
10月17日、金沢競馬第11レースをビヨンドザシーンで勝利し、金田一昌調教師が地方競馬通算2,500勝を達成しました。そこから約1カ月半(2021年11月29日現在)でさらに25勝を挙げ、着々と勝ち星を積み上げています。
地方競馬通算2,500勝達成、おめでとうございます。
ありがとうございます。頑張ってくれる馬たちやオーナーの方々、スタッフのみんなのお陰です。
2,500勝という数字はいかがですか?
調教師としてスタートした頃にはまさかこんなに勝てると思っていなかったですね。騎手ならばまだ可能かもしれないですが、当時は調教師で1,000勝を超えることもあまりなかった時代ですから。うちの父(金田鼎元調教師・高崎)は通算770勝だったんでね、数字の上ではだいぶ超えたわけですが、まだまだ自分にとっては通過点だと思っています。
毎年100勝以上して全国の調教師リーディング争いをしていますが、今年はここまで132勝で第4位です。
毎年調教師リーディングの上位争いに参加出来るのは嬉しいです。ただ今年は高知の打越(勇児)先生が突き抜けていてすごいですよね。いつも上位争いをしている先生方とは仲が良くて、たまに電話して励まし合ったりしていますよ。また頑張ろうといい刺激をいただいています。特に高知は売り上げもすごいですし、活気があって見習いたい部分がたくさんありますから。
例えばどんなところですか?
やはりお客さんに注目してもらう工夫や、番組を面白くしようという努力をしていますよね。金沢ももっといろいろやれることはあると思うんです。例えばナイター競馬はたくさんあるからモーニング競馬をやってみるとか。朝7時頃から初めてメインレースをお昼休みくらいに設定すれば、注目してくれる方もいるのではないでしょうか。朝からレースをすることに関しては、そもそも調教が朝なので、馬もスタッフもそれほど負担はないですし、やってみる価値はあると思うんです。私がもともと所属していた高崎が廃止になって、もう17年経つわけですが、今でも高崎が続いていたらと考えることがあります。もしもあと何年か持たせられたら、インターネットでの発売が出来て、なんとか廃止を乗り越えられたのではないかと。悔しい想いをしている分、現状に満足せずいろいろ挑戦していきたいですね。
2019年石川ダービーをロンギングルックで制した際の表彰式
今年は金沢でJBCが行われ、注目度も上がっています。
JBCは売り上げ的にも大成功でしたし、何といっても地元の吉原寛人騎手の活躍が嬉しかったです。やっぱり吉原君は巧いなと思いましたし、吉原君の実力を改めて全国の方に見せられたことが嬉しいです。自分もJBCのような大舞台で活躍する馬を育てたいですね。今も勝ち星はあるんですが、スターホースがなかなか育たなくて。以前うちに居たジャングルスマイルのような、金沢の看板になれる馬をまた育てたいです。
調教師デビューから22年、モチベーションを保つ秘訣はなんですか?
なんでしょうかね。やっぱり馬が好きということでしょうか。仕事が終わって誰も厩舎にいない時間帯にも、馬房を覗いて1頭1頭馬たちを見るんです。飼い葉食いの良くない馬がいたらニンジンを足してあげたり、1頭1頭ケアすることが違うんですよね。どの馬も可愛いですし、そうやって毎日忙しく動いていることが情熱に繋がるのではないかと思います。
54歳で2,500勝を達成しました。今後の目標は何ですか?
数字的なことを言えば、まずは3,000勝を目指したいですし、生涯をかけて5,000勝を目指したいですね。それからやっぱり若馬の成長、飛躍ということをすごく考えます。2歳の強い馬を育てて、石川ダービーもまた勝ちたいです。
石川ダービーは今年まで5回中4回も勝っていますが。
ダービーは毎年勝ちたいですよ。もちろん他の重賞も勝ちたいです。今年はアイバンホーが頑張ってくれてダービーを勝ったわけですが、担当厩務員の辻加武斗君は23歳と若いんです。馬の成長はもちろんですが、スタッフの成長も嬉しいですね。こちらも刺激になりますし、毎日楽しく頑張っていますよ。
今年アイバンホーで金沢二冠制覇(写真は北日本新聞杯制覇時)
では、オッズパーク会員の皆さまにメッセージをお願い致します。
競馬ファンの皆さまに楽しんでいただけるよう、これからも強い馬づくりに精進してまいります。今年も開催が残り少なくなって来ましたが、引き続き金沢競馬をよろしくお願い致します。
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※インタビュー / 赤見千尋(写真:石川県競馬事業局)
10月21日に地方通算1,000勝を達成した藤ケ崎一人調教師。さらに11月には管理馬で宮下瞳騎手が地方通算1,000勝目を挙げたほか、ナムラマホーホが東海菊花賞を勝つなどおめでたいニュースが続きます。
地方通算1,000勝おめでとうございます。
ありがとうございます。近づいているのは分かっていましたが、あとから「このレースで1,000勝でした」と聞いたので、実感はそんなになかったです。
お父様も名古屋の調教師。その背中を見て、この道を志したのでしょうか?
