昨年は61勝を挙げ、岩手リーディング10位。今年デビュー11年目を迎えた坂口裕一騎手に、これまでのこと、また今後の意気込みについてうかがった。
横川:川崎競馬の厩舎で育ったんだってね。
坂口:父が川崎競馬の厩務員だったので厩舎で暮らしていました。生まれた頃は競馬場の厩舎で、自分が小3の頃に小向に移りました。同期の山崎誠士騎手なんかは学年は違いますが同じ小学校・中学校でしたよ。
横川:じゃあ小さい頃から競馬や馬に慣れ親しんで暮らしていた?
坂口:それが全然興味がなかったですね。厩舎の2階で暮らしていたのに高校くらいまでは全く競馬に関心がなかった。子どもの頃に喘息になった事もあって"馬と一緒の生活は合わない"とずっと思っていましたし、馬が傍にいるからって触りに行ったり乗ってみたりしようともしなかった。だいたい厩舎から普通の高校に通っていたんだから、つまり(騎手に)なる気はなかった......という事でしょ(笑)。弟の方がよっぽど関心があって、騎手になりたいんだろうなって思っていましたから。
横川:それがどうして自ら騎手を目指す事に?
坂口:そんな頃、父がラハンヌという馬を担当していたんです。父の自慢の馬だったんですけど、デビュー戦でぶっちぎりで勝ってその後もけっこう活躍した。それを見ていて"競馬もおもしろいのかな"って思うようになったんです。
2000年スパーキングレディーカップ出走時のラハンヌ(月刊『ハロン』2000年11月号より)
横川:今調べると、デビューから3連勝、それも佐々木竹見騎手が手綱をとって......だから期待馬だったんだね。重賞もリリーカップとトゥインクルレディー賞で2回2着。
坂口:レースを競馬場に見に行ったりするようになって、それまでは行った事がなかったけど牧場に遊びに行ったりとか。茨城の牧場でセイウンスカイの引き運動をした事もありますよ。その時は知らずに"ずいぶん白い馬だな"と思っていたくらいでしたが後で聞いたらセイウンスカイだった。しかし、そのトゥインクルレディー賞2着の直後に父が急に亡くなったんです。それが自分が高2の時。それで自分は岩手に移ってきた。
横川:じゃあ、お父さんが亡くならなかったらそのまま南関東で騎手を目指していた?
坂口:いや、騎手になるよう勧めてくれた馬主さんの紹介もあって、志望は最初から岩手でしたよ。
横川:そういうきっかけがなかったら、騎手を目指してなかったんだろうね......。
坂口:父自身も騎手になりたかったけどなれずに諦めていた人でしたから。中学生の時に鹿児島から出てきて、騎手を目指したけど体重が重くてなれなかったそうなんですね。じゃあ自分がその跡を継ぐのも有りかな......と。
横川:坂口騎手って、そんな熱いエピソードがあるわりには『醒めた』イメージがあるよね。
坂口:馬主さんにも言われた事がありますよ。"お前は勝って嬉しいと思わないのか?"って怒られ気味に。
横川:いや、レースで勝った時は喜んでいる方でしょ。ゴールしながら笑顔になってる時もあるし。
坂口:そうですかね?
横川:よくあるよ。凄く嬉しそうにゴールしてること。
坂口:うーん。人気のない馬とか、自信があるのに印が薄い馬とかで勝つと嬉しいけど......。でもまあ、あまりそういう、勝って派手に喜んだり騒いだりするのって、周りから見てて格好悪いんじゃないかな~?って思うんで、意識的に抑えようとしている所はありますね。そういうのがさっきみたいな"嬉しくないのか"って怒られる原因になる。
横川:ガッツポーズとかもしないものね。
坂口:やってもいいかな~?と思う時もあるんですけどね。でもゴールの瞬間になると"ん?待てよ?"って。でも去年白嶺賞を勝った時はやっておけば良かったな。勝つ自信があって勝てたレースだったし、あの時くらいは思い切りガッツポーズしてみても良かった。
2012年12月22日、白嶺賞をクレムリンエッグで勝利
横川:基本的に『冷静』に振る舞っている方?
坂口:熱くなると空回りするタイプなんですよ。騎手になった当初なんかそうだったし。自分自身でそうだと分かっているから余計に"冷静に冷静に"というところはありますね。
横川:普段はどんな生活をしているの? いや、若い騎手が次々結婚しててさ、若手の中で"最後の独身の大物"といわれているのが坂口君だからさ。知りたい人も多いと思って~。
坂口:え~? 最近はタバコも止めたし、お酒もあまり飲まないし。引きこもり......ですかね...。
横川:競馬がない時は?
坂口:調教→ご飯→寝る。
横川:え(笑)。じゃあ競馬がある時は?
坂口:競馬→ご飯→寝る。ですね。
横川:変わらないじゃないか(笑)。
坂口:後は撮りためたビデオを見るとか......。車を買った時はドライブに行ったりしたけど今はあまり...だし。
横川:えー、坂口騎手はこんな人です。興味がある女性は、覚悟してください(笑)
坂口:こんな話でいいんですかね?
横川:いいよいいよ。掴みはOKだしね。"亡き父の遺志を継いで騎手になった男"なんて、ドラマだよ。普段こんなにクールな人にそんな熱い背景があったなんて、本当にいい話。
坂口:ラハンヌって、父が担当していただけじゃなくて、馬主さんも父の後輩の厩務員だった人で、その人が自ら外国で探しあててきた馬なんですね。脚元がそんなに良くなくて手をかけながら走っていたのが印象深かったですからね。
横川:思い切って聞くけど、"坂口裕一"にとって騎手や競馬はどんな位置づけ?
