
今年がデビュー15年目になる陶文峰(とう ぶんほう)騎手。昨シーズンはドリームクラフトとのコンビで重賞4勝を挙げ、同馬を2013年度の岩手競馬年度代表馬に導きました。また、2004年にトキオパーフェクトで2勝を挙げて以来、久しく遠ざかっていた重賞制覇でもあり、昨シーズンは陶騎手にとって記念すべき1年となりました。
まずはですね、"ドリームクラフトって陶騎手から見てどんな馬?"という質問からいきましょうか。
レースがよく分かっている馬ですね。どこから動き出してどこで脚を使うか自分で知っていて毎回3~4コーナーで伸びてくれる。乗っている僕が邪魔しなければ力を出してくれる馬ですよ。
勝った重賞は全部水沢で、"盛岡は苦手なのか?"とも言われていますが?
いや、盛岡も決して苦手ではないと思うんですよ。クラスターカップ(7着)の時も上がり34秒6とかで走っていて上位の馬がもっと走ったというだけだし、シアンモア記念で2着になった時も走りや手応えは凄く良かったんで、あれで盛岡は走らないという感じはしないんです。勝った馬が強かったとか上手く走ったとかそんな感じで、ドリームクラフト自身はそんなに悪い走りだったわけじゃないと思います。
確かにシアンモア記念の2着はレース内容が良かったし、それに水沢でだって負けた事があるわけだしね。
盛岡で勝ててないのは距離もあるかな。マイルはちょっと長い。長いというか脚の使い所が難しいですね。短すぎる距離だと忙しくて合わない。1400mがやっぱり一番良くて、この距離なら馬が自分で動いてくれるし捲っていく時の手応えも凄いからね。
盛岡が芝もダートもイマイチだったのは、盛岡のコース形態だとこの馬が動きたいところに必ず坂があるからかな?とか想像しているけど?
そういうのはあるかもしれませんね。3コーナーからずっと下ってきてすぐ登りですからね。あと、58kgとかの重い斤量をちょっと気にするのかもしれない。
ドリームクラフトでトウケイニセイ記念を制してガッツポーズ
ドリームクラフトの転入初戦、去年の3月の開催で勝った時から「これはかなり走る」って言ってましたよね。
最初はダートの1800mでね。調教師からも「芝の方が良いんじゃないか」って言われてて自分もそのつもりで挑んだけど、3コーナーあたりからガツンとハミを取って、あれっ?と思った時にはもう周りの馬が止まって見えるくらいの脚。これはダートでも走るなと。その頃は芝馬っぽい素軽い走りって言うんですか、そんな走りだったけど徐々に変わってきて。馬体重も440kg台でしたがその後は450kg台後半になって。パワーが増してきたんじゃないかな。
陶騎手はトーホウエンペラーとかデンゲキヒーローとかも知っているわけだけど、そういう馬たちと比べた時はどう?(注:トーホウエンペラーは千葉四美厩舎に所属していた時に調教を付けていたことがある。デンゲキヒーローはキャリア終盤にコンビを組み、04年の名古屋グランプリGIIで3着がある)
トーホウエンペラーやデンゲキヒーローはパワー型でしたよね。重賞を勝ったトキオパーフェクトはスピード型。そんな馬たちに比べるとドリームクラフトはちょっと違いますね。短い距離で勝っているけどスピードで押す馬ではなくて、そういう距離でキレる脚があるタイプ。コウギョウデジタルと似ているところがあるなと感じるんですよ。レース中に気を抜く時は抜きすぎるくらいなのに何かのきっかけでスイッチが入ってグッとハミを取ったり。同じアグネスデジタルの産駒だからかな?と思ったりしますね。
デンゲキヒーローで挑んだ2004年12月の名古屋グランプリは3着
陶騎手は中国の生まれ(中国黒竜江省生まれの中国籍。数少ない日本で免許を取得した外国人騎手)で、日本に来たのはいつでしたか?
12歳の時ですね。日本に来た時にはもう中学生の年齢だったけど、日本語がよく分からないという事で最初は妹と二人で小学校に入ったんです。妹が小五の年齢だったので二人で小学校5年生ね。で、妹と一緒に小学校を卒業して、妹は普通に中一だけど自分はすぐに中二に飛び級みたいな感じで上がったんです。
水沢農業高校で馬術部に入ったわけですが、それは馬が好きだったから?
いや、最初はサッカー部に入ろうと思っていました。友達に誘われて馬術部を見に行って、それで入ったんです。中国時代は家に農耕馬がいたけど、大きくて怖かったからあまり近寄ったことがなかったですからね。
水農馬術部から競馬の世界...って、岩手競馬では出身者が多い路線だよね。
馬術部の頃にアルバイトってことで水沢競馬場でポニーを引く係をやったことがあって、競馬を見て凄いなと思って。そんな時に千葉四美調教師(当時)に誘われたんです。日本に来ていろいろな仕事に興味があったけど馬の仕事もいいな...と思って騎手を目指すことに。でも長期過程を二度落ちたんです。当時は体重も増え始めていたからどうしようかと思ったけど、短期過程があるからということで受けて合格しました。
陶騎手もベテランの年になったから水農出身の後輩も増えてきたと思うけど、先輩風吹かしたりしてないの?
