菅原俊吏騎手は30歳にしてデビュー5年目の若手騎手。なんだか微妙な言い回しになってしまうのは、菅原俊吏騎手がオーストラリアでの騎乗経験を持ちながら日本でデビューを果たした希有な経歴の持ち主だからだ。
彼の地での勝利数は24。岩手での初勝利の際には「久々の実戦だったので感覚が戻りきっていなかった」という"新人"らしからぬコメントを残していた。デビューの年こそ13勝にとどまったが、翌年からは順調に勝ち星を伸ばし、昨季は84勝で4年目にしてリーディング5位。今季もすでに80勝を挙げて上位を争っている。
横川:菅原俊吏騎手はオーストラリアで騎乗経験を持つ、珍しい経歴の騎手です。まずはそこから始めましょう。となると、競馬学校(JRA)に入れなかった話もしなくてはなりません。
菅原俊:競馬学校の試験に2度落ちたんです。どちらも減量が厳しくて。あと1kgか2kgくらいのところだったんですけど、無理に減量しているのが周りにも分かっていたみたいで・・・。
横川:それでも騎手になりたいという事でオーストラリアに渡ったわけですね。
菅原俊:あちらにある日本人学校に入りました。ライダーになるコースとトレーナーを目指すコースとがあるんですが、自分はライダーのコースで半年、それから紹介された調教師のところで半年修行しました。そのあとで、こっちで言う能力検査みたいなレースを20レースくらい乗ったのかな。それでOKが出ればライセンスが下ります。
横川:俊吏騎手のように騎手を目指してオーストラリアに渡る日本人は、どれくらいいたんですか?
菅原俊:そうですね、16~7人くらいはいましたね。僕のように地方やJRAの競馬学校に入れなかった人だけでなく、外国で騎手を目指そうと思い立って来た人もいました。トレーナーのコースに入る人もいたんですが、やっぱりトレーナーはコミュニケーションが難しいので、長続きした人はあまりいなかったように思います。
横川:今でこそ富沢騎手とか笹田騎手とか、海外でデビューして日本で騎乗する様になった騎手も珍しくなくなったけれど、俊吏騎手が行った頃は逆に"海外に行ったら日本に戻れない"と思われていた時期でしょう? それでも海外を目指したのはなぜ?
菅原俊:一度騎手を目指し始めたからには"騎手"というものを経験したかったんです。騎手ってどんなものだろう、レースってどんなものだろう、と。ビザの関係があって向こうでいつまでも騎乗するというわけにもいかない事も分かっていたし、一度あっちで乗ってしまえば日本に戻って騎手になれるとも思っていなかった。ビザが切れるまでやってみて、あとの事はそれから考えようと思っていましたね。結局あちらには、学校も含めて4年半ほどいました。
横川:それから日本で騎手を目指したわけですが、デビュー目前と思ったらいきなり存廃問題(2007年3月)で揺れる事に・・・。
菅原俊:直接試験を受ける制度があると聞いて日本に戻り、準備も兼ねて厩務員に。結局2年かけて2度目の受検で合格して騎手免許をもらったんですが、いきなり"廃止"という話になって。一度は廃止と決まりましたからね。"デビューできないのかな"とか悔しがったりする以前に、もう何も考えられなかったですね。
横川:あの時、もし岩手競馬が廃止になっていたらどうしていた? さらに他所で騎手を目指したとか?
菅原俊:いや、競馬とは関係ない仕事を探していたでしょうね。いろいろあって日本で騎手になるところまで来て、それでダメだったら縁がないんだろうと思って。
横川:しかし、今改めて振り返るとまだ5年目のシーズンなんですね。なんだかそれ以上の存在感があります。
菅原俊:そうですかね(笑)。最初の頃は自厩舎の馬にもなかなか乗せてもらえなかったですが、最近は良い馬にも乗せてもらえるようになったし、どんな風に乗ったら勝てるかも考えて戦えるようになりましたから。その辺がそう見えるのかも。
横川:オーストラリアの経験も活きている?