坂口:昔は話した通りですが、今は馬に乗るのもレースも好きですよ。でも"騎手はこうあるべき"みたいなのは、あまり考えないですね。考えすぎて熱くなるとダメなんで、無心で乗る方がいいなと思っていたりして。
横川:"5年後の坂口裕一"はどんな騎手になっていると思う?
坂口:あまりそういう将来イメージを考えた事がないんで......。あ、こう見えても1日1日、調教もレースも全力でやっているから、けっこう精一杯なんですよ。将来は調教師になる...とか考えられないから、乗れるだけ乗り続けている、でしょうかね。
とまあ、ややのらりくらりとした会話になってしまったが、話していて何となく合点がいくところがあった。一見すると競馬からちょっと距離を置いているような、第三者的な視線を向けているような態度に見える。競馬に過剰にのめり込む事はなく仕事と割り切って、仕事とプライベートはきっちり分けている。しかしいざ実戦になると、例えばそのレースの流れの中心にいる馬がどれなのか? そこをかぎ分ける嗅覚は鋭いし、強い相手にも臆さず喰らい付いていってあわよくば負かす事に喜びを感じているかのような騎乗ぶりを見せるのが彼だ。
生活スタイルはあくまでも今風の若者。古い言葉だが『新人類』という言い方が当てはまる。一方の競馬に関しては、立ち向かう姿勢は今風ではなく、ひとまわり・ふたまわり上の世代の騎手たちに近い雰囲気を感じる。意外に昔気質の勝負師な所があるのだ。競馬に関心がなさそうな姿勢にしたって、彼自身があえてそういう風に見せているだけだろう、と思う。
坂口騎手は怪我や病気で思うように乗れなかった時期が何度かあるが、その度、何事もなかったかのように復帰してくるし、そんな事があった事自体、自分から言い出す事はない芯の強さがある。そもそも人並み以上に根性が据わってなければ、普通の高校に進んでいた人生をひっくり返して騎手になる......なんて決断ができるわけがない。本人は競馬に興味がなかったという幼少時代なのだが、亡くなったお父様はじめ競馬界の住人の、それも80年代~90年代前半の全盛期の南関東競馬の世界で生まれ育った事が、坂口騎手に"その時代の競馬人"の思考パターンのようなものを刻み込んでいたのではないか? そんな風に感じる。
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※インタビュー・写真 / 横川典視
2009年度に49勝、2010年度は68勝、2011年度も68勝。リーディングでは10位圏内を争うあたり......だったのが、今シーズンは既に117勝、リーディング2位を競り合うまでに伸びてきた若手がいる。山本聡哉騎手だ。
今年伸びた騎手は......と訊ねれば、盛岡なら齋藤雄一騎手、水沢ならまず山本聡哉騎手の名が挙がる赤丸急上昇の若手騎手。
そして、同騎手は盛岡所属の山本政聡騎手、船橋所属の山本聡紀騎手と三兄弟で現役騎手という、なかなか希な存在でもある。
今回はそんな注目株の山本聡哉騎手にお話を伺った。
横川:農業の町・葛巻町出身という事で特に競馬とは関わりがなかったそうですね。
山本:実家が畜産もやっていたんで将来の仕事は動物系かな......とか思ってはいましたね。でも競馬はダビスタをやるくらいで。父親が"身体が小さいなら騎手だな"とか言っていたんですが、それもまあ冗談半分だったはずです。
横川:そこから騎手になろうと思い立ったきっかけはなんだったんですか?
山本:ひとつは兄(山本政聡騎手)が騎手を目指す、と競馬学校に入った事ですね。小さい頃から結構兄のあとをついていく弟だったんですよ。小学校の頃は野球をやっていたんですがそれも兄がやっていたからで。兄が競馬学校で騎乗している姿を見て"ビビッ"と来ましたね。"騎手になろう"って。
横川:「テシオ」の読者ハガキを送ってくれたよね。お兄さんも送ってくれてたけど、兄弟で"騎手を目指してます"って書いて来た時にはびっくりしました。
山本:当時はもうホントに"競馬ファン"でしたからね。最初は兄が買っていた「サラブレ」とか「テシオ」とかを見ていたんですが、中学校の時の担任の先生も競馬が好きだったんですよ。日曜日に社会見学と称して盛岡競馬場に連れて行ってもらったりして。その頃は忍さん(村上忍騎手)が好きだったんで、忍さんばかり見つめてましたね。「テシオ」はプレゼントが当たったんですよ。渡辺さん(渡邉正彦元騎手)と小野寺さん(小野寺純一元騎手)のピンバッチが当たって凄く喜んでました。
横川:その頃はどんな楽しみ方をしていたんですか。
山本:ノートに騎手の成績とかプロフィールとかを調べて書き込んで......。憧れの対象ですよ、もう。今でもなんか凄いなって思う時がありますよ。あの憧れだった人たちと一緒にレースで戦ったりプライベートで遊んでもらったりするんですから。
横川:基本的には競馬ファンなんだ?