いや、ないですよ(笑)。俊吏(菅原俊吏騎手)が一つ下、皆川(麻由美元騎手)が二つ下になるけど、もっと上の先輩もたくさんいますからね。伊藤和調教師や瀬戸幸一調教師、吉田司調教師、高橋純調教師。自分はとても威張ったりできない。
重賞初制覇をもたらしたトキオパーフェクト(2004年OROカップ)
えー、ではドリームクラフトに戻って。今年はどんな成績を残したいですか?
年度代表馬を2年連続で取る、というのはめったにないことだろうし、それができるのは年度代表馬を取った次の年なので、今年も狙っていきたいです。勝つべきレースをきっちり勝てるようにしたいですね。あとは盛岡で勝ちたいですね。さっきも言ったように盛岡がダメだとは思ってないので、盛岡でも強いドリームクラフトを証明したいです。
自分自身は?
この年になると毎年"今年はどこまでやれるかな?自分はあとどれだけやれるのかな?"って感覚になってくるんです。でも、これまでも自分が苦しい時に良い馬に出会って助けられてきた。トキオパーフェクトとかデンゲキヒーローとかね。今はドリームクラフトがそうなんだと思う。良い馬で必ずしも良い結果を出せなかったとも思うから、ドリームクラフトではきちんと結果を出して、期待に応えたいですね。
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※インタビュー・写真 / 横川典視
太田陽子騎手はオーストラリア・ヴィクトリア州にベースを置いて活躍している、いわゆる『外国で騎乗する日本人騎手』。その中でもかなり初期の一人だ。
今年9月に日本で騎乗する短期免許を取得、10月5日から岩手競馬で騎乗を開始して実質3週間で10勝を挙げる"太田旋風"を巻き起こし、一躍ファンの注目を集める存在になった。
実は10月26日のレース中に落馬・負傷して現在は治療休養中。免許期間を延長して復帰を目指している段階なのだが、その辺も含めてお話をうかがった。
横川:太田さんは普通の家庭の出身と聞いたのですが、競馬や騎手に興味を持ったきっかけは何だったんですか?
太田:小学生の頃、親に連れられて中京競馬場に行ったんですよ。ちょうどその頃、親が転勤で名古屋に移って、引っ越した先が競馬場の近くだったんですね。ちょうど競馬ブームの頃だし"じゃあ競馬というものを見てみるか"という事だったみたい。そこで見た騎手に憧れて......が最初ですね。競馬自体は、その頃はちょっと荒っぽいおじさんとかがあちこちにいて最初は怖かったんですけど(笑)、騎手はいいなと。
横川:そして高校では馬術部に入ったんですね。
太田:親からすれば私を試したんでしょうね。「本当に馬が好きなのか、馬の仕事でやっていけるのか、3年間考えてみなさい」と。それまでは馬に触った事もなかったわけですからね。鳴海高校の馬術部に入って初めて馬房の掃除をやったとき、「これだ!」って思ったんですよ。楽しくてしょうがなかった。この世の中にこんな楽しい事があっていいんだろうか?って。馬術部の練習を中京競馬場でやっていたんですよ。練習の後にコースを見せてもらったことがあって、コースからスタンドを見上げた時、「こんな凄い所で走れるのか」と感動したのを覚えていますね。
岩手での初騎乗はやや緊張気味(10月3日・盛岡第5レース)
横川:オーストラリアで騎手になろうと決意したのはその頃ですか?