父が騎手をしていたので、小さい頃からその姿を見てきて、馬が近くにいる環境でした。大学を卒業してから栗田和昌厩舎で厩務員をして、調教師補佐の試験を受ける前に父の厩舎に移りました。
厩舎の初出走は33歳の時で、若くして調教師になられたんですね。
流れのままと言いますか、年齢的に調教師補佐を受ける頃になったので受験し、何年か補佐をやったら次は調教師、という感じで受けました。
厩舎初出走からもうすぐ24年目になります。これまでで一番嬉しかったことはなんですか?
少しですけど重賞も勝たせていただいて、それも嬉しいのですが、一番嬉しかったのはアラブのオープンレースを勝った時です。キタイセネオンという馬がいたんですけど、開業当時はまだ若かったので自分でも調教に乗っていました。深管骨瘤で脚元に不安があって、強めに乗ると歩様が悪くなり、なかなかスムーズに進められなかったのですが、時間をかけて少しずつ力をつけて勝ち上がって、アラブのオープンレースを勝ったんです。実力は結構あると感じていて、体質が強くなってからはさらに活躍してくれました。
宮下瞳騎手が地方通算1,000勝を達成したリアルスピード
嬉しい出来事と言えば、11月18日に宮下瞳騎手が地方通算1,000勝を達成した時に騎乗していたのが藤ケ崎厩舎のリアルスピードでしたね。
うちの馬で勝てればいいなと思っていましたが、めぐり合わせですからね。新聞には印がついていましたけど、ちょっと難しいところがあって、色気を出してスタートから仕掛けていったり、勝負所で早めに仕掛けると、しまいの脚が甘くなってしまう馬なんです。
この日のレースはバラけた展開になって、「こんな展開で大丈夫かな?」と心配していたんですけど、(宮下)瞳ちゃんがその辺りを考えて追い出しをすごく我慢して、上手く乗ってくれました。
勝った時のお気持ちはどうでしたか?
リアルスピードのオーナーが前日からすごく楽しみにしていて、喜んでくださってよかったです。1カ月ほど前にオーナーとお会いした時に「うちの馬で1,000勝目を勝てるといいなぁ」とおっしゃっていました。その時はまだいつ頃に達成しそうか見えていなかったんですけど、前日の最終レースを勝って999勝で、次の日の1鞍目がリアルスピード。僕や馬よりもオーナーが興奮されていました。
その翌日にはナムラマホーホで東海菊花賞を勝って、厩舎はおめでたいこと続きでした。ナムラマホーホは昨年2月にJRA未勝利から移籍してきましたが、当時の印象はどうでしたか?
430kg台でそんなに大きな馬でもないですし、馬っぷりも「すごくいい馬だ」というわけでもなかったんですけど、移籍初戦が強い勝ち方で、想像以上に走る印象がありました。
ナムラマホーホで東海菊花賞制覇
その後は連勝街道を歩み、今年7月の名港盃(1,900m)で重賞初制覇を果たすと、1,400mのベイスプリントも勝利。短距離でも中距離でも重賞を勝っていますが、適距離はどのあたりでしょうか?
1,800mや1,900mの方が序盤に慌てさせずにすむので、いいような気がします。移籍当初は下のクラスからだったので逃げ・先行が多かったですが、上のクラスに上がって他に速い馬が出てきた時に中団からでも競馬ができたことが、ここまで活躍できている要因かなと思います。長い距離になっても掛かることもありませんしね。
藤ケ崎調教師ご自身はこれからの目標などは定めていますか?