山本:そうですね、ファン、おたく......。競馬が好き。そして馬っていうよりは騎手が好きですね。どんな乗り方をするのか、どんな人なのか興味深くて。中学生くらいの頃は騎手になるという事自体がスゴイ事だと思っていましたから、騎手になった自分がパドックを回ったりレースに乗っているのを想像して"そうなったら凄いな"って。だから兄がデビューして騎手になったじゃないですか。そんな憧れの騎手たちと一緒にパドックを回っている。一緒に生活をしてるんだ......と想像すると、兄が"凄い"って思った瞬間でしたね。
横川:さて、自身が騎手になるために教養センターに入りました。その頃は順調だった?
山本:入った当初は騎手になるってどんな事なのか分からない部分もありましたが、いざ始まればそんな事を考える暇もないくらいのめり込んでいきましたね。基本馬術の時は身体が小さい事もあってたいへんでしたが、競走騎乗をやる頃になったらだいぶ自信がついて来ました。
横川:そして騎手としてデビュー。兄弟で戦う日が来ましたが......。
山本:今だから言える事ですが、最初の頃は正直辛かったですね。同期の悠里(高橋悠里騎手)が先に活躍しているのに自分はレースに乗れない日もある。がむしゃらに乗ってがんばらないと、どんどん取り残されていくような感覚になって。このままでは自分が騎手をやっていたかどうかすら印象が残らずに終わってしまうのでは......と悩みました。
横川:そんな頃に高知の全日本新人王争覇戦で優勝しました(2007年)。
山本:本当にしんどい時期だったので嬉しかったですね。同じくらいのキャリアの騎手の中で勝てたのですから。
横川:その時岩手では、存廃論議で大もめの時期。ちょうど存廃の採決の日で、高知に行けなかったのを残念に思っていました。
山本:これも今だから言えますが、高知で悠里と"岩手の騎手としては最後の騎乗になるのかな......"なんて言いながら乗りました。岩手の情報は調教師が逐一伝えてくれて。自分が優勝したと伝えると喜んでもらえました。
横川:県議会の建物に関係者で詰めていて、暗いムードだった所に優勝の報が届いて皆喜んだね。
山本:中学校の時の先生が高知まで来て見ていてくれたんですよ。それも嬉しかったですね。
横川:そんな聡哉騎手もいまやリーディング上位を争うようになりました。
山本:うーん。自分の腕にはまだそれほど自信がないですね。良い馬に乗せてもらえている、いろいろ恵まれている......そんな風には思いますけども。今年はデキ過ぎだと思っています。来年もこんなうまくいくとは思えない。調子が悪い時が来ても乗せてもらえるかどうか。乗せてもらえるように心がけていかないと。
横川:内田利雄騎手が、聡哉騎手の事を高く評価していましたよ。
山本:最初に来た頃からいろいろとアドバイスをもらっていたんですが、今年来た時には"自分からレースを動かす事も覚えていかないとね"という助言をいただきました。周りに合わせるだけじゃなくて自分でレースを作れ、と。これまで何年かにわたって、自分ができる事に合わせて徐々に助言のレベルも上がってきて、最後に一番大事な事を教えてもらえたんじゃないかと思います。
横川:ふむ。では来年もこんな活躍をするにはどうすればいいと思いますか。
山本:自分ががんばるのは当然として、周りとのコミュニケーションをきちんと取っていくのが大事かなと。
横川:それはどういう意図で?
山本:やっぱり競馬は自分だけの力でやっているものじゃないですから、関係者の皆さんと良い関係を作っていかないといけないと思っているんです。自分の最初の何年かの苦しい時期の事を考えてみると、例えば成績的に奮わなくても乗せてもらうには、普段から周りから好かれるような人間でないといけないんじゃないか。周りの関係者の皆さんと気持ちよく仕事ができる関係が作れていれば、自分が苦しい時でも周りに支えてもらえるんじゃないか? そんな風に思うんです。
横川:騎手として、人間性も重要だと?
山本:先輩たちを見ていても、いい成績を挙げている人たちは人間性の面でも優れている......と感じますね。自分もそうであろう、自分もそうなりたいと思っています。
横川:ちょっと珍しい考え方ですよね、騎手としては。
山本:よく言われます。"人間関係として見ているんだね"って。でも、自分にはすごく苦しい時期があったんで、そんな中でも雑に乗らない・苦しくても丁寧に人と人との関係をつくっていく。そう心がけようと考えたんです。きちんと土台を作らないと何かあった時に崩れるのも早いだろう。それが自分が苦しかった時期に行きついたひとつの答えですね。
横川:さて、聡哉騎手といえば三兄弟が騎手になっていますが、兄・政聡騎手は聡哉騎手にとってどんな存在ですか。
山本:最初にも話しましたが、小さい頃は兄の後ろをついていく弟だったんです。兄は昔からなんでもできて、何をするにも一緒で。そんな兄が騎手を目指したから自分も騎手になろうと思ったし、実は兄が競馬学校に入って半年ほど経った頃ですか、このまま続けるかどうか悩んでいた時期があって。兄が苦労したり悩んだりしているから"騎手って厳しいんだ"という心構えもできた。自分や弟は兄の切り開いた道を通る事ができたから良かったですね。兄弟で一番苦労したのは兄だと思います。
兄・政聡騎手(右)と
横川:今年は兄をリスペクトする発言がよく出てきますよね。
山本:例えばダイヤモンドカップとか、ああいう思い切ったレースは兄にしかできない、自分にはできないと感じたんですよね。レースに関しての思い切りの良さは兄の方が上かなと。
横川:弟の聡紀騎手については?