太田:当時は自分も親も競馬の事に詳しくないですから、騎手になるにはJRAや地方競馬の競馬学校に入らないといけない......くらいは知っていましたが、どっちがどうとかよく分かってなかったんですね。その頃の自分はちょっと体重が重くなりそうな感じがあったんです。今から思えば、少し様子を見ながら、体重を調節しながら合格を目指す......という方向もあったかも。でも当時は良く知らなかったから、"じゃあオーストラリアで騎手を目指そう"みたいな。
横川:と、さらっと言いますが、当時(90年代後半)はオーストラリアで騎手に......という情報も今ほどには豊富じゃなかったですよね。
太田:これも今から思うと不思議なんですけど、何かのきっかけでそういう情報に気付いたんですね。好きな事とか関心がある事ってどんなに小さい記事でも目が惹かれるじゃないですか。"オーストラリア・騎手"という情報に、何かひっかかるものがあった。"海外で騎手か。英語も苦手だけど、まとめて挑戦してみよう"そんな風に思ったんですね。
横川:そしてクイーンズランド州の養成学校に入った。学校ではスムーズに進んでいったんですか? 騎乗の授業とか。
太田:学校に入って1週間目くらいかな、学校の近くにある調教場で朝の調教を見ていたんです。日本人の先輩たちは学校以外にも厩舎で働いたりして覚えていると聞いたから、自分もどこかの厩舎に見つけてもらおうと思ってうろうろしていた。すると、あるトレーナーさんから声をかけられた。「働きたいなら厩舎に来な」って。それっぽい事を言っていた......と思うんですよ。その頃は英語全然分からないから(笑)。それから毎日、厩務員さんに仕事や英語を手取り足取り教えてもらいながら覚えていった。
横川:学校の授業以外にもそうやって仕事をしていたんですね。
太田:むしろそれが普通でしたね。他の生徒もそうだったし。本当にいろいろ教えてもらえました。しばらくそこで働いて、その後は調教に乗せてもらえる所に移ったりして。もちろんそれは無給ですよ。でも学校の勉強だけじゃなくて厩舎で実際に働きながら覚える事ができたのが、今にして思えば大きかったですね。
横川:学校は1年間だったんですか?
太田:初級コースが1年、その後に上級コースが半年ですね。その後にジョッキーコースの授業が4ヶ月くらい。そこで3人だけ残りました。私と、富沢希君と、それから池主貴秀君。ジョッキーコースに入ると競走馬を1人1頭与えられるんです。それを全部自分の判断で世話して、調教して、トライアルレースをする。2回やって2回とも2着でしたが面白かった!
横川:そこからアプレンティス、見習い騎手になっていくわけですね。
太田:卒業の時に校長に言われたんですよ。「ヨーコ、君の身体は騎手には向いてないから止めた方がいい」って。体重が重いだろう、という事なんですが、今さらそんな事で止めるくらいなら最初からオーストラリアに行ってないですよね。だから"諦めないでやります"と。そしてサンシャインコーストに行って騎乗をはじめました。
これも今にして思えば自分の決心を確かめられたのかもしれない。でも自分は、あそこで諦めなかったし、そこで言われたように体重が重いからって辞めるような騎手にはならない、と心に決めた。それが今まで続けて来れた原動力かもしれません。
10月6日・盛岡第3レース、岩手4戦目での初勝利
横川:日本、岩手で乗る事になったいきさつはもうあちこちにでているから、そうですね、10勝できたのをどう思いますか?っていう質問で。
太田:これはもう予想以上ですよ。オーストラリアでやって来た事を全部ぶつけてやってみる。それで0勝で終わっても仕方がないと思っていましたから。
横川:最初は乗り方とかレースの流れとかにちょっと戸惑っていた感じですが、すぐに慣れましたしね。こっちの騎手たちも最初は「?」だったようですが、徐々に見る目が変わりました。山本聡哉騎手なんか、太田さんをすごく高く評価してて、レースで太田さんをマークしたり潰しに行ったりし始めましたからね。
太田:最初は「ここで動かないの?」「え~?ここで動くの!?」って戸惑いながらでしたね。他の騎手の皆さんにはいろいろ教えてもらって、もちろん菅原右吉先生にもいろいろと面倒を見ていただいて良い馬も乗せてもらっています。そのおかげですよ。
横川:ところで怪我の具合はどうなんでしょうか?
太田:最初の検査で見つかっていた骨折はもうだいたい良くなったんですが、実は最近になって別の剥離骨折があったことが分かったんですね。そこが、気付かなかった分ちょっと治りが遅くて。だから、免許の期間を延長しましたが、騎乗できるかどうかギリギリなんです。
横川:最初の活躍は盛岡のファンに強い印象を残したし、水沢のファンにもぜひ一度見ていただきたいとは思うんですよね。
太田:私も水沢の、日本の地方競馬らしい小さいコースのレースを経験したいし、もちろん実戦に乗ってこその騎手ですから1日も早くレースに乗りたいと思うんです。
一方で「騎手なら万全の状態で乗るべきだ」「しっかり直してまた来年来れば......」とも言われて、それもその通りなんですね。でも今回のようなチャンスを逃すと次また巡ってくるとは限らないじゃないですか。今回も本当にいろいろな方にお世話になって実現した事ですから、また次もこんな風にうまく進むとは思えない。もしかしたら一生に一度だけのチャンスかも......と思うとね、手放したくないと思っちゃうんですよ。