菅原俊:んー、レースの質は全然違うと思うんですが、例えば展開の読み方・流れの乗り方、勝負所からの動き方とかはいろいろ経験できたんで、それは活きていますね。あっちのレースの方が流れが厳しいというか、動きづらいですね。道中は隊列を崩さない感じで固まっていきますから。
横川:さて、リクエストがあったので質問します。盛岡と水沢の違い、乗り方の違いのようなものを、騎手としてはどんな風に意識していますか?
菅原俊:そうですね。やっぱり盛岡は力がある馬が力通りに勝つ、というイメージですね。コーナーが1つしかないレースが多いしスタート後の直線も長いから、少々不利があっても挽回できる、と思って乗れます。
横川:じゃあ水沢は気を遣う、と?
菅原俊:水沢は力がある馬でも展開で負けたりしますからね。"いい位置を取る"事を意識して狙っていかないと強くても勝てない事がある。盛岡はその点、あまりガリガリ行かなくてもなんとかなりますから。やっぱり水沢の方がいろいろ考える事が多いですね。
横川:今年は盛岡開催が長かったわけですが、レースに乗る方も戸惑ったんじゃ?
菅原俊:最初はやっぱり変な感じでしたね。もちろん初めてって事じゃないのでだんだんカンを取り戻していくんですけど、位置取りとか動くタイミングとか、結構みなしっくり来なかったんじゃないかと。最初の週に荒れたレースが多かったのは、そんな理由もあったかもしれません。
横川:水沢の騎手はずっと移動が続いたでしょう(※調整ルームは盛岡・水沢それぞれにあるので、盛岡開催時は水沢の騎手はバスで移動する)。辛くなかったですか。
菅原俊:自分はそうでもなかったですね。朝の厩舎作業とかを早めに切り上げて、あとはバスでゆっくりできるんで。自分はむしろ盛岡開催の方が楽でした(笑)。馬の方はかなり厳しかったですね。今年の夏も暑かったから、毎回の輸送がこたえてしまっていた馬が多かったように感じました。
横川:さて、このシーズンオフも遠征するそうですね
菅原俊:今年は佐賀に行く事になりました。こちらは3月の特別開催がないので、1月下旬から3月中旬までじっくり滞在します(※佐賀競馬より1月14日から3月20日まで、のべ4開催の期間限定騎乗が発表されました)。佐賀はM&Kで一度乗った事があるだけで、荒尾に滞在していた時に遠征で行くという話もあったけど行けなかったから、乗るのが楽しみです。
横川:この冬、福山で会った時、自分で「遠征好き」って言ってましたよね。
菅原俊:知らない所に行っても結構なじめるタイプなんですよ。ぼちぼちと乗った事がある競馬場が増えてきたから、いずれ全部の競馬場で乗ってみたいですね。
横川:さて、最後に。俊吏騎手から見て気になる騎手はいますか?
菅原俊:やっぱり齋藤雄一騎手かな。最初に見た時から思っていたんですが、馬のはまりが良い騎手だったんで、これは巧くなるなと。最近の活躍も"やっぱりな"という感じですね。世代も近いので負けないようにがんばらないと。
横川:齋藤騎手とのリーディング争いも楽しみにしています。ありがとうございました。
今「最近伸びている騎手は誰?」と問うたなら、水沢ならこの菅原俊吏騎手、盛岡なら齋藤雄一騎手の名を、誰もが挙げるだろう。なので、俊吏騎手の口から齋藤騎手の名が出た時は、やはり彼自身も意識しているのだなと改めて感じたり納得したりした次第。
年齢的に近く、ここ2、3年の年間勝利数もだいたい同じくらい。それだけに今年の齋藤騎手がグンと勝ち星を伸ばした事は、菅原俊吏騎手にとっても大きな刺激になっているだろう。来季の菅原俊吏騎手の活躍が楽しみだ。
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※インタビュー / 横川典視
現在岩手のリーディング首位に立つ村上忍騎手。イサ・コバに次ぐ万年3位は過去の話。08年、09年とリーディングを獲得したように、近年は普通に首位を争うポジションにつけている。各地の騎手招待競走に呼ばれる機会も増えてきたし、この冬は初の期間限定騎乗も経験し、名実共にトップジョッキーとなりつつある。
横川:今年の1月から3月、南関東で期間限定騎乗をしましたね。ご自身初の経験でもあったと思いますが、今振り返ってどうですか?