山本:がんばってますよね。最初は兄と一緒にずいぶん心配したし、自分の経験からも"最初からうまくいく事はないんだぞ"とアドバイスしたりもしていたんですが、うまく周りと良い関係を作っているようです。あいつは世渡り上手なんですよ。もう大丈夫でしょう。だから最近はあまり細かい事は言わないようにしています。
船橋からデビューした弟・聡紀騎手(写真は教養センター時代)
横川:いつか3人で戦う所を見たいですね。
山本:自分もやってみたいですね。去年あった"東北騎手招待レース"みたいなので弟を呼んでくれたらいいな。それぞれ性格も違うし、面白いレースになると思うんですよ。あの二人が真面目な顔してゲートに入っているのを見ると、自分は後ろで笑っちゃうかもしれませんね。なにか良い機会ができればいいですね。
インタビュー中にも出てきたが、以前「テシオ」という雑誌を出していた時、兄の山本政聡騎手から読者ハガキをもらった事がある。「騎手に憧れていて......騎手を目指していて......」というような事を書いてあった様に思うが、まあ中学生くらいの読者のハガキにはよく書かれている話。熱心なファンがいるな、とは思ったが、それ以上は特に気にもとめずにいた。
それが、その政聡君からハガキが来なくなってしばらくして、政聡君の弟と名乗る聡哉君からハガキが届いた。「兄は騎手を目指して競馬学校に入りました。自分もいずれ騎手になろうと思っています」。驚いた事ったらなかった。
しばらくして聡哉君からもハガキが来なくなった。その頃には兄のデビューが間近で、兄の口から弟君も教養センターに入った事を教えてもらった。
もう10年ほど前の出来事だが、いまだに忘れられない。競馬ファンから騎手に......というある意味競馬ファン冥利に尽きる路線。騎手としては楽しい事ばかりではなかっただろうが、これからも兄弟の活躍を楽しみにしている。
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※インタビュー・写真 / 横川典視
齋藤雄一騎手は今年でデビュー11年目。現在岩手の騎手リーディング2位につけている成長著しい中堅ジョッキーだ。2009年度は53勝でリーディング10位。2010年度は75勝で6位。徐々に勝ち星を増やしてはいるが不動のTOP3(菅原勲元騎手・小林俊彦騎手・村上忍騎手の上位常連)の域にはまだ少し......。そんなポジションに落ち着きかけていた齋藤騎手が、昨季は106勝で一気にリーディング2位に浮上し、俄然周囲の注目を集める存在になった。その"伸び"の要因はどこにあるのか? それがやはり最も齋藤騎手から聞いてみたいことだろう。そしてもうひとつ。彼は元々、2001年度限りで廃止となった新潟県競馬でデビューする予定の候補生だった。そんな"秘話"の部分にも触れてみたい。
横川:競馬学校に入る前、中学校ではバレーボールの選手だったんだよね。
齋藤:小学校からずっとバレーボールをやっていて、結構名門のクラブにも入っていました。中学の時には県の選抜選手にも選ばれたんですよ。
横川:そのままバレーを続ける、という道もあったと思うんですが、なぜ騎手になろうと?
齋藤:実家(新潟県新発田市)の近くに小さな牧場があったんですよ。馬は2、3頭くらいで、新潟県競馬に持ち馬を何頭か出しているくらいの本当に小さなところでしたが、そこで遊んでいるうちに馬という生き物に惹かれるようになって。それが中1くらいの頃かな。
横川:そこから"よし、騎手になるか"ということに?
齋藤:競馬っていうのはあまり知らなかった。ゲーム......ダビスタをちょっとやったことがあるけれどそれと実際の競馬や騎手を結びつけて考えたことはなかったです。ただ、身体はそれほど大きくなかったから、騎手はそれでもできる職業だということは知っていたし、それにうちの親がね、"自分できちんとお金を稼げるようにならないと半人前"みたいなことを常々言っていたんです。じゃあ騎手がいいな、と。でもいざ競馬学校に行きたいって言うと猛反対されましたけどね。
横川:ご両親としてはもっと違う職業を考えていたのかな。
齋藤:いや、やっぱりもうちょっとバレーを続けて欲しかったんでしょう。クラブの周りの子達もそうでしたからね。でもあの頃の自分は"高校に行ってもな~。別に学歴とか関係ないしな~"とか考えていて。今になってみると高校には行っておくべきだったなと思ったりしますけど、小さい頃はね、そんなところまで考えが回らなかった。
横川:そして新潟県競馬でデビューする予定だった......。
齋藤:横山稔先生の厩舎ですね。きちんとした形で厩舎にいたのは実習の半年くらいだったけど、中学校の頃からちょくちょく出入りしていました。
横川:それが、新潟県競馬が廃止されるという話になっていった。
齋藤:新潟でデビューできないということになって、もう辞めようと思ったんですよ。地元で騎手になれないのなら続けてもしょうがない、つまらないよって。そんなことをポロッと話したら稔先生に怒られた。"今は我慢しろ。競馬学校はきちんと卒業するんだ"って。稔先生がそう言ってくれなければ騎手になっていなかったかもしれない。
横川:そこから岩手に来たのは?
齋藤:横山稔先生が岩手の福田秀夫先生と同期ということで紹介してくれたんですが、その時には福田厩舎にも候補生(高橋一成元騎手・2002年秋にデビュー)がいたので、じゃあ小西先生のところで......となったんです。
横川:今にして思えば、そこで辞めずに騎手を続けていて良かった?