ここ何日かのうちにじっくり考えてみて、無理だという結論になれば潔く帰って、また出直して来ようと思っています。
太田騎手の免許期間は12月16日まで。実戦に復帰することを思えばそれほどの余裕はなく、そこが太田騎手の悩み所になっているようだ。
なんとか1レースだけでも水沢のファンの前で騎乗ぶりを見てもらいたい......とは自分も同じ気持ちだが、ただ乗るだけで気が済むような太田騎手ではないのも確か。
このインタビューが掲載される時には、もしかすると期間切り上げ・帰国ということになっているかもしれないが、その時はいつかまた太田騎手の"ミラクル騎乗"を見ることができる日を、ファンの皆さんにも待っていていただきたいと思う。
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※インタビュー・写真 / 横川典視
6月3日に行われた岩手ダービーダイヤモンドカップをヴイゼロワンで制し、念願のダービージョッキーとなったのは、デビューして今年が10年目となる高松亮騎手。そのダービー制覇の喜びや、今後のことについてうかがいました。
横川:まずは『岩手ダービーダイヤモンドカップ』を制した時の、感想から聞かせてください。
高松:ゴールの瞬間は本当に興奮しました。ヴイゼロワンの陣営からは“この馬はダービーを勝つために連れてきたんだ”と言われて。そういう馬に自分を信頼して乗せてくれて、そして勝つ事ができましたからね。
横川:少しレースを振り返りましょう。道中は先行策、ハカタドンタクらライバルと見なされた馬たちを後ろに置いての戦いになりました。
高松:自分の考えではライバルを前に見ながらがいいのかなと思っていたのですが、相手の行き脚がそれほどでなくて、一方自分の馬は抜群のスタート。だったらヴイゼロワンのリズムを崩さないようにしようと。
横川:その先行策から積極的に動いて直線は自ら先頭に。
高松:それもあくまで馬のリズムを守って、ですね。スムーズな流れを作って自然に加速させてやるのがヴイゼロワンには一番いいと思って乗っていましたから、あそこはそれまでの流れのまま動いていった形です。
横川:最後の直線ではハカタドンタクが迫ってきて、いったんは前に出られたりもしました。あのあたりはかなりヒリヒリしたんじゃないですか?
高松:そうですね。これで負けたら“お前の仕掛けが早かったから”と言われるかもしれない…そう思わないでもなかったですけど、でも自分の馬の手応えはずっと良かったし、そこまでも思った通りに進んできていた。相手はずっと脚を使い通しで上がってきていたのが分かっている。それでもし交わされ突き放されたりしたとしたら、それはあっちがバケモノなんだ…。腹は括っていましたね。
横川:これで重賞は3勝目ですが、“ダービージョッキー”はやはりちょっとこれまでとは喜びの質が違うんじゃないかと思うけど?
高松:なんというか、少し時間が経ってから“こんな大きな出来事だったのか”と感じましたね。
横川:それはどんな事で?
高松:たくさんの人にネットやメールとかでメッセージを貰ったんですよ。もちろんいままでもいただく事はありましたが、今回はその数が段違いだったんです。それもこれまでにもいただいていた人ばかりでなく、初めての方なんかからもたくさん。自分は、正直それほど手放しで喜んではいなかったんです。自分のキャリアからすれば満足しちゃいけないですから。でももの凄くたくさんの方から祝福されて、自分はこんなにたくさんの人に支えられていたんだ…と改めて実感しました。
横川:今年は騎手生活10年目。区切りらしい勝利になったのでは?
高松:10年という区切りは、自分ではあまり気にしてないです。いや気にした方がいいのかもしれないけど、騎手としてまだまだだなと感じているから“10年やって上手くなった”とか“騎手としてのポジションが固まった”とかは思ってないですね。毎年同じように挑んでいるつもりですよ。
横川:でも今年は既に重賞2勝。順調なスタートを切ったように見えるけども
高松:今年は、そうですね、ここ何年かの中では、なんというか腹が据わったというか競馬に向かう気持ちが違う…とは自分でも思っていますね。
横川:それはどういう点で?
高松:今年の1月1日にケガをしちゃって、自分的にはちょっとキツいケガだったんですね。前もケガでシーズン終盤を棒に振ったこともあったけど、気持ち的には今年の方が数段重かった。いろいろ悩んだんですが、そんな中で馬に乗れる、レースに出ることができるのが自分はやっぱり好きなんだ…と再確認できたように感じるんです。
横川:“騎手・高松亮”的には2年前もけっこうなピンチだったと思うけど(※2011年終盤、高松騎手はケガで戦列を離れていたが、治療休養中に所属厩舎が解散してしまった)、あの時よりもキツかった?
高松:あの時もピンチでしたね。鎖骨を折ったんですが、あれだけ大きなケガをしたのは初めてだったからショックもあった。でも今年は、気持ち的にはあの時以上だったかも。ケガをしてしまうとどうしてもゼロからの再スタートになるんですが、今年はゼロよりもさらに“どん底”で、そこからはい上がっていくしかないのか…という気分でしたから。ただ、さっきも話したようにそれで逆に吹っ切れたというか。いい意味で悩まなくなりました。変なことで悩んでる場合じゃないだろ、って。
横川:そんな今年の“騎手・高松亮”はどんな目標を立てている?
