兵庫所属の松浦政宏騎手は、2013年9月12日に通算1000勝を達成。兵庫では上位4名の騎手が強力ですが、12月18日現在で第6位となる勝ち星を挙げています。
浅野:通算1000勝達成、おめでとうございます。昨年はケガで半年ほど休んだわけですが、通算1000勝というのが復帰への意識としてあったんでしょうか。
松浦:いえ、それは特になかったですね。デビュー当初から、この仕事はケガがつきものだと思っていましたし、ケガしたからどうのこうのということは考えにはありませんでした。ただ、収入がとどこおるというのは大変でしたけど。
浅野:馬場入場時に負傷したわけですが、復帰まで意外と時間がかかりました。
松浦:最初の診断は全治1週間の打撲だったんですけれど、検査するたびにその期間が延びて、結局全治6ヶ月。左足の十字靱帯損傷のほかに、骨もはがれていて、そこをボルトで押さえてもまた取れる可能性があるらしかったんですよ。そういうわけで、中途半端な状態で戻るよりは、リハビリをしっかりしたほうがいいだろうという結論になったんです。
浅野:リハビリ中はどんな感じだったんですか?
松浦:リハビリ担当の医師から言われたことを家でずっとやっていましたね。4ヶ月後あたりから走れるようになって、半年後の12月中旬から馬に乗れるようになりました。今も手術したところが突っ張ることはありますが、実戦では意識することがないレベルですね。乗っている感覚も前と変わらないです。ただ、まだ正座はできないんですよ。
浅野:松浦騎手は騎手を引退して、4年後にまた騎手免許を取得されました。その間、よく騎手の体型を維持できたなあと思います。
松浦:ウチの一族には大きい人がいないので、そういう家系なんでしょうね。競馬から離れているときも、体重のことは気にしていませんでした。でもこの間のケガで休んでいるときに、少し体型が変わった感じはしますね(苦笑)。
浅野:それでも今年1月下旬に復帰したあとは順調に勝ち星を重ねてきています。
松浦:関係者の皆様にいい馬に乗せていただいているからですよ。そのおかげでの成績だと思います。自分としては、ファンや関係者のかたに納得していただけるレースをするということをいちばんに心がけていますね。新聞紙上の印がどんなのであろうと1戦1戦を一所懸命に乗る。それはデビュー当初から思っていることです。
浅野:そのなかで、数々の印象深い勝利を残してきました。多くのファンには、勝負どころから一気に差を詰めてくる紫の勝負服というイメージが、強烈に頭に刻まれているように思います。
松浦:やっぱりそう思われているんでしょうね。でも個人的には逃げ馬だったら逃げたいし、その馬の持ち味を出す乗り方をしようという気持ちですよ。
浅野:確かに、ポアゾンブラックとのコンビでは先行策で活躍しました。
松浦:あの馬は乗ったときから違うと思える感覚がありましたね。能力があるからこそ、難しい面もありました。1400mくらいまでなら押し切れるんですが、それ以上だと折り合いがどうしてもカギになります。兵庫ダービー(2着)のときは乗り難しかったですね。でも、それからJRAに移籍して活躍しているのはうれしいことです。
浅野:またトップを目指せる馬に巡り会いたいですね。
松浦:そうですね。ただ、レッドゾーンにしてもポアゾンブラックにしても、自厩舎の馬なんですよ。また活躍馬に乗せてもらいたいですが、ほかの厩舎から乗ってくれと依頼される騎手になってこそだと思うんです。そういう存在になれるように、技術はもちろんですが、人間として一流に近づいていきたいです。
浅野:松浦騎手がここまで来ることができた原動力は何なのでしょうか。
松浦:実家は社(やしろ・現在は兵庫県加東市)で、父親の勧めで騎手という仕事を考え始めて、那須(地方競馬教養センター)に行ってから初めて馬に乗ったぐらいなんですが、やるからにはやっぱり負けたくないなという思いはありましたね。でもすべては、いい人たちに出会えたことだと思います。
浅野:今後の目標などはありますか?