オーナーから大事な馬を預かっているので、これからも毎日コツコツ、手を抜かずに管理していきたいです。少しでも喜んでいただけるように、いい成績を残せられたらと思います。
最後に、オッズパーク会員のみなさんへメッセージをお願いします。
来年4月からは競馬場が移転して、弥富でレースが行われます。今の競馬場に来られている方にとっては遠くなってしまいますけど、少しでも足を運んでいただいて応援していただけると嬉しいです。
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※インタビュー・写真 / 大恵陽子
8月16日の盛岡第6レースで村上実調教師が地方通算1,500勝を達成した。村上実調教師は騎手として812勝を挙げ、岩手のトップジョッキーとして活躍。そして調教師としてもトップクラスのトレーナーとして見事な勝利数を積み重ねてきた。今回は師に思い出の馬などを振り返っていただいた。
まずは1,500勝達成おめでとうございました。
ありがとうございます。
1984年に調教師として開業されて37年になりますが、この1,500勝を振り返ってみて、ここまでの道程の感想とか苦労された事とかは何かありますか?
特別な苦労というのはあまり感じなかったですね。わりと順調に来た方ではないでしょうか。良い馬にも巡り合ったし、特別に"苦労した"という感じはないかな。
村上先生は騎手から調教師になられたので改めておうかがいしたいのですが、騎手としてもトップジョッキーとして活躍されて、みちのく大賞典や桐花賞も勝たれていますけれども、それほどの騎手が若くして引退されたのはどうしてだったのでしょうか。
いやもう減量がきつくてね。なんせ毎年10キロから減量しなくちゃいけなかったから。騎手を引退したのが32歳の時ですか。もうちょっと乗りたかったんですけども、体が追いつかなくなった。減量には勝てなかったですね。
調教師に転身された当初の苦労は何かありましたか。
開業した当時は資金も足りなかったし、いろいろ苦労はありましたね。でも開業2年目にトウケイフリートという走る馬に恵まれて、それからはほとんど苦労はしなかったです。
自分が岩手競馬を見始めたのはもう少し後の頃からなので実際のトウケイフリートを知らないんですけれども、どんな馬だったんでしょうか。
ごろっとした幅のある馬でしたね。馬体重は500キロぐらいあったと思ったね。上にはそんなに大きくはなかったけど幅があった。脚がちょっと内向で、それがあったから中央とかに行けなかったんじゃないかな。でも故障しないでよく走ってくれた馬でした。
デビューが今で言う3歳の4月で、かなり遅いですよね。
やっぱりその内向のせいで強い調教がなかなかできなかったんですね。徐々に調教のペースを上げていかないと脚元が保たなかった。じっくり仕上げていったのでデビューが遅かったのだと思います。でもデビュー2戦目にはもう特別を勝ったのだからやはり力がある馬でした。
こういうとなんですが、開業してまだ2年目くらいの新人調教師のところに重賞を勝ちまくるような馬が巡ってきたわけですから、凄い順調というか幸運というか......。
トウケイフリートが来たのは騎手時代に同じ馬主さんの馬(トウケイホープなど)に乗っていた繋がりのおかげでもありました。トウケイフリートの時は、馬主さんが若駒を買ったから見て来いということで、あの馬はえりも農場の生産でしたけども、えりもまで見に行ったこともあります。結果、その馬が当時あった重賞のほとんどを勝つくらいになって厩舎の流れも良くなった。上手くいきすぎといえばいきすぎでしたね。
さて、思い出に残る馬としてはまずトウケイフリートが挙がるとして、もう1頭挙げていただくとするとやはり......。
トニージェントだね。
トニージェント(2005年みちのく大賞典の返し馬)
トニージェントが先生のところに来た経緯は覚えておられますか。
トニージェントは確か補助馬だったんじゃないかな。牧場まで見に行って決めたんです。若馬の頃は細かったね。細くて脚長で。小さい頃の見栄えはイマイチだったと思う。徐々に身体の幅が出てきて良くなってきた。
デビュー戦の時は453キロでしたね。
初戦はもちろん勝ったんだけど、身体はまだ弱かった。レースを使って動きが悪くなって、確かしばらく休養したと思う。今思えばその休養が良かったんじゃないのかな。それで身体ができてきた。
そうですね、半年休養してからの復帰戦が490キロになっていますね。
ああ、そうでしょう?その辺からだんだん体ができて、走るようにもなっていった。
トニージェントは、グレードレースを勝ちたかったですね。勝てそうなレースはいくつかあったんじゃないかと今でも思っています。
船橋(2003年かしわ記念)は惜しかったね。あの時は、4着だったか。1コーナーで少し進路が狭くなる不利があって、あれがなければもっときわどい勝負になっていたんじゃないかなと思っていました。勝った馬から1馬身ぐらいしかなかったからね。
2003年かしわ記念(当時GII)。トニージェント(左)は4着に食い込んだ
上山のさくらんぼ記念や佐賀記念、名古屋大賞典なんかも惜しかったですね。当時下川さん(トニージェントの担当厩務員)と"もうちょっとで勝てたよね"と悔しがった記憶があります。
これも今思えば直前の輸送にはちょっと弱かったかもしれないですね。東北ダービーの新潟もそうだし、上山でも負けてるから。それで佐賀記念の時は早めに移動して長期滞在で挑んだ。相手が強くて勝てなかったけれども馬には滞在競馬の方が良かったと思う。それから夏場はあまり良くなかった。
というと?