高松:通算500勝が間近。とりあえず手近な目標なのでこれはしれっと達成しておきますよ。あとは年間100勝。毎年言っている目標なんですけどね。
横川:100勝というのはリーディング上位を争うために…ということ? 最終的に1000勝とか2000勝とかまで辿り着きたいから、そのための最低ラインだ…とかそんなことなの?
高松:ん~。それもないことはないけど、ちょっと違うんです。この先、自分で考えていることがあって、100勝達成はそのために必要なことなんですよ。
横川:んん~。気になるなあ。それは100勝できたらその理由が明らかになるの?
高松:いや、明らかにしないですよ。話さないと思います(笑)。
横川:気になるけど、100勝達成した時の高松騎手を見たら理由が分かる…ということにしておこう。それから高松騎手は過去によく他地区で期間限定騎乗していましたが、またどこかに行かないのか?と楽しみにしているファンも多いと思いますが。
高松:ここ2年くらいはケガのせいもあって行けなかったし来年もまだちょっと時間が取れそうにないんですけど、行きたい気持ちはあります。それに行くとなったら腰を落ち着けてまとまった期間乗りたいですからね。また行きますよ。
横川:楽しみにしています。
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※インタビュー・写真 / 横川典視
昨年は61勝を挙げ、岩手リーディング10位。今年デビュー11年目を迎えた坂口裕一騎手に、これまでのこと、また今後の意気込みについてうかがった。
横川:川崎競馬の厩舎で育ったんだってね。
坂口:父が川崎競馬の厩務員だったので厩舎で暮らしていました。生まれた頃は競馬場の厩舎で、自分が小3の頃に小向に移りました。同期の山崎誠士騎手なんかは学年は違いますが同じ小学校・中学校でしたよ。
横川:じゃあ小さい頃から競馬や馬に慣れ親しんで暮らしていた?
坂口:それが全然興味がなかったですね。厩舎の2階で暮らしていたのに高校くらいまでは全く競馬に関心がなかった。子どもの頃に喘息になった事もあって"馬と一緒の生活は合わない"とずっと思っていましたし、馬が傍にいるからって触りに行ったり乗ってみたりしようともしなかった。だいたい厩舎から普通の高校に通っていたんだから、つまり(騎手に)なる気はなかった......という事でしょ(笑)。弟の方がよっぽど関心があって、騎手になりたいんだろうなって思っていましたから。
横川:それがどうして自ら騎手を目指す事に?
坂口:そんな頃、父がラハンヌという馬を担当していたんです。父の自慢の馬だったんですけど、デビュー戦でぶっちぎりで勝ってその後もけっこう活躍した。それを見ていて"競馬もおもしろいのかな"って思うようになったんです。
2000年スパーキングレディーカップ出走時のラハンヌ(月刊『ハロン』2000年11月号より)
横川:今調べると、デビューから3連勝、それも佐々木竹見騎手が手綱をとって......だから期待馬だったんだね。重賞もリリーカップとトゥインクルレディー賞で2回2着。
坂口:レースを競馬場に見に行ったりするようになって、それまでは行った事がなかったけど牧場に遊びに行ったりとか。茨城の牧場でセイウンスカイの引き運動をした事もありますよ。その時は知らずに"ずいぶん白い馬だな"と思っていたくらいでしたが後で聞いたらセイウンスカイだった。しかし、そのトゥインクルレディー賞2着の直後に父が急に亡くなったんです。それが自分が高2の時。それで自分は岩手に移ってきた。
横川:じゃあ、お父さんが亡くならなかったらそのまま南関東で騎手を目指していた?
坂口:いや、騎手になるよう勧めてくれた馬主さんの紹介もあって、志望は最初から岩手でしたよ。
横川:そういうきっかけがなかったら、騎手を目指してなかったんだろうね......。
坂口:父自身も騎手になりたかったけどなれずに諦めていた人でしたから。中学生の時に鹿児島から出てきて、騎手を目指したけど体重が重くてなれなかったそうなんですね。じゃあ自分がその跡を継ぐのも有りかな......と。
横川:坂口騎手って、そんな熱いエピソードがあるわりには『醒めた』イメージがあるよね。
坂口:馬主さんにも言われた事がありますよ。"お前は勝って嬉しいと思わないのか?"って怒られ気味に。
横川:いや、レースで勝った時は喜んでいる方でしょ。ゴールしながら笑顔になってる時もあるし。
坂口:そうですかね?
横川:よくあるよ。凄く嬉しそうにゴールしてること。
坂口:うーん。人気のない馬とか、自信があるのに印が薄い馬とかで勝つと嬉しいけど......。でもまあ、あまりそういう、勝って派手に喜んだり騒いだりするのって、周りから見てて格好悪いんじゃないかな~?って思うんで、意識的に抑えようとしている所はありますね。そういうのがさっきみたいな"嬉しくないのか"って怒られる原因になる。
横川:ガッツポーズとかもしないものね。
坂口:やってもいいかな~?と思う時もあるんですけどね。でもゴールの瞬間になると"ん?待てよ?"って。でも去年白嶺賞を勝った時はやっておけば良かったな。勝つ自信があって勝てたレースだったし、あの時くらいは思い切りガッツポーズしてみても良かった。
2012年12月22日、白嶺賞をクレムリンエッグで勝利
横川:基本的に『冷静』に振る舞っている方?