村上:うん......、良い刺激になった部分もあったけど、どちらかと言えば自分の至らなさに気付かされましたね。
横川:それはどんなところ? テクニック面とか?
村上:全てにおいて、かな。レースへ挑む姿勢なんかもそうですが、4つのコースを渡り歩きながら、きっちり乗りこなすところとかですね。南関東の4場はそれぞれひとクセあるコースばかり。自分が一番クセがないと感じたのは船橋ですが、それでも距離によっては乗りづらいものがある。岩手にいるとなかなか気付きづらいことがありましたね。
横川:そんな南関東で、また来年も騎乗する予定です。
村上:正直、今年の遠征の結果は自分でもあまり満足できていないんですよね。幸いまたチャンスをもらえたので、今度はもっと納得のいくレースをしたいなと。やっぱり一度だけではコースを覚えるくらいで終わってしまいますから、何度か行ってこそ、という部分もあると思うんですよ。次に行く時は、今年よりはいろいろイメージができていると思っているし、ちょっと古いけれど"リベンジ"っていう気持ちで狙っています。
横川:さて岩手では、リーディングを普通に争うようになりましたね
村上:ようやく......ね。ここ何年かは2人(菅原勲騎手・小林俊彦騎手)の背中が見え始めてきたかな。以前は3位といっても2人に大きく引き離された"不動の3位"でしたからね。その頃からすれば、がんばって戦えば1位もなんとかなるかも......くらいにはなりました。むしろ最近は、そうこうしているうちに若手の突き上げが厳しくて......。
横川:やっぱり若手の存在は気になりますか? というか村上騎手ってまだ"若手"のイメージもあるけれど......。
村上:もう"中堅"とも言えない年ですよ(今年で34歳、18シーズン目)。いや、まだそれほど若い騎手たちが怖いとは思わないけれど、ここのところ伸びてきているのは感じるし、自分の年からしてもあと何年かすれば本当の脅威になるでしょう。気を引き締めてかからないと。
横川:村上騎手の最大のライバルは村松学騎手だと思っていたのですが、引退してしまって......。
村上:学とは競馬学校からの同期で、あいつにはずっと負けたくないと思っていましたからね。最初のうちは学の方が乗れていて活躍もして、初重賞も先だったから(注:村松学騎手の初重賞は99年の東北優駿。村上騎手は00年のダイヤモンドカップ。地方通算100勝も村松学騎手が先に達成)。そんな、自分が負けている時期はなおさら、ライバルだったし目標でもあった。
横川:早く2人でリーディングを争うようになってよ。って、煽ったりもしたんですがね......。
村上:うん、自分でも学とリーディングを争うようになりたい、そうなるべきだ、って思っていましたからね。向こうもそう思っていたんじゃないですか。だから正直本当に残念なのですが、でも仕方がない面もある。減量のつらさは見ていて分かったし、良い機会を掴めたのだから、彼にとってはこれで良かったと思っています。
横川:競馬学校という単語が出たところで、村上忍騎手はなぜ騎手を目指そうと?
村上:やっぱり環境でしょうか。小さい頃はそれほど意識しなかったけれど、父が調教師(村上実調教師)だから徐々に競馬の事を考えるようになって。中学校くらいの頃には厩舎で馬に乗っていたりもしましたし。でも、その頃は"身体が成長してしまうんじゃないか"と思っていて決断はできなかったですね。中学校に入って余り大きくならなさそうだったから、それなら、と。
横川:お父さんは調教師としても騎手としても一時代を築いた方ですよね。"俺もあんな風になってやる!"って思って騎手になったわけでしょう?
村上:それはやっぱり思っていたでしょう(笑)! でもとてもそんな、うまくはいかなかった。デビューした頃は騎手の数が多かったし、当然自分の技術も無い。レースに乗る度にヘコんでいましたよ。
横川:そんな村上騎手を一人前にしてくれたのは、やっぱりトニージェント?
