JBCクラシックを地方馬として初めて制覇したミューチャリー(船橋)。その鞍上は、今年JBCの舞台となった金沢を代表する吉原寛人騎手でした。地元で成し遂げた快挙について振り返っていただきました。
>JBCクラシックをミューチャリーで制覇、おめでとうございます!周囲からの反響などもすごかったんじゃないですか?
ありがとうございます。お祝いのLINEやメールをたくさんいただいて、当日の夜は返信するのに3時間くらいかかりましたが、嬉しかったですね。その夜はよく眠れなくて、深夜2時くらいまで目が覚めていて、起きたのが明け方4~5時。だんだん訳が分からなくなってきて「これは夢だったんじゃないかな?」と不思議な感じでした(笑)。レース後1週間は、これまで記憶にないくらい余韻に浸ってボーッとしていて、それだけすごいレースを勝たせてもらったんだな、と思います。
創設から20年間、幾多の地方馬が挑んでは跳ね返されてきたレースを勝ったわけですもんね。
初めて勝てたということと、地元の金沢で決められたというのがすごく大きかったです。
ミューチャリーには前走の白山大賞典から手綱をとりました。騎乗の経緯を教えていただけますか?
今年の冬に期間限定騎乗で南関東に行っていた時だったと思うんですけど、矢野義幸先生から「もしかしたら白山大賞典にミューチャリーが行くかもしれないから、その時は頼むわ」と言っていただきました。あのミューチャリーですからね、すごい依頼をいただいたな、とプレッシャーでした。いくら地元の金沢だからと言っても、御神本訓史さんが競馬を教え込みながら大事に育てていた馬なので、すぐに御神本さんに連絡して「よろしくお願いします」とお伝えしました。
白山大賞典では先行集団にいて、ミューチャリーにしては少し前目のポジションのように感じました。
そうなんですよ、もっと進んでいかないのかなと想像していました。レコードを1秒以上更新する速い馬場だったので、ミューチャリーには忙しかったですけど、それでもあの位置から上がり3ハロン最速の脚を使ってくれました。休み明けの分もあって、「もうちょっと反応がほしいな」とは感じましたが、しっかり2着を確保して、いい感触は掴めました。
そして、JBCクラシックでも3番手外という前の位置を取りに行きました。
矢野先生からは「壁1枚くらいでついて行ければ」と言われましたが、GI馬が揃っていましたし、僕は「速い流れに中途半端について行ったら、せっかくの末脚がなくなるかもしれないので、ミューチャリーのペースで行きたいです」と伝えました。当初のプランでは、あんなに前に行くはずじゃなかったんです。
中団~後方からのプランだったはずが、どこでその作戦を変えたんですか?
返し馬で感触も反応もすごく良くなっていたので、「多少無理をしてついて行っても大丈夫じゃないか」と感じました。ゲートを出ると、マークしようと思っていたテーオーケインズが出遅れて、カジノフォンテンが楽に先行してペースを落としそうだったので、「ちょっと攻めてみよう」と、外に切り替えてテーオーエナジーをさばきました。
そうして、外3番手で折り合ったんですね。そんな前の位置からミューチャリーが末脚を使えたら、もうホント強いですよね。
"こういう展開になったら、ミューチャリーが勝てる"という、絵に描いたようなレースになりました。人気馬は内で包まれていてペースを上げられず、僕が主導権を握れました。スタンド前ではめちゃくちゃペースが遅くて、「誰も後ろから動いてこないで」とドキドキしていました。向正面でマクられるのは絶対に嫌だったので、2コーナーからは、じわ~っとギアを入れていくように乗りました。焦って追うと、内の人気馬が抜け出せる進路ができそうだったので、4コーナーまで引きつけました。
向正面はライバルを封じ込めつつ、絶妙なペースアップだったんですね。直線を向けば、どれだけキレる脚を持つ馬でも、そのスピードには限界がありますからね。
ラスト3ハロンを35秒前半で来る馬がいたらめちゃくちゃ強いな、と思っていたら、それがオメガパフュームでした。それでも、ミューチャリーは4コーナーでのハミの取り方が前走とは全然違って、3ハロン36秒0で本当に頑張ってくれました。最後は位置取りの差で決まったかなと思います。
オメガパフュームを半馬身差でしりぞけJBCクラシック制覇(写真:石川県競馬事業局)
改めてJBCクラシックの勝利を振り返っていかがですか?
本当にミューチャリーに感謝しています。ここまで陣営が「ミューチャリーは絶対にジーワンを獲れるんだ」と信じ続けて、全23戦中これが11回目のジーワン挑戦でした。信じ続ける熱い思いがあってこその勝利で、挑戦しないと獲れませんからね。ミューチャリーもずっとジーワンを使われて強くなりました。「前の位置につけたから勝てた」とも言われますけど、それは金沢だからできただけであって、大井や他のコースではそうはいきません。
実はその部分、聞きたいなと思っていました。吉原騎手は2019年マイルチャンピオンシップ南部杯をサンライズノヴァで勝った時に「馬に気づかせないように前の位置を取りに行った」と話していて、今回も積極的なポジショニングがすごいなぁと感じました。
たしかにあの時のような感じで、みんなのペースが遅いところを、馬を力ませず、普通に走っている状態で位置を上げていきました。
ただ、本質的な部分では御神本さんが競馬を教え込んできたことが生きたレースだったと思います。これまでジーワンで強いメンバー相手でも、ミューチャリーのペースを優先させて最後にしっかり脚を使わせることで、馬も気分良く走っていたと思います。だから途中で変なやめ方をせず、乗りやすかったです。ジーワンにチャレンジし続けて、掲示板にも載りながらしっかり戦ってきたことがここで生きたのだと思います。
(写真:石川県競馬事業局)
さて、吉原騎手はこれからの目標はどうしましょうか?