坂口:熱くなると空回りするタイプなんですよ。騎手になった当初なんかそうだったし。自分自身でそうだと分かっているから余計に"冷静に冷静に"というところはありますね。
横川:普段はどんな生活をしているの? いや、若い騎手が次々結婚しててさ、若手の中で"最後の独身の大物"といわれているのが坂口君だからさ。知りたい人も多いと思って~。
坂口:え~? 最近はタバコも止めたし、お酒もあまり飲まないし。引きこもり......ですかね...。
横川:競馬がない時は?
坂口:調教→ご飯→寝る。
横川:え(笑)。じゃあ競馬がある時は?
坂口:競馬→ご飯→寝る。ですね。
横川:変わらないじゃないか(笑)。
坂口:後は撮りためたビデオを見るとか......。車を買った時はドライブに行ったりしたけど今はあまり...だし。
横川:えー、坂口騎手はこんな人です。興味がある女性は、覚悟してください(笑)
坂口:こんな話でいいんですかね?
横川:いいよいいよ。掴みはOKだしね。"亡き父の遺志を継いで騎手になった男"なんて、ドラマだよ。普段こんなにクールな人にそんな熱い背景があったなんて、本当にいい話。
坂口:ラハンヌって、父が担当していただけじゃなくて、馬主さんも父の後輩の厩務員だった人で、その人が自ら外国で探しあててきた馬なんですね。脚元がそんなに良くなくて手をかけながら走っていたのが印象深かったですからね。
横川:思い切って聞くけど、"坂口裕一"にとって騎手や競馬はどんな位置づけ?
坂口:昔は話した通りですが、今は馬に乗るのもレースも好きですよ。でも"騎手はこうあるべき"みたいなのは、あまり考えないですね。考えすぎて熱くなるとダメなんで、無心で乗る方がいいなと思っていたりして。
横川:"5年後の坂口裕一"はどんな騎手になっていると思う?
坂口:あまりそういう将来イメージを考えた事がないんで......。あ、こう見えても1日1日、調教もレースも全力でやっているから、けっこう精一杯なんですよ。将来は調教師になる...とか考えられないから、乗れるだけ乗り続けている、でしょうかね。
とまあ、ややのらりくらりとした会話になってしまったが、話していて何となく合点がいくところがあった。一見すると競馬からちょっと距離を置いているような、第三者的な視線を向けているような態度に見える。競馬に過剰にのめり込む事はなく仕事と割り切って、仕事とプライベートはきっちり分けている。しかしいざ実戦になると、例えばそのレースの流れの中心にいる馬がどれなのか? そこをかぎ分ける嗅覚は鋭いし、強い相手にも臆さず喰らい付いていってあわよくば負かす事に喜びを感じているかのような騎乗ぶりを見せるのが彼だ。
生活スタイルはあくまでも今風の若者。古い言葉だが『新人類』という言い方が当てはまる。一方の競馬に関しては、立ち向かう姿勢は今風ではなく、ひとまわり・ふたまわり上の世代の騎手たちに近い雰囲気を感じる。意外に昔気質の勝負師な所があるのだ。競馬に関心がなさそうな姿勢にしたって、彼自身があえてそういう風に見せているだけだろう、と思う。
坂口騎手は怪我や病気で思うように乗れなかった時期が何度かあるが、その度、何事もなかったかのように復帰してくるし、そんな事があった事自体、自分から言い出す事はない芯の強さがある。そもそも人並み以上に根性が据わってなければ、普通の高校に進んでいた人生をひっくり返して騎手になる......なんて決断ができるわけがない。本人は競馬に興味がなかったという幼少時代なのだが、亡くなったお父様はじめ競馬界の住人の、それも80年代~90年代前半の全盛期の南関東競馬の世界で生まれ育った事が、坂口騎手に"その時代の競馬人"の思考パターンのようなものを刻み込んでいたのではないか? そんな風に感じる。
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※インタビュー・写真 / 横川典視
2009年度に49勝、2010年度は68勝、2011年度も68勝。リーディングでは10位圏内を争うあたり......だったのが、今シーズンは既に117勝、リーディング2位を競り合うまでに伸びてきた若手がいる。山本聡哉騎手だ。
今年伸びた騎手は......と訊ねれば、盛岡なら齋藤雄一騎手、水沢ならまず山本聡哉騎手の名が挙がる赤丸急上昇の若手騎手。
そして、同騎手は盛岡所属の山本政聡騎手、船橋所属の山本聡紀騎手と三兄弟で現役騎手という、なかなか希な存在でもある。
今回はそんな注目株の山本聡哉騎手にお話を伺った。
横川:農業の町・葛巻町出身という事で特に競馬とは関わりがなかったそうですね。
山本:実家が畜産もやっていたんで将来の仕事は動物系かな......とか思ってはいましたね。でも競馬はダビスタをやるくらいで。父親が"身体が小さいなら騎手だな"とか言っていたんですが、それもまあ冗談半分だったはずです。
横川:そこから騎手になろうと思い立ったきっかけはなんだったんですか?
