日本に戻り、準備も兼ねて厩務員に。結局2年かけて2度目の受検で合格して騎手免許をもらったんですが、いきなり"廃止"という話になって。一度は廃止と決まりましたからね。"デビューできないのかな"とか悔しがったりする以前に、もう何も考えられなかったですね。
横川:あの時、もし岩手競馬が廃止になっていたらどうしていた? さらに他所で騎手を目指したとか?
菅原俊:いや、競馬とは関係ない仕事を探していたでしょうね。いろいろあって日本で騎手になるところまで来て、それでダメだったら縁がないんだろうと思って。
横川:しかし、今改めて振り返るとまだ5年目のシーズンなんですね。なんだかそれ以上の存在感があります。
菅原俊:そうですかね(笑)。最初の頃は自厩舎の馬にもなかなか乗せてもらえなかったですが、最近は良い馬にも乗せてもらえるようになったし、どんな風に乗ったら勝てるかも考えて戦えるようになりましたから。その辺がそう見えるのかも。
横川:オーストラリアの経験も活きている?
菅原俊:んー、レースの質は全然違うと思うんですが、例えば展開の読み方・流れの乗り方、勝負所からの動き方とかはいろいろ経験できたんで、それは活きていますね。あっちのレースの方が流れが厳しいというか、動きづらいですね。道中は隊列を崩さない感じで固まっていきますから。
横川:さて、リクエストがあったので質問します。盛岡と水沢の違い、乗り方の違いのようなものを、騎手としてはどんな風に意識していますか?
菅原俊:そうですね。やっぱり盛岡は力がある馬が力通りに勝つ、というイメージですね。コーナーが1つしかないレースが多いしスタート後の直線も長いから、少々不利があっても挽回できる、と思って乗れます。
横川:じゃあ水沢は気を遣う、と?
菅原俊:水沢は力がある馬でも展開で負けたりしますからね。"いい位置を取る"事を意識して狙っていかないと強くても勝てない事がある。盛岡はその点、あまりガリガリ行かなくてもなんとかなりますから。やっぱり水沢の方がいろいろ考える事が多いですね。
横川:今年は盛岡開催が長かったわけですが、レースに乗る方も戸惑ったんじゃ?
菅原俊:最初はやっぱり変な感じでしたね。もちろん初めてって事じゃないのでだんだんカンを取り戻していくんですけど、位置取りとか動くタイミングとか、結構みなしっくり来なかったんじゃないかと。最初の週に荒れたレースが多かったのは、そんな理由もあったかもしれません。
横川:水沢の騎手はずっと移動が続いたでしょう(※調整ルームは盛岡・水沢それぞれにあるので、盛岡開催時は水沢の騎手はバスで移動する)。辛くなかったですか。
菅原俊:自分はそうでもなかったですね。朝の厩舎作業とかを早めに切り上げて、あとはバスでゆっくりできるんで。自分はむしろ盛岡開催の方が楽でした(笑)。馬の方はかなり厳しかったですね。今年の夏も暑かったから、毎回の輸送がこたえてしまっていた馬が多かったように感じました。
横川:さて、このシーズンオフも遠征するそうですね
菅原俊:今年は佐賀に行く事になりました。こちらは3月の特別開催がないので、1月下旬から3月中旬までじっくり滞在します(※佐賀競馬より1月14日から3月20日まで、のべ4開催の期間限定騎乗が発表されました)。佐賀はM&Kで一度乗った事があるだけで、荒尾に滞在していた時に遠征で行くという話もあったけど行けなかったから、乗るのが楽しみです。
横川:この冬、福山で会った時、自分で「遠征好き」って言ってましたよね。
菅原俊:知らない所に行っても結構なじめるタイプなんですよ。ぼちぼちと乗った事がある競馬場が増えてきたから、いずれ全部の競馬場で乗ってみたいですね。
横川:さて、最後に。俊吏騎手から見て気になる騎手はいますか?
菅原俊:やっぱり齋藤雄一騎手かな。最初に見た時から思っていたんですが、馬のはまりが良い騎手だったんで、これは巧くなるなと。最近の活躍も"やっぱりな"という感じですね。世代も近いので負けないようにがんばらないと。
横川:齋藤騎手とのリーディング争いも楽しみにしています。ありがとうございました。
今「最近伸びている騎手は誰?」と問うたなら、水沢ならこの菅原俊吏騎手、盛岡なら齋藤雄一騎手の名を、誰もが挙げるだろう。なので、俊吏騎手の口から齋藤騎手の名が出た時は、やはり彼自身も意識しているのだなと改めて感じたり納得したりした次第。
年齢的に近く、ここ2、3年の年間勝利数もだいたい同じくらい。それだけに今年の齋藤騎手がグンと勝ち星を伸ばした事は、菅原俊吏騎手にとっても大きな刺激になっているだろう。来季の菅原俊吏騎手の活躍が楽しみだ。
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※インタビュー / 横川典視
現在岩手のリーディング首位に立つ村上忍騎手。イサ・コバに次ぐ万年3位は過去の話。08年、09年とリーディングを獲得したように、近年は普通に首位を争うポジションにつけている。各地の騎手招待競走に呼ばれる機会も増えてきたし、この冬は初の期間限定騎乗も経験し、名実共にトップジョッキーとなりつつある。
横川:今年の1月から3月、南関東で期間限定騎乗をしましたね。ご自身初の経験でもあったと思いますが、今振り返ってどうですか?
村上:うん......、良い刺激になった部分もあったけど、どちらかと言えば自分の至らなさに気付かされましたね。
横川:それはどんなところ? テクニック面とか?