齋藤:んー。最初の頃はですね、新潟から一人で来て知らない土地で生活しなければならなかったし、新潟県競馬と岩手競馬の雰囲気の違いのようなものになじめない時期もあったし。毎年毎年辞めようかどうしようかと悩んでいましたね。思うような成績を挙げられない。レースに乗せてもらえない。新人の頃はそういうことで余計に悩むじゃないですか。
横川:デビュー間もない頃に怪我をしたりしてね(2003年、足の怪我により3ヶ月騎乗できず。その年は結局、デビューした前年よりも成績を落として終わった)。あの時は「このまま浮上できずに終わるかもしれない」と心配したよ。
齋藤:いや、自分はそんなに難しく考えてなかったですよ。若かったし、自分一人だったし、なるようになるだろうと思ってた。
横川:まあ、怪我したおかげでいい奥さんを見つけたから結果オーライか。やっぱり結婚が転機じゃない?
齋藤:周りにもそう言われる。小西先生にも結婚して変わったなって言われました。自分で振り返ってみてもやっぱり結婚したことが大きかったかな。その頃はまだあまり勝てない、稼ぎも少ない頃だったから、"こんな自分で家族を養っていけるのか?"といつも考えていた。今年ダメだったら騎手を辞めよう......。いい成績を挙げなきゃ。ヘマをしていられない。毎年その繰り返しでしたからホント競馬に集中していましたね。
横川:辞める話が頻繁に出てきてヒヤヒヤするね。でも、やっぱり家族が支えなんじゃないの? 結婚して子供ができて、それでガラッと変わったと思うよ。
齋藤:周りに"齋藤は結婚してがんばるようになった"と思われるようになって、ちょうどいい結果も出ているから、余計にそう見えるんじゃないかなあ。でもですね、子供に言われたんですよ。「レースのお父さん、カッコイイね」って。自分があまり勝ててない頃にそう言われてちょっとハッとした。自分たちは普通のお父さんじゃないじゃないですか。土日も一緒にいられないし。そんな自分が子供に何かを伝えるとしたら、レースでがんばっている姿を見せるしかない。"背中で魅せる"って言うと格好良すぎだけど、子供達にはカッコイイところを見せたい。だからがんばらなきゃと、それ以来思うようになりましたね。
横川:この3年くらいかな、勝ち星がグンと伸び始めて。そんな大ブレイクの理由はどこに?
齋藤:やっぱり家を建てたからかな~。
横川:また家庭かい!
齋藤:やっぱり言われますもん。「家庭が充実してるからな」って。一昨年は"家建てたからがんばるぞ"。今年は3月に3人目が生まれたから"もっとがんばろう"。家に帰って子供の顔を見てるのが一番のストレス発散になりますからね。家庭が原動力なのは間違いないです。
横川:でも、去年からの大活躍はそれだけが理由とも思えないけど。
齋藤:自分でもあまり実感がないというか......。騎手の数も減ってますからその分でもあるだろうし。固め打ちする馬に何頭も当たったということでもない。ただスランプと言うか"勝てない間隔"が短くなっていったな......とは感じてました。今年は去年以上にコンスタントに勝てていて、楽しくレースができています。なにより心理面で進歩しているという実感がありますね。ゲートに入ると余計なことはサッと忘れてレースに集中できるようになった。技術面はまだ何とも言えないけど心の面は変わったと思う。
横川:最近はね、「雄一に任せておけば」「雄一なら」と厩舎の評価も高い。成績も伴っているし。
齋藤:それはそれでプレッシャーもありますけどね。"ホントに俺でいいの??"って思う部分はまだある。まあでも、結果が良いから周りの見る目が変わっていく......という好サイクルになっているんですよ。自分では昔も今も努力の質が変わっているつもりはないんですが、いい結果が出ているから周りの評価が変わって、それがまたいい結果に繋がっている。いろいろなことが良い方向に向いているんだな、って。
横川:このままなら少なくとも盛岡のエース格は間違いない
齋藤:盛岡で、っていうか、全体のエースでありたいですよ。村上(忍)さんに負けているのは正直言ってもの凄く悔しいです。去年なんかも村上さんに勝ちたい勝ちたいって思って2倍努力してダメで、じゃあ3倍努力すれば勝てるかと思ってやってみたけどやっぱりダメで。今は何が足りないのか分からなくなってるくらいで......。
横川:齋藤騎手は負けず嫌いだからねえ。
齋藤:まあやっぱり負けるのは嫌ですからね。負けないために必死で努力してる......というところはありますね。
横川:さて、この後の目標を聞かせて下さい。
齋藤:厩舎と自分のダブルリーディング、かな。厩舎のリーディングは、自分が来る前は獲ったことがあるそうですが、自分がデビューしてからは一度もないんで、今年はわりといいところにつけていますし、自分もここまで育ててきてもらったからそろそろ貢献できるんじゃないかなと。自分のリーディングの方は、"それが目標!"と思っていてもあまり意識しない方がいいかもしれませんね。
横川:SJT(スーパージョッキーズトライアル)のワイルドカードにも出場しますね。