村上:そうですね、初めての重賞を勝てた馬だし、デビューから引退まで跨ったのはほとんど自分だけの思い入れのある馬です。でも自分をここまでにしてくれたのは、デビュー3年目くらいに出会ったアラブの馬でしたね。当時GIIって言っていたあたりのクラス(注:重賞のグレードではなく、かつて岩手ではクラスをGI、GII、GIII、GIV、GVと表記した)の馬ですが、自分で調教して何連勝かできて、大きな自信になりました。やっぱり、良い馬に出会える運、そのチャンスを活かして成績を伸ばせるかどうか。それが騎手の"その後"に直結している。自分はそのアラブや、トニージェント、トーホウエンペラーといった良い馬に若い頃に出会えたから、だから今の自分があると思っています。
横川:これからの"ムラシノ"はどんな騎手になっていくのでしょうか?
村上:調教師になろう、とかはあまり考えていないですね。むしろできるだけ長く馬に乗っていたいなと思っています。岩手はただでさえ厳しいところに大震災があって、自分の足元がどうなるかも予測できない状況ですが、それでも今はいつまでも騎手を続けたい、レースに乗っていたいと。まあ5年、10年経った時にどういう考えになっているかは分からないけれど、その時もやはり騎手を続けているんじゃないでしょうか。
横川:ありがとうございました
以前から思っていたのだが、今回、村上忍騎手と話して改めて感じた事がある。それは彼が騎手を辞めるとか辞めたいとか、そういう後ろ向きな言葉を出さない人だ、という事だ。
かつてかなり大きな落馬事故に遭い、顎を作り直すような大怪我をした事があった。その時も彼は「治ればレースに戻る」、それが当然であって、"治らなかったら......""騎手を続けられなくなったら......"みたいな疑念はつゆほども思っていないという顔をしていたものだった。
例えば南関東では相当厳しい思いをしていたはず。地元岩手の将来も決して安泰ではない。それでも「次こそは」「この先も騎手を続けていると思う」と、しれっと言えるしたたかさ。それが、"騎手・村上忍"が少しずつでも前に進んでいく原動力なのだろう。
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※インタビュー / 横川典視
3年ぶりに地方全国交流として復活したダービーグランプリで、ロックハンドスターを岩手三冠馬に導いた菅原勲騎手。11月29日には、地方競馬史上6人目、現役では4人目となる地方競馬通算4000勝も達成しました。長きに渡って、岩手のみならず地方競馬のトップジョッキーとして活躍を続けています。
横川:騎手をめざしたきっかけは?
菅原:おじが地方競馬の調教師をやっていて父は厩務員。小さい頃から競馬場に来て厩舎で遊んだりしていたから、"馬がいる世界"には自然にとけ込んでいたね。その頃はまだ繋駕(ケイガ)競走があって、調教師兼騎手だったおじが繋駕に乗ってレースをしているのを応援したりしていた。
横川:小さい頃から競馬が近くにあったんですね。
菅原:まあその頃は、競馬がどうの騎手がどうの、というのは分からなかったから、ただ馬やレースを見ていただけ。騎手になろうとも考えていなかったと思うけど、父は自分を騎手にしたかったみたいだね。
自分も馬が好きだったし、身体もそんなに大きくならなかったから、自分でもわりと自然に騎手になろうと思うようになったな。
横川:そしてデビュー直後から新人らしからぬ活躍が始まりました。
菅原:最初のうちはただただ夢中だった。がむしゃらにレースに乗ってね。新人としてはよく勝っていた方だと思うけれど、あの頃は馬の力で勝っていただけ。自分が"凄い"とか"上手い"と思ったことはなかった。
周りが応援してくれたおかげで新人のわりにはいい馬に乗せてもらえたかな。いい馬、強い馬というのはレースをよく知っているから、馬が教えてくれるんですよ。仕掛けるタイミング、どこでどう動けばいいかってことをね。