夏は暑さにちょっと弱くてね。夏はあまり勝っていないでしょう?でも冬のレースは勝っている。冬場は体調が良くてすごく調子がいい時期だったね。
ああ、確かにみちのく大賞典を勝ったのはレースが8月から6月に移動してからですね。8月の時は2回走って2回とも負けています。
そうでしょう?夏場はちょっと良くなかったからね。だから7歳、8歳の頃は夏は休養にあてて、マーキュリーカップを走った後は北上川大賞典まで間を開けていましたね。やはり寒い頃は走ったね。
ところでそのトニージェントなんですが、デビューから引退までほぼずっと村上忍騎手が乗っていました。先生としてはやはり息子の忍騎手を育てようという狙いというか意思があったんでしょうか?
もちろんそうですよ。やっぱり強い馬に乗せないと上手くならないからね。馬に教えられるわけだから、重賞を勝てるような馬に乗っていないと騎手も上手くならないですから。
村上実調教師は騎手だった80年代からずっと岩手競馬を見ておられるわけですけども、昔と今の岩手競馬で変わった点とかありますか。
自分が騎手だった頃は交流競走がほとんど無かったですよね。今はどこでも乗れるからね。最近はコロナで難しかったりするけども、その辺が一番違うんじゃないかな。レースに出すにしても中央に行って使うなんて自分が若い頃には無かったですから。
最近は売り上げも上がってきてるんですけども、苦しい時期を乗り越えたといえる今はどう思われますか。
だいぶ良くなったけれど、でもまだまだと言いたいですね。これからどんどん伸びてくれればいいんですが。
村上実厩舎の期待の馬を挙げていただくとすると。
リリーモントルーかな。夏場は夏負けで調子が良くなかったですが涼しくなって立ち直ってきた。中央の頃は芝で走っていたし、トビが軽い馬ですから芝がいいかなと思って連れてきたけど、でもダートでもどっちでもいいのかもしれない。重賞を何か勝てればいいなと思っています。
厩舎の期待馬リリーモントルー
ひと区切りの1,500勝を達成したということで、この先の目標を教えてください。
この先といっても大きな目標は持ってないですが、何か重賞を獲りたいですね。それが今は一番の目標かな。
リリーモントルーや、ハーベストカップを勝ったリンシャンカイホウ(写真)は村上忍騎手の息子・村上朝陽厩務員が担当。"親子三代"での重賞制覇を目指す
それでは最後にオッズパークの会員さんにひとことを
いつもインターネットで岩手競馬の馬券を買っていただいてありがとうございます。これからも岩手競馬を応援してください。
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※インタビュー・写真 / 横川典視
9月12日に地方通算2,000勝を達成した九日俊光調教師(佐賀)。初出走から27年の間には九州ダービー栄城賞4勝や、5年連続佐賀リーディングなど多くのタイトルを手にしてきました。今年も佐賀リーディングを走る九日調教師のいまのお気持ちとは。
2,000勝おめでとうございます。記録が近づいているのは意識してらっしゃいましたか?
ありがとうございます。2,000勝は全然気にしていなかったです。この年齢になると、2,000くらい勝てるかな、と感じています。
厩舎初出走は1994年4月。調教師になったきっかけは何でしたか?
佐賀で騎手をしていたんですけど、体重が重たくてね。
開業した頃の思い出に残っていることは何ですか?
初勝利がB級の重賞(1994年佐賀競馬リーディングジョッキー特別・カイキョウロマン)で、首からかけるレイがあったんですよ。開業にあたって他の先生のところから預かった馬だったんですけど、記憶に残っています。
9月12日、地方通算2,000勝を達成したシゲルブチョウ(写真:佐賀県競馬組合)
それから27年、多くの重賞レースを勝ってきました。記憶に残っている馬は?