齋藤:出場する騎手の名前を見るとなんか凄いですね。でも楽しみにしてますよ。ただなあ。自分、こういうイベントっぽいレースは弱いんですよね。どうなるかなあ......。
ジョッキーズチームマッチ第2戦は12番人気のヤマニンエグザルトで勝利
そんなことを言いながら向かった高知でのSJTワイルドカードは総合5位。SJT出場権には手が届かなかったが、今の齋藤騎手らしい戦いぶりは演じてきたのではないだろうか。
今年7月に盛岡競馬場で行われた騎手対抗戦「ジョッキーズチームマッチ」では12頭立て12番人気の馬を勝利に導いてファンをあっと言わせた。8月には重賞・若鮎賞を制して大レースでも存在感をみせる。勝ち星の数だけでなくファンの記憶にも残る騎手へ。それが今の彼を押し上げる"好サイクル"の現れなのだろう。
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※インタビュー・写真 / 横川典視
今年、デビュー10年目のシーズンを迎えた山本政聡騎手。その節目の年に岩手ダービーダイヤモンドカップをアスペクトで制した。昨シーズン限りで菅原勲騎手が引退し、岩手競馬の騎手は世代交代が進んでいるところ。まだ20代の山本政聡騎手は、その旗手になりうる位置にいる。
岩手ダービー馬との出会いは、偶然ともいえる縁がもたらしたものだったらしい。
これまで冬場は育成牧場に働きに行くことが多かったんですが、その年はたまたま行く予定がなくて、そうしたら櫻田浩三厩舎から手伝いに来てくれと言われたんです。それで、アスペクトとエスプレッソの調教も担当しました。そのときの印象は、エスプレッソは成長途上で、アスペクトは完成度が高いというイメージでした。
2011 年の岩手2歳戦線を牽引した2頭だが、対戦成績は山本騎手の印象どおり、アスペクトのほうが上だった。
ただ、気が弱いところがあるんですよ。慣れている盛岡では強くても、水沢でいまひとつなのは、その影響かもしれませんね。
2歳戦線の締めくくりである金杯で惨敗し、その後に移籍した南関東でも苦戦。しかしアスペクトは見事に立ち直った。
南関東から戻ってきたときは、馬に不安感があるような雰囲気でした。それでもだんだん調子が戻ってきて、ダービー前の追い切りのとき、普段は厩務員さんが調教を つけているんですけれど、その人が「すごい手ごたえで、オレでは乗れない」と言ってきたんです。ベテランのその人がそう言うなら間違いないなと思って、ダービーでは自信をもって乗れました。
晴れてダービージョッキーになった山本騎手。しかし2年前にはダービージョッキーになりそこねた経験がある。
マヨノエンゼルのときは、技術的にもまだまだで成績もいまひとつ。ダービー前のレース(七時雨賞)が、自分でもちょっとミスしたなと思える騎乗だったんですよ。それで本番は乗り替わり。経験と技術が伴わないとダメだと感じました。そういう苦い経験があったからこそ、アスペクトで結果を出すことができたんだと思います。
成績が向上していく騎手の多くは、それにつながる何らかのきっかけを礎にする。山本騎手の場合は、それがマヨノエンゼルでの経験だったのかもしれない。
僕がレースに臨むときに考えることは、馬の気分を損ねないようにしようということですね。馬が気持ちよく走っているときは反応が違うんですよ。先行馬に乗る機会が多いですけれど、いちばんに気をつけるのはそこですね。でも、本当に好きなのは差し、追い込み。後方からだと道中でいろ いろ考えながら乗ることができて、騎手としての面白みが感じられますから。
今シーズンは菅原勲騎手の引退後。次代のエースをめぐる争いは熾烈を極めている。
もちろん、自分たち若手が盛り上げていかないと、という意識はありますね。僕よりも若い騎手が攻める騎乗をしはじめていますし。以前は岩手の騎手は岩手だけで乗るのが普通でしたが、最近は外に出ていることもひとつの要因かもしれません。
山本騎手自身も岩手以外での経験が豊富にある。
初めて遠征した佐賀では、岩手とペース配分がまったく違いましたし、それにインコースから一気に追い上げることがあるというのもビックリしましたね。それで僕も岩手に戻って水沢でインからのまくりを一度だけやってみたことがあります。レース後に先輩騎手から「危ないぞ」と怒られましたけれど(笑)。
岩手には小回りで平坦コースの水沢と、広くて起伏がある盛岡という、違う表情を持つ2つの競馬場がある。
水沢では、本命でもコース適性的に微妙という馬がいる場合、その馬を内に入れないようにして力を出させなくすることができますが、盛岡だとそれは無理。盛岡では力量が下の馬を上位に持ってくるには、展開崩れを待つしかないというところがあります。だから、メンバー的にペースが速くなりそうと思ったときには、直線に賭けるという乗り方をするときもありますよ。でも最下級クラスになると、ほとんどが事前の予想ができないくらいの混戦。それなのに新聞紙上で本命印がたくさんあると、精神的にキツイですね。本命で負けると次のパドックでけっこうヤジられるんですよ。『学校にもう一回行ってこい』とか......。