松浦:具体的な目標はないですね。任せられた馬を関係者が考えている成績より上に連れていけるように。それを積み重ねていくだけです。
受け答えに派手さはありませんが、それは松浦騎手がもつ誠実さと職人的な気持ちから来ているのだという印象を持ちました。コツコツと成績を積み重ねてきた松浦政宏騎手のさらなる前進に期待していきたいと思います。
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※インタビュー・写真 / 浅野靖典
自身初の南関東期間限定騎乗を経験し、さらにパワーアップした愛知の岡部誠騎手。今年も名古屋リーディングが決定的な東海の絶対王者に、現在の心境を伺いました。
赤見:先月開催されたオッズパークプレミアムパーティーでは、ファンの方々と一緒にお酒を酌み交わしてましたね。
岡部:僕自身もあんな風にファンの方と一緒に飲むのは初めてだったので、本当に楽しかったですよ。『いつも応援してます』とか、『中央でももっと活躍して下さい』って言っていただきました。なかなか競馬場に来られない方々だということでしたが、ものすごく詳しくてビックリしましたよ。競馬のことを色々お話して、『どの辺から仕掛けて行くのか』とか、『どうやっていいポジションを取るのか』とかね、ファンの方が普段疑問に思っていたことを直接お答えすることが出来て、僕としても嬉しかったし、刺激になりました。やっぱり、自分としては頑張っているつもりでも、ファンの方たちはお金を賭けて競馬を見てますから、自分たちとは違う視点があるじゃないですか。逆にファンの方がどう思ってるのかを聞くことも出来て、すごく勉強になりましたね。
赤見:ヤジ的なことは言われなかったんですか?
岡部:幸いにもなかったです(笑)。いやホントに、すごく応援してもらいましたので、もっともっと頑張ろうって思いましたね。これで僕の成績が上がったり、どこかで大きいレースを勝ったら、『こないだ岡部としゃべったんだよ』って喜んでもらえるんじゃないかなと思って。そういうことが、ファンの皆さんへの恩返しですから。
オッズパークプレミアムパーティーにて。笠松の尾島徹騎手(右)と
赤見:今年は念願の南関東期間限定騎乗に挑戦しましたね。
岡部:もう何年も前からずっと行きたかったんですけど、なかなかね。名古屋はオフシーズンがないから、タイミングが難しくて...。でも、地元の方々が快く送り出してくれたので、今回初めて腰を据えて南関東に挑戦することが出来ました。最初のうちはどうなるかなって不安もあったけど、徐々に自分の騎乗スタイルが出せるようになって、たくさん乗せてもらえるようになったので。南関東のレベルは高いですけど、ある程度やれるなっていう自信もつきました。だから、途中でケガをしてしまった時はショックでしたね。
赤見:南関東騎乗中の9月に骨折して、全治3か月という診断でしたけど、2か月で復帰しましたよね?
岡部:そうなんですよ。医者からは『騎乗は年明けからですよ』って言われてるんですけど(苦笑)。毎日温泉入りに行って、最大限の体のケアをして騎乗してます。もう大丈夫ですよ!!
赤見:驚異的な回復力ですね! 昨年はケガで約4か月間の離脱、そして今年も2か月の離脱がありました。いい流れだっただけに、ケガはショックですよね。
岡部:ショックですねぇ。でもいつまでも落ち込んではいられないので。ケガをしている時にしか見えないものもありますから、前向きに考えるようにしてます。毎日競馬に乗ってると、単調な日々になったりもするじゃないですか。でも、競馬に乗れない時間を経験すると、馬に乗れることが本当にありがたいんです。少し離れたところからレースを見て、違う面が見えたりもするし。
もちろんケガは嫌ですけど、しちゃったらしちゃったで、そこもいい時期だったなって思えるような過ごし方をしようと思ってます。
赤見:南関東への期間限定騎乗を経験して、変わったことってありますか?