運が良かったというか恵まれてはいたかもね。そうやっていい馬に乗って"こうやったら勝てる"という感覚を早くから掴めたのは有利だったと思う。
横川:ある程度騎手をやったらすぐ調教師になろうと思っていたそうですね。
菅原:その頃は周りがみなそうだったからね。30歳くらいまで騎手をやったら調教師になる...というのが普通だったから、自分もそういうものだと思っていた。騎手をやるのは調教師になるための勉強期間というか訓練期間というか、騎手をやりながら馬の扱い方や調整の仕方を覚えて、調教師になるのが"あがり"だと考えていた。
横川:それが結局、30年近く騎手を続けることになりました。
菅原:ちょうど30歳くらいの頃に、いい馬に立て続けに出会ったんだよ。トウケイフリートやトウケイニセイに乗ったのが自分が30歳前後の頃。アラブの強い馬にもたくさん出会えた。新潟や上山に遠征して勝つこともできたし、レースが面白くて仕方がなかった。
トウケイニセイが引退する時、自分も一緒に引退しようと思っていた時があったんだよ。トウケイニセイで勝ちまくったし、サラもアラブも若い馬から古馬までめぼしいレースはみな勝った。できることは全部やってしまった、もうこれ以上のことはないだろう...と思っていたんだよね。
横川:その頃が一番悩んだというか、ムチを置くかどうかの瀬戸際だったんですね。
菅原:強いて言えばそうだね。やっぱり辞めるとしたらいい時を選びたいでしょう。落ち目になって辞めざるを得なくなるくらいなら、一番いい時、自分がピークの時に辞めてしまうのがいいんじゃないか、ってね。
それに、その頃は騎手としてのピークはせいぜい30代前半、気力や体力が充実しているのは若い頃だけだって思っていたから。
横川:でも、すでに50歳が見えるくらいになりましたね...。
菅原:やってみると乗れるなと思うんだよね。30歳くらいの頃は"40歳くらいまでは大丈夫だろうな"、40歳になれば"もうちょっと乗れるかな..."。60歳までとは言わないけど、まだもう少し続けられると思うよ。
横川:"予定通り"に引退していたら、GIを勝つことも4000勝もなかったですしね。
菅原:トウケイニセイの後はメイセイオペラ、トーホウエンペラーと続いたから、もうちょっと、もうちょっと...と思ううちにここまで来てしまったね。
自分がデビューした頃はまだ、岩手は一介の地方競馬に過ぎなかったけれど、だんだん盛り上がるようになって売上げも上がって、全国的に注目される馬も出てきて、自分のキャリアもちょうどそのカーブと一緒に上がってきてね。いい時期に騎手になったな、とは思う。
まあ、今思えば辞めなくて良かったよね。これからは...どうか分からないけどね!
横川:今と昔、レースの仕方とかレースに対する姿勢とかは変わっていますか?
菅原:若い頃は勝つことにこだわっていたよね。とにかく一つでも多く勝とう、ライバルよりも多く勝とうとしていた。だから昔は、周りから見てピリピリしていたというかガツガツしていたというか、余裕がなかったんじゃないかな。
横川:昔は、リーディング争いが佳境にはいる頃はもの凄く怖い雰囲気になっていたような記憶があります。
菅原:負けるのがとにかく嫌だったからね。リーディングを獲ることなんかにも凄くこだわっていた。今は勝ち星の数よりはレースの中身、いかに気持ちよく勝つかとか、馬に楽に勝たせてやりたいとか、そんなことを考えるようになったね。
正直リーディングを獲ること自体には、今はあまり関心がないな。一つ一ついいレースを積み重ねて、その結果として1位になるのならいいけれど、そのために勝ちに行く、っていうのは、あまりね。
あ、でもリーディングを獲らないと佐々木竹見カップに選ばれないのか。あのレースは面白いからぜひ出たいものね。
横川:ということは、5000勝、6000勝と積み重ねていくというのは...。
菅原:いやあ、とてもとても。4000勝に届いたこと自体が自分では信じられないこと。そこまでは騎手をやってないよ、たぶん。
横川:さて、こうして騎手を続けてきて一番辛かった出来事はなんでしょうか?