そういったなかでも成績は確実に上昇。プロの世界の厳しさを乗り越えていくためには、やはり自身の努力が必要だ。
馬に乗ったのは教養センターが初めて。卒業するときも、卒業してからも、これで食っていけるという手ごたえはなかったですね。デビューしてしばらく低迷していましたし、もし所属調教師が引退することになるのなら、同時に僕も引退して牧場に就職しようかなと思ったこともあるくらいです。その頃がちょうど結婚のタイミングで、向こうの親から「騎手はちょっと......」とか言われたこともありますし。でもそこで、あと1年だけ乗らせてくれ、と頼んだんです。その1年間は、前の年に比べて本当にたくさん馬に乗りましたよ。冬は荒尾に行けることになりましたし、牧場でも仕事させていただいて。盛岡に戻っても他の厩舎を手伝わせてもらいました。それでだんだん結果が伴ってきましたが、これまで成績が上がってこなかったのは、努力が全然足りなかったからなんだと痛感しました。
水沢所属でデビューした弟に続き、末弟も船橋所属でデビュー。現役では日本唯一の三兄弟騎手である。
僕は子供の頃からあまりガツガツしているタイプではなくて。2番目(聡哉騎手)は僕がひとつ言う間に10 くらい言ってくるような感じで正反対。3番目(聡紀騎手)は僕と同じタイプという感じです。でも行ったのが南関東ですから厳しいですよね。ウチらが岩手で名前を上げれば、3番目にも貢献できると思いますし、2人でもう少し上位に行ければと思っているんです。
長兄らしく、弟を気遣う発言がいくつか。それでも立場はプロ同士。自分が岩手競馬を引っ張る気持ちで、そして一気に頂点まで到達するほどの飛躍を期待したい。
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山本政聡(岩手)
1985年6月28日生まれ かに座 B型
岩手県出身 大和静治厩舎
初騎乗/2003年4月19日
地方通算成績/4,318戦352勝
重賞勝ち鞍/阿久利黒賞、青藍賞、若駒賞、
南部駒賞、岩手ダービーダイヤモンドカッ
プ、オパールカップ
服色/胴紫・黄一本輪、そで紫黄縦縞
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※2012年8月21日現在
(オッズパーククラブ Vol.27 (2012年10月~12月)より転載)
この7月から岩手で7回目の期間限定騎乗を行っている内田利雄騎手。その個性的なキャラクターともあいまって、岩手でも高い知名度と人気を得ている。昨季の在籍時には期間限定騎乗による「岩手通算100勝」も達成。ファンのみならず他の騎手や厩舎関係者からも一目置かれる存在だ。全国区の人気を誇る騎手だけに、内田騎手にまつわるあれこれはこれまでも様々なところで触れられているのだが、今回は改めて自身のこれまでとこれからをうかがってみた。
横川:それでは改めまして、騎手になろうと思ったきっかけのあたりから教えてください。
内田:父が川口でオートレーサーをやっていたんですがね、その父が自分に競馬の騎手はどうだ?と持ちかけて来たんですよ。"馬の背中の上で青春時代を過ごさないか?"という殺し文句でね。オートレースは規模がそれほど大きくないけど、競馬は全国規模のものだから安定しているだろう...と感じていたみたい。
横川:そんなお父さんは、内田騎手を最初から地方競馬の騎手にするつもりだったんでしょうか?
内田:うん、最初は父も"競馬=中央競馬"というイメージだったんじゃないですかね。でも父もあちこち聞いて歩いて、名前を売るのなら地方競馬の方がいいだろうと。中央競馬じゃ芽が出ないまま消えるような人もいるから、すぐに名を売りたいなら地方競馬だろ...という事になって。
横川:そこから宇都宮で騎手を目指す...という話になっていったんですか?
内田:当時は埼玉にいたから南関東の、それも浦和あたりで...って言う話もあったんだけど、父の先輩が北関東に馬を置いてる馬主だった事もあって。じゃあ宇都宮でお世話になろう、とね。それに北関東は騎手の数が少なかった。南関東は当時から多かったから。厩舎もすんなりね。所属する事になった厩舎が、当時宇都宮でリーディングトレーナーだったんですが、所属騎手がいないというので何人か見習いを採っていた。その中で残ったのが自分だけでね。
横川:オートレーサーの息子から騎手というのは、ちょっと珍しいパターンですよね。今でこそ競馬に全く関係のない家庭から騎手になる人も少なくないですが、昔は騎手の息子とか牧場で小さい頃から馬に...とかがほとんどじゃないですか。
内田:まあ同じようなもんでしょ。競技は違っても"レーサー二世"ではあるからさ。でも、小さい頃から競馬を見ておけ見ておけって言われたけど、興味なかったものね、その頃は。"身体が小さいなら競馬の騎手かな"ってくらいで、ダービーがどうとか三冠レースとか知らなかった。ま、その辺は騎手になってからも知らなかったけどね(笑)。そうね、73年くらい。ハイセイコーの頃ですね。
横川:そこからは順調に?