山本:ひとつは兄(山本政聡騎手)が騎手を目指す、と競馬学校に入った事ですね。小さい頃から結構兄のあとをついていく弟だったんですよ。小学校の頃は野球をやっていたんですがそれも兄がやっていたからで。兄が競馬学校で騎乗している姿を見て"ビビッ"と来ましたね。"騎手になろう"って。
横川:「テシオ」の読者ハガキを送ってくれたよね。お兄さんも送ってくれてたけど、兄弟で"騎手を目指してます"って書いて来た時にはびっくりしました。
山本:当時はもうホントに"競馬ファン"でしたからね。最初は兄が買っていた「サラブレ」とか「テシオ」とかを見ていたんですが、中学校の時の担任の先生も競馬が好きだったんですよ。日曜日に社会見学と称して盛岡競馬場に連れて行ってもらったりして。その頃は忍さん(村上忍騎手)が好きだったんで、忍さんばかり見つめてましたね。「テシオ」はプレゼントが当たったんですよ。渡辺さん(渡邉正彦元騎手)と小野寺さん(小野寺純一元騎手)のピンバッチが当たって凄く喜んでました。
横川:その頃はどんな楽しみ方をしていたんですか。
山本:ノートに騎手の成績とかプロフィールとかを調べて書き込んで......。憧れの対象ですよ、もう。今でもなんか凄いなって思う時がありますよ。あの憧れだった人たちと一緒にレースで戦ったりプライベートで遊んでもらったりするんですから。
横川:基本的には競馬ファンなんだ?
山本:そうですね、ファン、おたく......。競馬が好き。そして馬っていうよりは騎手が好きですね。どんな乗り方をするのか、どんな人なのか興味深くて。中学生くらいの頃は騎手になるという事自体がスゴイ事だと思っていましたから、騎手になった自分がパドックを回ったりレースに乗っているのを想像して"そうなったら凄いな"って。だから兄がデビューして騎手になったじゃないですか。そんな憧れの騎手たちと一緒にパドックを回っている。一緒に生活をしてるんだ......と想像すると、兄が"凄い"って思った瞬間でしたね。
横川:さて、自身が騎手になるために教養センターに入りました。その頃は順調だった?
山本:入った当初は騎手になるってどんな事なのか分からない部分もありましたが、いざ始まればそんな事を考える暇もないくらいのめり込んでいきましたね。基本馬術の時は身体が小さい事もあってたいへんでしたが、競走騎乗をやる頃になったらだいぶ自信がついて来ました。
横川:そして騎手としてデビュー。兄弟で戦う日が来ましたが......。
山本:今だから言える事ですが、最初の頃は正直辛かったですね。同期の悠里(高橋悠里騎手)が先に活躍しているのに自分はレースに乗れない日もある。がむしゃらに乗ってがんばらないと、どんどん取り残されていくような感覚になって。このままでは自分が騎手をやっていたかどうかすら印象が残らずに終わってしまうのでは......と悩みました。
横川:そんな頃に高知の全日本新人王争覇戦で優勝しました(2007年)。
山本:本当にしんどい時期だったので嬉しかったですね。同じくらいのキャリアの騎手の中で勝てたのですから。
横川:その時岩手では、存廃論議で大もめの時期。ちょうど存廃の採決の日で、高知に行けなかったのを残念に思っていました。
山本:これも今だから言えますが、高知で悠里と"岩手の騎手としては最後の騎乗になるのかな......"なんて言いながら乗りました。岩手の情報は調教師が逐一伝えてくれて。自分が優勝したと伝えると喜んでもらえました。
横川:県議会の建物に関係者で詰めていて、暗いムードだった所に優勝の報が届いて皆喜んだね。
山本:中学校の時の先生が高知まで来て見ていてくれたんですよ。それも嬉しかったですね。
横川:そんな聡哉騎手もいまやリーディング上位を争うようになりました。
山本:うーん。自分の腕にはまだそれほど自信がないですね。良い馬に乗せてもらえている、いろいろ恵まれている......そんな風には思いますけども。今年はデキ過ぎだと思っています。来年もこんなうまくいくとは思えない。調子が悪い時が来ても乗せてもらえるかどうか。乗せてもらえるように心がけていかないと。
横川:内田利雄騎手が、聡哉騎手の事を高く評価していましたよ。
山本:最初に来た頃からいろいろとアドバイスをもらっていたんですが、今年来た時には"自分からレースを動かす事も覚えていかないとね"という助言をいただきました。周りに合わせるだけじゃなくて自分でレースを作れ、と。これまで何年かにわたって、自分ができる事に合わせて徐々に助言のレベルも上がってきて、最後に一番大事な事を教えてもらえたんじゃないかと思います。
横川:ふむ。では来年もこんな活躍をするにはどうすればいいと思いますか。
山本:自分ががんばるのは当然として、周りとのコミュニケーションをきちんと取っていくのが大事かなと。
横川:それはどういう意図で?