菅原:やっぱり怪我をして騎乗できなかった時だね(2004年8月からシーズンいっぱい騎乗できず)。あまり大きな怪我をしてこなかったから、あれだけ長く乗れなかったのは初めて。乗りたいと思うのに身体が言うことを聞かないから乗れない。気ばかり逸って焦る。
結局そのシーズンを全部休んで次のシーズンからのスタート、元通り乗れるようになるのか?って、実際に乗ってみるまで不安があったしね。
横川:では反対に良かったことは?
菅原:好きなことをこれだけ続けてこられたのがまずひとつ。それから、調べてもらえば分かると思うけど、ここ最近の岩手の代表的な馬にはほとんど乗っていたんだよ。サラもアラブも。そんな歴史に残るような名馬たちに乗って戦ってきた、っていうのは自慢できるよね。
横川:一番思い出に残る馬を挙げるとすると...?
菅原:前も話したけど、やっぱりスーパーライジンかな。自分に最初の重賞勝ちをプレゼントしてくれた馬。あの馬のおかげで強い馬に乗った時の戦い方を身をもって覚えることができた。デビューしてすぐあの馬に出会えたから今の自分がある、そう言ってもいいと思う。
横川:もちろんトウケイニセイもですね。
菅原:本当に強かった。どんなに強い馬でもね、"あ、これは負けそうだな"という気持ちというか雰囲気みたいなものを見せてしまうもの。でもニセイは違った。どんな相手でもどんな展開になっても勝とうとする気持ちを失わなかった。別格だね。
横川:最後に、話題の馬ということでロックハンドスターについて。
菅原:やはり遠征に出て揉まれたことがね、結果はともかく馬には良かったと思う。強いライバルと戦っていかないと馬は伸びないものだからね。ダービーグランプリは期待通り、いやそれ以上のレースをしてくれた。地元の馬が活躍して、競馬を盛り上げていかないとね。
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※インタビュー / 横川典視
今年も11月16日に開幕した、全国の女性騎手の戦い『レディースジョッキーズシリーズ』。毎年熱い戦いを見せてくれているレディースたちの中でも、一際明るくムードメーカー的存在の、岩手・皆川麻由美騎手にお話を伺いました。
赤見:まず始めに、騎手を志したきったけを教えて下さい。
皆川:話せば長いんですけど、いいですか?
赤見:もちろんです!たっぷりお願いします。
皆川:中学の時、たまたま本屋さんで「風のシルフィード」という漫画を見つけて。それを読んで、騎手って女性でもなれるんだって知って、自分も騎手になりたい!と思ったんです。まずは馬に乗りたいと思ったんですけど、その時はそういう環境じゃなかったので、夢見るだけでした。
もともと転勤族で色んな所にいたんですけど、中学校の時に岩手に引っ越して、それから乗馬を始めることが出来ました。それまで飽きっぽかったのに、もうかなりのめりこみましたね。高校も水沢農業に入って、乗馬を続けました。
その頃には、騎手っていうよりも、馬関係の仕事に就けたらいいなと思っていたんです。高校を卒業してからは、遠野の馬の里に就職して、牧場厩務員をしてました。 その牧場の場長や前場長の方が、「騎手になってみないか?」って言ってくれたんです。
赤見:それじゃ、スカウトですね?
皆川:ある意味そうですね。最初は戸惑ったんですけど、昔なりたいと思っていたので、挑戦するだけでもしてみようと思って。
それを話したら、「挑戦するだけじゃ駄目だ!やるなら絶対受かるっていう気持ちでやれ!」って言われて、受験までビシビシ鍛えられました。
ただ...とにかく減量がキツかったですね。その時50キロ以上あったので、それを43キロ以内にしないと騎手学校を受けられないじゃないですか。7キロ以上落としたんで、本当に大変でした。
学校に合格出来たのは、周りの人たちの支えがあったからですね。
赤見:実際に入所してからはどうでした?
皆川:入ってからは体重も安定したし、同期では女子1人でしたけど、1期上に岩永千明騎手がいたので心強かったし、特に大変だとは思いませんでした。
赤見:そして、いよいよデビューという時は?