岡部:それだけがキッカケってわけじゃないですけど、最近考え方がガラっと変わったんですよ。今まではこだわってないつもりでも、やっぱりリーディングっていうのにこだわってたんだと思うんです。地元の人たちもすごく応援してくれるし、地元を離れて遠征するリスクとかも大きいですから、なかなか長期遠征に踏み出せないでいた。でも実際に期間限定騎乗を経験して、一番強く思ったのは、『もっと上手くなりたい!』ってことだったんです。もっともっと技術を磨いていって、結果リーディングになれるんだったらいいなっていう。どうリーディングを獲るかじゃなく、どう技術を磨いていくかなんですよ。だから今は、もっともっと色んなところで乗ってみたいです。
赤見:早々に予定はあるんですか?
岡部:いやいや、具体的には決まってないです。そういうお話もありますけど、今の地方の現状では、腰を据えて他場に乗りに行くには色々制約もありますから。ただ、もういい年になって来たし、後悔するこよがないようにしたいですね。もちろん、遠征するっていうのは地元があってこそ。地元で努力出来ることもいっぱいありますからね。毎日レースのビデオを見るんですけど、この前のワールドスーパージョッキーズシリーズ、本当にカッコよかったなぁ~。川原さんもJRAの騎手もすごくレベルが高いし、50歳のゲイリー・スティーヴンスがまためちゃくちゃカッコよくて。なんであんな風に乗れるんだろうって、もう何回も何回もビデオ見てます。日本人との骨格の違いとか色々あるのかもしれないけど、手がグッと伸びるんですよね。あんな年なのに、あんなに手が伸びて...。自分ももっともっと上手くなりたいって、すごく思います。
赤見:では、今後の目標を教えて下さい。
岡部:さっきも言ったんですけど、具体的な数字とかは意識してないんです。月並みですけど、1つ1つのレースを精一杯乗って、どんどん腕を磨いていきたい。それで、僕の騎乗が見たくてファンの方が競馬場に足を運ぶっていうくらいの、カッコいい騎乗が出来るようになりたいです。魅せる商売ですから、勝負にもこだわりますけど、カッコよさにもこだわっていきたいです!
ゴールデンジョッキーズシリーズ(園田)にて、川原正一騎手(右)と
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※インタビュー / 赤見千尋
新潟リーディング9度の実績を引っ下げて、2002年に笠松競馬場へ移籍した向山牧騎手。移籍後にも順調に勝ち星を重ね、現在は地方通算2,896勝(12月9日現在)と3,000勝に迫る活躍を見せています。さらに今年は、自身初となる笠松リーディングを快走。48歳になっても進化を続ける大ベテランに、じっくりとお話をお聞きしました。
赤見:先日は、オッズパークプレミアムパーティーで笠松代表としてファンの皆さんと触れ合ったわけですけど、いかがでしたか?
向山:楽しかったですね。『頑張ってください』って声かけてもらって、すごく刺激になりました。思ってた以上に、詳しい人が多かったです。だって、1994年の平安ステークス(オーディンに騎乗して2着)の話とか、新潟の頃の話とか、かなり前のことまでよく知ってますからね。さすが、オッズパークのコアユーザーだと思いました。また機会があったら行きたいです。
赤見:パーティーでは仮面ライダーの変身ポーズも披露してましたけど、寡黙な牧さんがあんなことするなんて意外でした。
向山:いや、無理やりふったんでしょう! まぁ、仮面ライダーは好きですけどね。昭和の頃は本当に子供が見る話だったけど、平成のライダーはカッコいいし、大人も楽しめるストーリーなんですよ。特にハマったのはカブトと電王。今はあんまり見てないんですけど。今のマイブームは一人で家飲みですから(笑)
赤見:(11月27日)現在111勝を挙げ、笠松リーディング1位ですね!
向山:珍しいこともあるもんですね(笑)。今年はいい馬に乗せてもらっているし、自厩舎だけじゃなくて色んな厩舎に乗せてもらって、その馬たちが頑張ってくれてるお蔭ですよ。
赤見:笠松に移籍して11年、ここまで色んなことがあったんじゃないですか?