山本:やっぱり競馬は自分だけの力でやっているものじゃないですから、関係者の皆さんと良い関係を作っていかないといけないと思っているんです。自分の最初の何年かの苦しい時期の事を考えてみると、例えば成績的に奮わなくても乗せてもらうには、普段から周りから好かれるような人間でないといけないんじゃないか。周りの関係者の皆さんと気持ちよく仕事ができる関係が作れていれば、自分が苦しい時でも周りに支えてもらえるんじゃないか? そんな風に思うんです。
横川:騎手として、人間性も重要だと?
山本:先輩たちを見ていても、いい成績を挙げている人たちは人間性の面でも優れている......と感じますね。自分もそうであろう、自分もそうなりたいと思っています。
横川:ちょっと珍しい考え方ですよね、騎手としては。
山本:よく言われます。"人間関係として見ているんだね"って。でも、自分にはすごく苦しい時期があったんで、そんな中でも雑に乗らない・苦しくても丁寧に人と人との関係をつくっていく。そう心がけようと考えたんです。きちんと土台を作らないと何かあった時に崩れるのも早いだろう。それが自分が苦しかった時期に行きついたひとつの答えですね。
横川:さて、聡哉騎手といえば三兄弟が騎手になっていますが、兄・政聡騎手は聡哉騎手にとってどんな存在ですか。
山本:最初にも話しましたが、小さい頃は兄の後ろをついていく弟だったんです。兄は昔からなんでもできて、何をするにも一緒で。そんな兄が騎手を目指したから自分も騎手になろうと思ったし、実は兄が競馬学校に入って半年ほど経った頃ですか、このまま続けるかどうか悩んでいた時期があって。兄が苦労したり悩んだりしているから"騎手って厳しいんだ"という心構えもできた。自分や弟は兄の切り開いた道を通る事ができたから良かったですね。兄弟で一番苦労したのは兄だと思います。
兄・政聡騎手(右)と
横川:今年は兄をリスペクトする発言がよく出てきますよね。
山本:例えばダイヤモンドカップとか、ああいう思い切ったレースは兄にしかできない、自分にはできないと感じたんですよね。レースに関しての思い切りの良さは兄の方が上かなと。
横川:弟の聡紀騎手については?
山本:がんばってますよね。最初は兄と一緒にずいぶん心配したし、自分の経験からも"最初からうまくいく事はないんだぞ"とアドバイスしたりもしていたんですが、うまく周りと良い関係を作っているようです。あいつは世渡り上手なんですよ。もう大丈夫でしょう。だから最近はあまり細かい事は言わないようにしています。
船橋からデビューした弟・聡紀騎手(写真は教養センター時代)
横川:いつか3人で戦う所を見たいですね。
山本:自分もやってみたいですね。去年あった"東北騎手招待レース"みたいなので弟を呼んでくれたらいいな。それぞれ性格も違うし、面白いレースになると思うんですよ。あの二人が真面目な顔してゲートに入っているのを見ると、自分は後ろで笑っちゃうかもしれませんね。なにか良い機会ができればいいですね。
インタビュー中にも出てきたが、以前「テシオ」という雑誌を出していた時、兄の山本政聡騎手から読者ハガキをもらった事がある。「騎手に憧れていて......騎手を目指していて......」というような事を書いてあった様に思うが、まあ中学生くらいの読者のハガキにはよく書かれている話。熱心なファンがいるな、とは思ったが、それ以上は特に気にもとめずにいた。
それが、その政聡君からハガキが来なくなってしばらくして、政聡君の弟と名乗る聡哉君からハガキが届いた。「兄は騎手を目指して競馬学校に入りました。自分もいずれ騎手になろうと思っています」。驚いた事ったらなかった。
しばらくして聡哉君からもハガキが来なくなった。その頃には兄のデビューが間近で、兄の口から弟君も教養センターに入った事を教えてもらった。
もう10年ほど前の出来事だが、いまだに忘れられない。競馬ファンから騎手に......というある意味競馬ファン冥利に尽きる路線。騎手としては楽しい事ばかりではなかっただろうが、これからも兄弟の活躍を楽しみにしている。
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※インタビュー・写真 / 横川典視