村上:全てにおいて、かな。レースへ挑む姿勢なんかもそうですが、4つのコースを渡り歩きながら、きっちり乗りこなすところとかですね。南関東の4場はそれぞれひとクセあるコースばかり。自分が一番クセがないと感じたのは船橋ですが、それでも距離によっては乗りづらいものがある。岩手にいるとなかなか気付きづらいことがありましたね。
横川:そんな南関東で、また来年も騎乗する予定です。
村上:正直、今年の遠征の結果は自分でもあまり満足できていないんですよね。幸いまたチャンスをもらえたので、今度はもっと納得のいくレースをしたいなと。やっぱり一度だけではコースを覚えるくらいで終わってしまいますから、何度か行ってこそ、という部分もあると思うんですよ。次に行く時は、今年よりはいろいろイメージができていると思っているし、ちょっと古いけれど"リベンジ"っていう気持ちで狙っています。
横川:さて岩手では、リーディングを普通に争うようになりましたね
村上:ようやく......ね。ここ何年かは2人(菅原勲騎手・小林俊彦騎手)の背中が見え始めてきたかな。以前は3位といっても2人に大きく引き離された"不動の3位"でしたからね。その頃からすれば、がんばって戦えば1位もなんとかなるかも......くらいにはなりました。むしろ最近は、そうこうしているうちに若手の突き上げが厳しくて......。
横川:やっぱり若手の存在は気になりますか? というか村上騎手ってまだ"若手"のイメージもあるけれど......。
村上:もう"中堅"とも言えない年ですよ(今年で34歳、18シーズン目)。いや、まだそれほど若い騎手たちが怖いとは思わないけれど、ここのところ伸びてきているのは感じるし、自分の年からしてもあと何年かすれば本当の脅威になるでしょう。気を引き締めてかからないと。
横川:村上騎手の最大のライバルは村松学騎手だと思っていたのですが、引退してしまって......。
村上:学とは競馬学校からの同期で、あいつにはずっと負けたくないと思っていましたからね。最初のうちは学の方が乗れていて活躍もして、初重賞も先だったから(注:村松学騎手の初重賞は99年の東北優駿。村上騎手は00年のダイヤモンドカップ。地方通算100勝も村松学騎手が先に達成)。そんな、自分が負けている時期はなおさら、ライバルだったし目標でもあった。
横川:早く2人でリーディングを争うようになってよ。って、煽ったりもしたんですがね......。
村上:うん、自分でも学とリーディングを争うようになりたい、そうなるべきだ、って思っていましたからね。向こうもそう思っていたんじゃないですか。だから正直本当に残念なのですが、でも仕方がない面もある。減量のつらさは見ていて分かったし、良い機会を掴めたのだから、彼にとってはこれで良かったと思っています。
横川:競馬学校という単語が出たところで、村上忍騎手はなぜ騎手を目指そうと?
村上:やっぱり環境でしょうか。小さい頃はそれほど意識しなかったけれど、父が調教師(村上実調教師)だから徐々に競馬の事を考えるようになって。中学校くらいの頃には厩舎で馬に乗っていたりもしましたし。でも、その頃は"身体が成長してしまうんじゃないか"と思っていて決断はできなかったですね。中学校に入って余り大きくならなさそうだったから、それなら、と。
横川:お父さんは調教師としても騎手としても一時代を築いた方ですよね。"俺もあんな風になってやる!"って思って騎手になったわけでしょう?
村上:それはやっぱり思っていたでしょう(笑)! でもとてもそんな、うまくはいかなかった。デビューした頃は騎手の数が多かったし、当然自分の技術も無い。レースに乗る度にヘコんでいましたよ。
横川:そんな村上騎手を一人前にしてくれたのは、やっぱりトニージェント?
村上:そうですね、初めての重賞を勝てた馬だし、デビューから引退まで跨ったのはほとんど自分だけの思い入れのある馬です。でも自分をここまでにしてくれたのは、デビュー3年目くらいに出会ったアラブの馬でしたね。当時GIIって言っていたあたりのクラス(注:重賞のグレードではなく、かつて岩手ではクラスをGI、GII、GIII、GIV、GVと表記した)の馬ですが、自分で調教して何連勝かできて、大きな自信になりました。やっぱり、良い馬に出会える運、そのチャンスを活かして成績を伸ばせるかどうか。それが騎手の"その後"に直結している。自分はそのアラブや、トニージェント、トーホウエンペラーといった良い馬に若い頃に出会えたから、だから今の自分があると思っています。
横川:これからの"ムラシノ"はどんな騎手になっていくのでしょうか?
村上:調教師になろう、とかはあまり考えていないですね。むしろできるだけ長く馬に乗っていたいなと思っています。岩手はただでさえ厳しいところに大震災があって、自分の足元がどうなるかも予測できない状況ですが、それでも今はいつまでも騎手を続けたい、レースに乗っていたいと。まあ5年、10年経った時にどういう考えになっているかは分からないけれど、その時もやはり騎手を続けているんじゃないでしょうか。
横川:ありがとうございました
以前から思っていたのだが、今回、村上忍騎手と話して改めて感じた事がある。それは彼が騎手を辞めるとか辞めたいとか、そういう後ろ向きな言葉を出さない人だ、という事だ。
かつてかなり大きな落馬事故に遭い、顎を作り直すような大怪我をした事があった。その時も彼は「治ればレースに戻る」、それが当然であって、"治らなかったら......""騎手を続けられなくなったら......"みたいな疑念はつゆほども思っていないという顔をしていたものだった。
例えば南関東では相当厳しい思いをしていたはず。地元岩手の将来も決して安泰ではない。それでも「次こそは」「この先も騎手を続けていると思う」と、しれっと言えるしたたかさ。それが、"騎手・村上忍"が少しずつでも前に進んでいく原動力なのだろう。
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※インタビュー / 横川典視