向山:そうですねぇ、色々ありました。新潟が廃止になった時、騎手を続けたいなと思ってて。でも僕だけ年齢制限で南関東に行けなかったんです。それで、安藤勝己さんが僕の親戚と仲いいんですけど、その縁で声を掛けてくれて。『笠松に来ないか』って。誘ってもらって嬉しかったし、選択肢はないですから、迷わず決めました。
赤見:実際に移籍してみていかがでした?
向山:正直、2005年に高崎から川嶋弘吉調教師が移籍して来なかったら辞めてると思います。なんていうか、僕は営業が苦手で。愛想も悪いし、僕のことを嫌いな人はいっぱいいると思う。本当はそういう部分も含めて騎手ってう仕事だから、営業上手にならなきゃいけないんだけど、なかなか出来なくて。川嶋先生はわかってくれるので、感謝してます。そういう人に出会って、少しずついい馬も乗せてもらえるようになったんでね。他の人たちも見ててくれて、それで今年の成績に繋がってるんじゃないかな。
9/10門別で行われたSJTワールドカード第1戦を勝利(写真提供:NAR)
赤見:今年はSJTへの出場を賭けたワイルドカードに出場しましたが、1ポイント差で惜しくも3位でしたね。
向山:そう! 1戦目勝った時には、『これはもしかして行けるんじゃないか』って思って。2戦目で8着になってしまって、1ポイント差に泣いたんですけどね。2位までしかSJTに出場出来ないのに、なんでか3位の俺まで表彰式に呼ばれちゃって。『帰っていい?』って言ったんだけど、離してくれなかったんですよ(苦笑)。アイツらだけプレート持ってて、俺だけ持ってないのよ? もうあの表彰式は本当に辛かったですね。来年はリーディング1位でSJTから出場出来るように頑張ります。
SJTワイルドカードの表彰式。向山騎手(右)は3位(写真提供:北海道軽種馬振興公社)
赤見:デビューから30年ですけど、騎乗に対してのポリシーというのはありますか?
向山:若い頃はとにかく勝ちたい勝ちたいでしたね。その気持ちが馬の邪魔をしていたこともあったと思うんです。今ももちろん勝ちたいですけど、もっと冷静になったというのかな。馬にも気を使ってますよ(笑)。それに、この年になると誰も何も言わないんですよ。ああしろ、こうしろ、とか。だから自分自身で考えていかないと、どんどん置いていかれるっていうのは感じてます。今でも必死ですよ。もっと上手くなりたいし、もっともっと乗りたいです。
赤見:では、ファンの皆さんにメッセージお願いします。
向山:笠松はここのところ辛いことが続いたし、次に何かあったら終わりだっていう気持ちで、みんなの意識もすごく高まっています。僕自身は3,000勝を目標にやってるんですけど、そこを越えたら次は4,000勝を目指したいですね。馬に乗るの好きだし、最終目標は60歳を超えても現役で乗る、年金ジョッキーです!
同じ笠松の東川公則騎手(右)と
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※インタビュー / 赤見千尋
太田陽子騎手はオーストラリア・ヴィクトリア州にベースを置いて活躍している、いわゆる『外国で騎乗する日本人騎手』。その中でもかなり初期の一人だ。
今年9月に日本で騎乗する短期免許を取得、10月5日から岩手競馬で騎乗を開始して実質3週間で10勝を挙げる"太田旋風"を巻き起こし、一躍ファンの注目を集める存在になった。
実は10月26日のレース中に落馬・負傷して現在は治療休養中。免許期間を延長して復帰を目指している段階なのだが、その辺も含めてお話をうかがった。
横川:太田さんは普通の家庭の出身と聞いたのですが、競馬や騎手に興味を持ったきっかけは何だったんですか?