皆川:もうドキドキしましたよ。デビュー戦はやばかったですもん。
記憶ないくらいで...いや記憶はあるんですけど(笑)。スタート良くて前めに付けていたのに、3コーナーから下がる一方で...あっという間に終わっちゃった感じです。
赤見:思い出のレースは?
皆川:06年のシルバーステッキ賞で、グルグル本命だった【ケイアイオラクル】に乗せてもらったことです。あの時はかなりプレッシャーがありましたけど、その中で勝てたことはすごく大きいですね。
それから、新馬戦からずっとコンビを組んだ【アンマル】。2歳を最初からずっと乗せてもらうなんてなかなかないので。認定レース勝った時には、泣きましたね。
赤見:では、一番辛かったことは?
皆川:やっぱり今年4月の怪我ですね。最初、骨折していることもわからなくて、頚椎損傷だけだと思ってたんです。それが、後から圧迫骨折がわかって、病院も変えて、入院も長くて、体重も増えていくし...。
このまま辞めようかなって考えもしたし、とりあえず復帰はしたいと思ったけど、そこで全然駄目だったら辞めようかなっていう考えもありました。
赤見:9月に無事復帰しましたが、どうでしたか?
皆川:やっぱり馬乗りって楽しいなって思いました!
それに、毎年レディースがあるので、これも本当に楽しみですね。今まで3位が3回で...2位はないのか?!1位はないのか?!って感じなんですけど(笑)。
去年8位であんまり振るわなかったけど、今年も虎視眈々と狙いたいです!!
赤見:それでは、ファンの方にメッセージをお願いします。
皆川:岩手競馬は、大変な状況が続いてますけれど、中でやってる人たちはみんな一生懸命で。そこをわかってくれてるファンの人たちが多いので、これからも応援よろしくお願いします。
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※インタビュー / 赤見千尋
岩手リーディングを獲得すること5回。長きに渡って岩手競馬のトップジョッキーとして君臨してきたのが小林俊彦騎手。2009年には日本プロスポーツ大賞功労賞を受賞した小林騎手に、これまで、そしてこれからを語っていただいた。
まずは受賞おめでとうございます。
■ありがとうございます。受賞が内定したという連絡を受けたのが11月頃。それを聞いたとき、正直な話『自分でいいの?』と思いました。ただ、昨年まで長く騎手会の会長をしていましたし、存廃問題でいろいろあったときに存続の活動もしましたし、そのあたりが評価されたのかなと。でも授賞式の会場に行ってビックリ。全員の控え室が同じだったもので、そこにいるメンバーがすごい人ばかりなんですよ。そこで改めて、大変な賞をいただいたんだなという実感が湧きました。
これまでに積み重ねた勝利は3000以上。しかし騎手人生の初期には苦労があった。
■秋にデビューしましたがシーズン終了までに勝てなくて、ひと冬越しちゃったんですよね。確かにあせりはありました。それに昔は騎手が40人くらいいて、乗るだけでも大変でしたし。そんな状況をなんとかしようと、調教から率先して手伝うようにしました。だから1日の仕事が終わるとぐったり。その頃は10代でしたが、遊びに行ける元気さえ残っていなかったですね。
その努力の甲斐あって、当時の1日の騎乗数上限(6鞍)の依頼が集まるまでには5年ほどで到達。区切りの勝利を達成する年数も、だんだん短くなってきた。
■27年、長いようで短いですね。見ている人にはわからないかもしれませんが、今でも毎年、乗り方が微妙に違うんですよ。競馬の姿に合わせて柔軟に対応できるというのは、長く騎手を続けるひとつのポイントかもしれません。日々の柔軟体操も欠かせないですが(笑)。昔は体が軽すぎて苦労しましたが、やはり年とともに少しずつ増えてきて。今は油断すると52kgほどになってしまいます。だから今年はサウナによく入っていますよ。競馬の日には50kgを切っておかないと厳しいですから。
■もちろん今年は取るつもりでいますよ。調教師に転身なんて気持ちは全然ないですし。先日、船橋の桑島孝春騎手が引退を発表しましたが、あのくらいの年齢(55歳)までやれたらいいなと思っています
そう思える原動力のひとつが、菅原勲騎手の存在だろう。