内田:順調そのものですよ。中学2年の夏休みから厩舎に住み込みで仕事をし始めた。家族から離れて一人でね。騎手学校でも真面目そのものの理想的な生徒。
横川:真面目な生徒だったんですか(笑)
内田:何で笑うのよ。真面目で成績優秀ですよ。紅顔の美少年。卒業式では総代もやったんだから。他の生徒が"総代はぜひ内田に"って言うから総代になったくらいですから。それでですね、競馬学校に入る時に面白い話があって。厩舎に通い始めた頃の身長が155~6cm、競馬学校を受ける頃には158cmくらいあったんです。
横川:"小柄"じゃないですね。
内田:そうそう。中学校で真ん中くらい。騎手学校を受ける中では大きい方ね。それで、今はそういう制限は無いんだけど、その頃は身長制限があった。それが156cmなんですよ。まわりからも"ちょっと背が高いんじゃないの~?"と言われていたんですが、1次試験の時に自分を測った先生が間違えた。5cm間違えて153cmという事になった。
横川:5cmってけっこう大きな差ですよね。
内田:まあ、そんなに大きな子は受けに来ないだろう...という意識があったんでしょうね。結局二次の面接の時に"内田、お前、なんか大きくないか?"という事で測り直したんですけども、あの時先生が間違えていなければ、もしかしたら一次で落ちていたかもしれませんね。
初めて岩手で期間限定騎乗を行った最終日、自身のバンド「ひまわる」のライブ演奏でファンを楽しませた(2005年8月16日、盛岡競馬場)
横川:それから三十有余年たちました。
内田:今年の10月で34年ですね。17歳の誕生日の2日後から騎乗し始めて、今年51歳になりますから。
横川:この間の、内田騎手の記憶に残っている馬を挙げていただくと...? たくさんいるんでしょうが、あえて絞っていただければ助かります。
内田:それはやっぱりブライアンズロマン。それとベラミロードですよ。1度しか乗ってないけどカッツミーとか、最近で言うとソスルデムン(釜山)とか、マカオのGIを勝ったスプリームヒーローとかもね、それぞれ思い出があるけど、やっぱりその2頭ですね。
横川:まずブライアンズロマンから、改めてどんな馬だったかを。
内田:自分に初めてのグレード(上山・さくらんぼ記念GIII)を獲らせてくれた馬ですし、北関東の大レースをたくさん勝ってくれた。すごく頭が良い、でもちょっと臆病なところがあって本当は馬ごみを嫌った。力の違いで揉まれるようなところに入る事はなかったんだけどね。あの頃にしては足長で、繊細な感じの体型。あの馬が出る前はああいう雰囲気の馬はあまり地方競馬にはいなかったですね。
横川:ベラミロードは僕もユニコーンSを見ていました。
内田:最後の最後でゴールドティアラに差された時ね。あまり大きな馬ではなかったけど、あれだけバネがある馬は乗った事がなかった。乗っていて気持ちよかったですよ。でもね、普段はおとなしくて何にもしない。何日も調教を休ませても全然暴れたりしない。調教師が"大丈夫なのか?"って心配するくらいおとなしいの。でもレースでは速い。凄いよね。
2000年の東京盃、2001年のTCK女王盃を勝って、NARグランプリ2000の3つの部門(年度代表馬、最優秀牝馬、最優秀短距離馬)で賞を獲ったんですよ。一度に3つも獲れるなんていうのもあの馬らしい。
小学生の頃に約2年間通った軽米町・観音林小学校で特別授業を行った(2009年7月7日)
横川:さて、これまで全国を回ってきた内田騎手が、浦和に腰を落ち着ける事になった。ちょっと衝撃的なニュースでもありましたが、その辺の経緯を教えてください。
内田:全国を回るのも年齢と共にだんだんと難しくなっていくんでね。浦和の騎手会長の見澤騎手(内田騎手の教養センター同期生)の勧めもあって、何年か前に出しておいたんですよ、その申込みのようなものを。南関東4場の騎手会でなかなか足並みが揃わなくて先送りみたいな形になっていたんですが、昨年荒尾が廃止になったでしょう。それで"廃止場の騎手を1場に1名受け入れる"という規定ができたんだそうです。つまり4場で4人までね。
横川:その規定を拡大していって内田騎手にも適用、と?
内田:拡大っていうか"そのもの"ですから。"廃止された宇都宮競馬場の騎手"ですから。転々としていたといっても無くなってからですからね。それで受け入れてもらえる事になったんです。
横川:落ち着く先ができたのは喜ばしい事ですが、毎年来てくれると思っていた自分たちから見ると正直寂しいです。
内田:僕も寂しいですよ。もう全国を回る事はできないでしょうからね。今年は"今までお世話になった皆さんにご挨拶をしたいから"と無理を言って回らせてもらってますが、今年の残る時間、できる限りあちこち行きたいと思うけども、日程がうまく組めなくてね。
横川:来年からの「浦和の内田利雄」はどんな騎手として生きていくのでしょうか?
内田:変わりないですよ。変わりない。1日でも長くレースに乗る、と。
横川:そろそろ騎手人生の終着点、引退という文字が...という事はないですか?
内田:引退してもやる事がないもの。それはもう乗れるだけは乗らないとね。だってねえ、志半ばで辞めてったわけですから、宇都宮時代の仲間が。そういう仲間たちの分までやらなくちゃならない。そういう使命があるんですよ。みんなだってそうでしょう? 東北で被災した人たちの分まで幸せにならなくちゃならないんですから。
横川:4000勝とかという記録とかが目標ではなく?
内田:そんな事はとてもとても。騎手として1レースでも多く乗る、って事ですよ。いつまでも若くはないんだから記録を狙って...なんてとてもね。もちろん与えられた仕事はきっちりこなしますが、いつまでも俺が俺がじゃなくて、若い芽を伸ばしてあげないとね。僕と一緒にレースに乗ると、若い騎手たちは楽しそうでしょ? 時には前に立ちふさがるかもしれないけど、若い奴らはどんどん越えていきますよ。そうやって世代が変わっていくんです。
例年、夏の頃に岩手で騎乗する事から"夏の風物詩"ともなっていた内田利雄騎手だが、浦和競馬所属となった事で期間限定騎乗で岩手に来るのは今回がラストという事になる。
自分からすれば内田利雄騎手の騎乗をもっと岩手で見てみたいし、その「終の棲家」は岩手競馬であって欲しかったとも思うのだが、こうなったからには内田利雄騎手の岩手での騎乗を応援しつつ目に焼き付けておく...というのが内田利雄騎手の決断に対する最大のリスペクトだろう。もちろん、また岩手で騎乗する姿を見る事ができる日を期待しながら...。
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※インタビュー・写真 / 横川典視