太田:小学生の頃、親に連れられて中京競馬場に行ったんですよ。ちょうどその頃、親が転勤で名古屋に移って、引っ越した先が競馬場の近くだったんですね。ちょうど競馬ブームの頃だし"じゃあ競馬というものを見てみるか"という事だったみたい。そこで見た騎手に憧れて......が最初ですね。競馬自体は、その頃はちょっと荒っぽいおじさんとかがあちこちにいて最初は怖かったんですけど(笑)、騎手はいいなと。
横川:そして高校では馬術部に入ったんですね。
太田:親からすれば私を試したんでしょうね。「本当に馬が好きなのか、馬の仕事でやっていけるのか、3年間考えてみなさい」と。それまでは馬に触った事もなかったわけですからね。鳴海高校の馬術部に入って初めて馬房の掃除をやったとき、「これだ!」って思ったんですよ。楽しくてしょうがなかった。この世の中にこんな楽しい事があっていいんだろうか?って。馬術部の練習を中京競馬場でやっていたんですよ。練習の後にコースを見せてもらったことがあって、コースからスタンドを見上げた時、「こんな凄い所で走れるのか」と感動したのを覚えていますね。
岩手での初騎乗はやや緊張気味(10月3日・盛岡第5レース)
横川:オーストラリアで騎手になろうと決意したのはその頃ですか?
太田:当時は自分も親も競馬の事に詳しくないですから、騎手になるにはJRAや地方競馬の競馬学校に入らないといけない......くらいは知っていましたが、どっちがどうとかよく分かってなかったんですね。その頃の自分はちょっと体重が重くなりそうな感じがあったんです。今から思えば、少し様子を見ながら、体重を調節しながら合格を目指す......という方向もあったかも。でも当時は良く知らなかったから、"じゃあオーストラリアで騎手を目指そう"みたいな。
横川:と、さらっと言いますが、当時(90年代後半)はオーストラリアで騎手に......という情報も今ほどには豊富じゃなかったですよね。
太田:これも今から思うと不思議なんですけど、何かのきっかけでそういう情報に気付いたんですね。好きな事とか関心がある事ってどんなに小さい記事でも目が惹かれるじゃないですか。"オーストラリア・騎手"という情報に、何かひっかかるものがあった。"海外で騎手か。英語も苦手だけど、まとめて挑戦してみよう"そんな風に思ったんですね。
横川:そしてクイーンズランド州の養成学校に入った。学校ではスムーズに進んでいったんですか? 騎乗の授業とか。
太田:学校に入って1週間目くらいかな、学校の近くにある調教場で朝の調教を見ていたんです。日本人の先輩たちは学校以外にも厩舎で働いたりして覚えていると聞いたから、自分もどこかの厩舎に見つけてもらおうと思ってうろうろしていた。すると、あるトレーナーさんから声をかけられた。「働きたいなら厩舎に来な」って。それっぽい事を言っていた......と思うんですよ。その頃は英語全然分からないから(笑)。それから毎日、厩務員さんに仕事や英語を手取り足取り教えてもらいながら覚えていった。
横川:学校の授業以外にもそうやって仕事をしていたんですね。
太田:むしろそれが普通でしたね。他の生徒もそうだったし。本当にいろいろ教えてもらえました。しばらくそこで働いて、その後は調教に乗せてもらえる所に移ったりして。もちろんそれは無給ですよ。でも学校の勉強だけじゃなくて厩舎で実際に働きながら覚える事ができたのが、今にして思えば大きかったですね。
横川:学校は1年間だったんですか?
太田:初級コースが1年、その後に上級コースが半年ですね。その後にジョッキーコースの授業が4ヶ月くらい。そこで3人だけ残りました。私と、富沢希君と、それから池主貴秀君。ジョッキーコースに入ると競走馬を1人1頭与えられるんです。それを全部自分の判断で世話して、調教して、トライアルレースをする。2回やって2回とも2着でしたが面白かった!