ありがたいことにここまで恵まれてきて、思い出の馬はいっぱいいます。開業して最初に預かった2歳新馬がキングオブザロードという馬でした。それがめちゃくちゃ走ってね、佐賀で賞金を1億円稼ぎました。2歳で来た時はそんなことはなかったのですが、年が明けて3歳になるといい馬になってきて、ダービーとかを意識できるようになりました。
佐賀のダービーにあたる栄城賞を勝ち、その後も重賞を勝ちました。
プロキオンステークスや小倉日経オープンなど中央競馬にも遠征に行けて、若かったので「挑戦だ!」とはしゃいで楽しかったですよ。安藤くん(安藤勝己元騎手)とは同級生なんですが、当時は彼もまだ笠松から中央に遠征していた時で、遠征先で一緒になるといろいろ話したりご飯を食べたりできて、楽しかったです。
安藤くんが佐賀のJRA認定レースをうちの厩舎のコウエイリードで勝って、ひまわり賞(小倉競馬場が改修中のため京都開催)に遠征したんですけど、その時も安藤君に乗ってもらいました。佐賀の馬に笠松のジョッキーが乗って中央に遠征するっていうのが楽しかったですね。
JRA遠征と言えば、スーパーマックスの2017年チャレンジカップ(GIII、阪神芝2,000m)も5着で興奮しました。
気づけば5着で、「やったじゃん」という感じでした。翌年には阪神大賞典にも出走したんですけど、佐賀デビューの馬でGIIに出走できるというのが嬉しかったです。GIIに出走できることなんて、最初で最後かもしれないと感じました。
阪神大賞典に出走したスーパーマックス(写真:大恵陽子)
そういった活躍馬をこれからもどんどん育てられることと思います。
もう自分たちはゴールに入った後の流し運転に入っている感じで、若い子たちにガンガン抜いていってほしいなと思います。
今年61歳。後輩たちの活躍も願ってらっしゃるんですね。とはいえ、今年も佐賀リーディングを走っています(10月17日現在)。
馬房数が40くらいあって、馬がたくさんいますからね。馬主さんに恵まれています。何年か前に売り上げが落ちて一番キツかった頃に馬房数を増やせたんですけど、あの頃は佐賀の在籍馬も少なくて、潰れるんじゃないかって言われていました。今は売り上げが伸びていて、ありがたいですね。
2018年九州ダービー栄城賞を制したスーパージェット(写真:佐賀県競馬組合)
今後について、目標や勝ちたいレースなど教えてください。
佐賀競馬の調教師としてはこれまでたくさん勝たせていただきました。高知優駿も、今から考えると「佐賀の馬が勝てるなんて」と思いますが、スーパージェットで勝たせていただきました。佐賀の調教師として中央のGIを勝つっていうのは、それはもう夢物語なので、セリで自分が見つけた馬が中央の先生の元でGIを勝ってくれることが夢ですかね。
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※インタビュー / 大恵陽子
9月12日のばんえい第2レースでフンコロガシが勝ち、西邑春夫調教師(73)は1,500勝を達成しました。開業38年目、ばんえい競馬の調教師では歴代8人目(現役5人目)の快挙です。
(写真:ばんえい十勝)
1,500勝、おめでとうございます。
ありがとうございます。年齢的にも少し焦っていたので無事達成できてよかったです。
旭川市出身ですね。競馬との関わりを教えてください。
姉が競馬場に友達がいて、その紹介です。スキーで高校に行きたいという思いもあったけれど、働いてほしいと親にも言われたから中西関松さんの厩舎に入りました。ばん馬は大きいし体重もある。家に馬もいなかったし、続けていけるんだろうか、と思ったけれど慣れてきた。
ばんえい草創期の大スターといわれる、中西関松さんのもとで働かれていたのですね。どのような方でしたか。
当時、中西さんは騎手と調教師を兼業していました。名人だ。馬に対しては厳しかった。「自分が食わなくても馬に餌やれ」と言われました。大事にするのは餌やり、運動。朝の調教、昼には外に馬を出し、夜には手入れ。きつかったですね。
教えが今の厩舎にも受け継がれているんですね。
時代が変わったから。同じことをしていたら人が長続きしないから、若い人がいなくなるよ(笑)。今厩務員は3人います。
騎手生活について教えて下さい。1973年デビューですね。
少し乗ってはいたけれど、2、3年かな。乗るのは嫌いだった(笑)。調教師のほうがいいよ。