■教養センターに入ったとき、菅原さんが1つ上の先輩で、いろいろ面倒をみてもらっていたんですよ。同じ岩手で騎乗するようになって、菅原さんは早くにリーディング争いに加わりましたから、どちらかというと尊敬の念で見ていましたね。そのうち僕もリーディングを取れるようになりましたが、今でもたぶんお互いにライバルとは思っていないんじゃないかなあ。馬にしても、たとえば大レースをいくつも制したモリユウプリンスだって、スイフトセイダイという強敵がいたから自分を高められたんだと思いますし。個人的に菅原騎手はいいお手本という感覚ですが、追いつけ追い越せという気持ちは忘れなかったですね。
そうして切磋琢磨を重ねた小林騎手だが、転機になる出来事もあった。
■リーディングを初めて取った次の年(1999年)に、スタートで馬が転んで落馬して、そのあと馬の体が覆いかぶさってきたんです。それで入院したら、仙骨(骨盤の中心部にある)の骨折と診断されて3週間寝たきり。結局1カ月間入院して、1カ月半をリハビリに費やしました。今思えば一歩間違えば......ですが、当時は休んでいることが本当にもどかしくて。今みたいにパソコンで競馬を観るなんてできませんし、あきらめてリハビリに取り組むしかなかったですね。でもそこでいろいろ考える時間ができたんです。やっぱり自分には馬に乗るしか道はないし、あせらずにやっていこうと。競馬でもそうですが、なるようにしかならない、そう思えるようになったのは、それからですね。
そんな経験もあって、レースではより余裕をもって状況判断ができるようになったとのこと。そうして熟成されていった技が、岩手ダービーダイヤモンドカップ制覇へとつながっているのかもしれない。
■オウシュウクラウンは、冬の間南関東に行ってきてから急に強くなりましたね。おそらくむこうの調教で精神面が鍛えられたんだと思います。ただ、古馬になって脚元に不安が出て、それから体に無理が出てしまって。競走馬は難しいですよ。マヨノエンゼルでもダービーを勝たせていただきましたが、それは今でも感じます。
その岩手ダービーの舞台でもある盛岡競馬場には、どんな特徴があるのだろうか。
■盛岡はある程度、実力がある馬がそのまま結果を出せるコースですね。自分で乗っていても、盛岡のほうが馬の全力を出し切らせやすいと感じます。1200mでも差しが届くことがありますし、道中あせる必要がありません。逆にあせると失敗してしまうコースだと思います。
オーロパークがオープンして14年。そのコースを手の内に入れているベテラン騎手は、若手騎手にとっては先生とでもいえるような存在で、これからも騎乗を続けていく。
■教養センターにいた頃はよく怒鳴られました。でもそれは当然のことで、何か変なことをすると馬のケガにも自分のケガにもつながりますから。だから僕は、レースで危ないことがあったら大きな声を出しますよ。そこで、なぜ怒られているのかが理解できた人間が、騎手として成長していくんでしょうね。
ケガなく乗ることが第一とはいいつつも、昨年惜しくも届かなかったリーディングを目指す意欲は満々。「この仕事が合っているんでしょうね。馬が好きだし勝負事が好きだし」とも。レースへの思いは昔と同じで、日々やりがいを感じているという小林騎手は、まだまだトップジョッキーであり続けることだろう。
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小林 俊彦(岩手)
1965年3月26日生まれ おひつじ座 B型
岩手県出身 小林義明厩舎
初騎乗/1982年10月16日
地方通算成績/16,582戦3,387勝
重賞勝ち鞍/エーデルワイス賞GⅢ、不来方賞5回、
みちのく大賞典4回、北上川大賞典4回、シアンモア記念3回、
桐花賞2回、報知オールスターカップなど77勝
服色/胴緑・桃星散らし、そで桃
※成績は2010年5月20日現在
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(オッズパーククラブ Vol.18 (2010年7月~9月)より転載)
現在も節制を続け、トップの座を守っている小林騎手。昨年はわずかの差でリーディングトップの座を逃した。