横川:そこからアプレンティス、見習い騎手になっていくわけですね。
太田:卒業の時に校長に言われたんですよ。「ヨーコ、君の身体は騎手には向いてないから止めた方がいい」って。体重が重いだろう、という事なんですが、今さらそんな事で止めるくらいなら最初からオーストラリアに行ってないですよね。だから"諦めないでやります"と。そしてサンシャインコーストに行って騎乗をはじめました。
これも今にして思えば自分の決心を確かめられたのかもしれない。でも自分は、あそこで諦めなかったし、そこで言われたように体重が重いからって辞めるような騎手にはならない、と心に決めた。それが今まで続けて来れた原動力かもしれません。
10月6日・盛岡第3レース、岩手4戦目での初勝利
横川:日本、岩手で乗る事になったいきさつはもうあちこちにでているから、そうですね、10勝できたのをどう思いますか?っていう質問で。
太田:これはもう予想以上ですよ。オーストラリアでやって来た事を全部ぶつけてやってみる。それで0勝で終わっても仕方がないと思っていましたから。
横川:最初は乗り方とかレースの流れとかにちょっと戸惑っていた感じですが、すぐに慣れましたしね。こっちの騎手たちも最初は「?」だったようですが、徐々に見る目が変わりました。山本聡哉騎手なんか、太田さんをすごく高く評価してて、レースで太田さんをマークしたり潰しに行ったりし始めましたからね。
太田:最初は「ここで動かないの?」「え~?ここで動くの!?」って戸惑いながらでしたね。他の騎手の皆さんにはいろいろ教えてもらって、もちろん菅原右吉先生にもいろいろと面倒を見ていただいて良い馬も乗せてもらっています。そのおかげですよ。
横川:ところで怪我の具合はどうなんでしょうか?
太田:最初の検査で見つかっていた骨折はもうだいたい良くなったんですが、実は最近になって別の剥離骨折があったことが分かったんですね。そこが、気付かなかった分ちょっと治りが遅くて。だから、免許の期間を延長しましたが、騎乗できるかどうかギリギリなんです。
横川:最初の活躍は盛岡のファンに強い印象を残したし、水沢のファンにもぜひ一度見ていただきたいとは思うんですよね。
太田:私も水沢の、日本の地方競馬らしい小さいコースのレースを経験したいし、もちろん実戦に乗ってこその騎手ですから1日も早くレースに乗りたいと思うんです。
一方で「騎手なら万全の状態で乗るべきだ」「しっかり直してまた来年来れば......」とも言われて、それもその通りなんですね。でも今回のようなチャンスを逃すと次また巡ってくるとは限らないじゃないですか。今回も本当にいろいろな方にお世話になって実現した事ですから、また次もこんな風にうまく進むとは思えない。もしかしたら一生に一度だけのチャンスかも......と思うとね、手放したくないと思っちゃうんですよ。
ここ何日かのうちにじっくり考えてみて、無理だという結論になれば潔く帰って、また出直して来ようと思っています。
太田騎手の免許期間は12月16日まで。実戦に復帰することを思えばそれほどの余裕はなく、そこが太田騎手の悩み所になっているようだ。
なんとか1レースだけでも水沢のファンの前で騎乗ぶりを見てもらいたい......とは自分も同じ気持ちだが、ただ乗るだけで気が済むような太田騎手ではないのも確か。
このインタビューが掲載される時には、もしかすると期間切り上げ・帰国ということになっているかもしれないが、その時はいつかまた太田騎手の"ミラクル騎乗"を見ることができる日を、ファンの皆さんにも待っていていただきたいと思う。
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※インタビュー・写真 / 横川典視
8月26日に通算400勝を達成した藤原幹生騎手。ここにきて成績が一気に上昇し、11月26日現在、笠松リーディング第4位につけています。
浅野:2012年に通算300勝を達成して、その翌年に400勝。勝ち鞍が伸びてきた理由はどのあたりなのでしょう?