その後、1977年に中西さんが58歳で調教師専業になり、騎手と調教師の兼業が終わりました。西邑先生の調教師開業は1984年でしたね。
中西さんはものすごく喜んでくれた。開業の時には道具を回してくれたり、たくさん後押ししてくれました。開業した年に、今厩務員をしている次男が生まれたのでよく覚えています。1カ月で競馬場に連れてきたな。所属騎手と兄弟のように育ったよ。中西さんには本当にお世話になった。1989年に調教師を引退してから1年たたずして亡くなられました。
さて、サカノタイソンについてお話を聞かせてください。3歳時に西邑厩舎に転厩し19連勝しました。
大きかったな。体高もあったし。他の厩舎から移籍して来たとき「すごいな」と。3歳だけど他の馬より大きいね、とみんなと話をした。ただ心臓が弱かった。レースが終わるたびに獣医師に見てもらって、鍼を打ったりしていたよ。夏が弱かったから、岩見沢はほとんど使っていないんだ。タイムが速い競馬もあるし。大事に使われていた。
レースは騎手に任せていた。20連勝を狙っていたけれど......(春休み明けの1999年6月のレースで4着)。調子が良くなかったけれど、連勝の期待がかかっていて使わざるを得なかったからね。
初めて勝ったばんえい記念(2001年)は、最初は使う予定がなかったんだ。だから主戦の藤本騎手はグレイトジャイナーに先約があって乗らなかった(大河原騎手騎乗)。当時5歳だったスーパーペガサスが来年はばんえい記念に出てくるだろうから、と早めに使うことにしたんだ。
勝ったときは嬉しかった。自分の厩舎でばんえい記念を勝てるとは感無量。2回目のばんえい記念(2002年、初参戦のスーパーペガサスは2着)の前は、特別戦ばかり走り、考えながら使っていた。種馬になったけれど、長生きできなかったな。心臓に爆弾抱えていたから......。
ばんえい記念を制したサカノタイソン(2001年2月18日)
一昨年、ホクショウマサルが19連勝の記録を塗り替えました。正直、その時どう思われましたか。
良かったなぁ、って。あれだけレースを使って連勝するのは大変だよね。あれくらいの馬はいない。騎手も大変だったろう。
ソウクンボーイの引退式。左端が西邑春夫調教師
過去の所属馬について教えて下さい。まずは今年引退式を行ったソウクンボーイはいかがでしょう。
障害だけが難儀するんだ。ずるいところもあった。ばんえい記念は、出る馬が少なかったから無理して使ったところもあった。2歳で重賞を勝つ(2012年ヤングチャンピオンシップ)とハンディもあってその後は大変だったが、いい思いをさせてもらった。馬主さんがとてもいい人だから、大事に使うことができた。
ユミタロウ(2003年旭川記念)は力があるが、ずるいところがあったな。種馬になろうとした矢先に事故で亡くなってしまいました。ナリタボブサップ(2010年ばんえいグランプリなど重賞6勝)もいい馬だったな。強かった。
騎手時代にはキンパイやヤマサラツキーが思い出に残っています。活躍馬ではカミチカオウですね。馬主から、周りの人たちからいい人に恵まれて、幸せだと思う。真面目な馬もいたし、いろいろと教えた馬もいたね。
ユミタロウ
現在の所属馬について教えて下さい。ビールはレースの際に、枝豆などおつまみの飾りがたてがみについていてかわいいですね。
ビールはもう少し体重があればな。これからです。
フナノダイヤモンドは馬場が軽いといいが、重くなると辛いんだ。期待はしている。
1,500勝をしたフンコロガシ、馬名の意味はわからないんだよな(笑)。
1,000勝達成時は2007年3月17日、ばんえいの4市開催が終わりを告げる頃でした。
こんなに長いことできるとは。4市による市営競馬組合が解散した時にもうばん馬は終わりかな、って思ったよ。存続して嬉しかった。願わくば、もう一箇所あればいいね。でも昔のように4市で回っていたら、体力的に続けられないと思う。昔は賞金も高かったし、いい時代だった。それでもここ最近は良くなってきたよ。
最後にオッズパーク会員に一言お願いいたします。
ファンや馬主さんに本当にお世話になった。これからも1勝1勝を大事に頑張っていきます。自分が引退してからも競馬が続くように、これからも盛り上げていただければと思います。
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※インタビュー・写真 / 小久保友香