藤原:これがその理由っていえるものは特に思い当たらないんですよね。もちろん、いい馬に乗せてもらえていることがその要因ですけれど、なんでいい馬に乗れるようになったのかというと、一言では表せないですね。いろんな部分が少しずつ底上げされてきたから、という感じですかね。
浅野:だんだんといい循環になってきたということでしょうか。
藤原:そうですね。午前1時半頃から始まる調教に遅れないのはもちろんですし。あとはトレーニングをやり始めたことが以前とは違うところですね。
浅野:上半身にかなりの筋肉がついているのは、その効果ですか。
藤原:はい、スポーツクラブで筋トレをしています。胸筋をつけて、上腕三頭筋を鍛えて、あとは大腿、腰あたりの筋肉を意識してつけていますが、もうちょっと欲しいかな。体重はまだまだ余裕があるので大丈夫ですよ。
浅野:それを始めたきっかけはあるのですか?
藤原:30歳になる頃(藤原騎手は1981年4月20日生まれ)に、このままでは終われないかなと思うようになって、何か変えてみようということで筋トレを始めたんです。それが意外と嫌いじゃなかったので続いていますね。あとはもっと肩周りを太くして、背筋をもう少し強めにして、持久力とパワーをつけていきたいです。
浅野:となると、筋トレを始めたのが成績上昇の一因ということになりますね。
藤原:そうですね。やってみてよかったと思います。以前に読んだスポーツ系のマンガにいいことが書いてあったんですよ。『好きなことのためにすることは、努力じゃなくて至福の時間だ』って。
浅野:まさにそのとおりですね。静岡県出身の藤原騎手が、その『好きなこと』に巡り会ったのは、どういういきさつなんでしょうか。
藤原:実家は御前崎の近くですから、競馬はテレビで見ていたくらいです。競馬中継を見るきっかけは、テレビゲーム。ハマっていたのはダビスタとかではない、マイナーなものでしたが(笑)。騎手ってよさそうだな、と思ったのは中学の頃ですね。普通の仕事をしても面白くないなあという考えもありましたし。それで高校1年のときに電話帳をめくって牧場を調べたら、金谷(現在は島田市)にあったので行ってみたんです。そこは希望するタイプの牧場ではなかったんですが、浜松にある育成牧場を紹介してもらいました。それで夏休みに実際に働いてみて、馬の世界でやれそうだなと思ったので高校は中退しました。
浅野:ずいぶんと決断が早かったんですね。
藤原:体も小さかったですし。ただ、JRAの試験には2年連続で落ちてしまいました。でもその育成牧場は、笠松競馬の山下清春調教師の弟さんが経営しているんですよ。そのつてで山下厩舎に入れてもらって修業して、地方競馬の試験に受かることができました。
浅野:回り道をしつつも夢を実現させられたわけですが、2010年まで笠松での順位は10位以下。騎手としての成績はなかなか上がってきませんでした。
藤原:うーん、あんまり成績には興味がないんですよね。結果とかではなくて、自分が納得できるレースができればいいかなという思いのほうが強いかな。でも重賞タイトルが欲しくないと言えばウソになりますし、欲は多少出てきましたね。
浅野:となると、近い将来の目標としては重賞勝利となりますか。
藤原:そこまでの思いはないんですけれど、そのうち......ですかね。騎手としての目標は、自分なりに行けるところまで行きたい、自分のなかで納得できるところまでうまくなれればという感じで、数字とかは特にないです。
浅野:それでも自身の変化が成績に表れてきているように感じます。そういえば、藤原騎手は先日(11月17日)、金沢競馬で騎乗していましたね。それも成績が上昇した効果のひとつではないですか?
藤原:メインの金沢プリンセスカップは、馬主さんから依頼をいただきました。でもそれ以外に乗せていただいた4鞍、ぜんぶ鈴木長次厩舎なんですけれど、調教師さんには会ったこともなかったんですよ。(ビーファイター号引退記念で騎乗した)ビーファイターも含めて、なんで依頼してくださったのか、よくわかりません(笑)。
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※インタビュー / 浅野靖典