コロナの影響で遠征に行きづらくなったのがちょっと寂しいですけど、その鬱憤をJBCクラシックで晴らせたのは大きかったです。少しずつでも解除してくれて、またミューチャリーに乗って大きいレースを勝ちたいですし、他にも乗りたい馬はいます。
この冬は、これまでとは違う競馬場へ期間限定騎乗に行きたいなとも思っています。こちらは正式決定したらリリースなどの形でみなさんにお伝えできるかなと思っています。
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※インタビュー・写真 / 大恵陽子
10月2日に佐賀競馬場でデビューした加茂飛翔騎手。2戦目で初勝利を挙げ、初日は3戦すべて馬券圏内というインパクトあるデビューを果たしました。
まずは騎手デビューおめでとうございます。実際にレースに乗ってみていかがでしたか?
やっとこの舞台に立てると思って嬉しかったです。ただ僕たち102期生は2人しかいなかったので、他頭数のレース形式の訓練をしたことがなくて。レースに乗ってみて、周りとの距離感が難しかったです。他の人と比べて間隔が開いてしまったり、自分が考えている通りには乗れませんでした。
とはいえデビュー初日の10月2日は、第6レースから第8レースまで3鞍に騎乗し、3着、1着、2着とすべて馬券に絡む大活躍でしたね。
ありがとうございます。いい馬たちに乗せていただいて、関係者の方々や頑張ってくれた馬たちに感謝しています。デビュー戦はスタートで僕がちょっと出遅れてしまって、後方からだったんですけど、道中の折り合いが難しいと言われている馬で、馬の走りたいリズムで走らせて、馬の邪魔をしないように走ることを意識しました。4コーナーですごく手ごたえが良くて、3キロ減だし、外に出すよりも内がいいかなと思って内へ行ったらグイグイと伸びてくれて、自分でも気持ちが良かったです。
デビュー2戦目での初勝利
続く第7レースで、デビュー2戦目にして見事な初勝利でした。
ゲート裏で厩務員さんに「この馬今1番人気だから」と言われて、それまで1番人気って気づいていなかったんです。そこでさらにやる気が出て、「よっしゃー!やるぞ」って。あまり前に行くタイプの馬ではないので、じっくり溜めて4コーナーから仕掛けて行こうと思っていたのですが、手ごたえが良くて、4コーナーで並ぶつもりが先頭に立ってしまいました。あとはもう馬が自分で伸びてくれたという感じでしたね。直線では「勝った!」と思ったんですけど、周りに馬がいなくなるとちょっと不安になってしまって、ゴール直後は勝ったという実感が沸かなかったです。
デビュー日はご家族が応援に来ていたんですか?
はい。地元の競馬場ですし、家族だけじゃなくて親戚や友達、知っている人たちがほとんど来てくれたんじゃないかと。その人たちの前で勝てて、すごく嬉しかったです。ただ3戦目の第8レースは上手く乗れず2着に負けてしまって悔しかったです。
具体的に振り返っていただけますか?
逃げたいと思っていてハナを切ることが出来たんですけど、道中で並ばれないようにすることを意識していたんです。向正面で来られた時に脚を使い過ぎてしまって、最後差されてしまいました。もう少しやり方を考えれば勝てたレースだったと思います。デビュー日の3戦が終わって、自分自身ではそれほど緊張していないと思っていたんですけど、冷静に振り返ってみると、最初の第6レースではパドックで騎乗する時に自分が乗る馬を見失ってしまって、キョロキョロしていたら他の方が「あっちだよ」と教えてくれました。第7レースは勝ったんですけど、その時のパドックでも自分の馬と反対方向に行ってしまって、ファンの方から「逆だ~」って教えてもらって(苦笑)。第8レースはとにかく逃げるということしか考えていなくて、ヘルメットに付けているゴーグルをレース中つけ忘れてしまったんです。でも逃げられたのでゴーグルをしていなくても気づかなくて、レースが終わってから先輩騎手に指摘されました。
ご自身が感じていた以上に緊張もあったんですね。
そうみたいです。頭の中はクリアかと思ったけれど、真っ白だったのかもしれません。でもその中で一つ勝てたというのは大きいですし、自信になりました。
デビュー3週目(10月18日現在)ですでに4勝と、順調なスタートですね。
周りの方々のお陰です。この短期間でいろいろな経験をさせていただいて、自分自身の課題も見えて来ました。今意識しているのはまずゲート。前回の開催では上手く行っていなかったので、馬を出すタイミングや、他の馬が暴れた時に惑わされないようにしたいです。あとはコーナーを回る時に遠心力で外に膨れように、追い込みでもっと腰を入れて追う、改善したいことはたくさんあります。大島静夫先生は普段優しいですけど勝負には厳しくて、「2着3着じゃ意味がない、勝たないと意味がない」と叱られます。一生懸命努力して、周りの方々に信頼していただける騎手になりたいです。
初騎乗
1年先輩の飛田愛斗騎手は意識しますか?
はい!1年で127勝という偉大な記録を作りましたので、飛田先輩を抜くことが出来れば僕がナンバー1の記録になりますから、そこを目指して頑張ります。
では、オッズパーク会員の皆さんにメッセージをお願いします。
これからたくさん乗鞍を増やし、早く100勝して飛田先輩の記録を抜けるよう頑張ります。よろしくお願いします。
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※インタビュー / 赤見千尋(写真:佐賀県競馬組合)
8月16日の盛岡第6レースで村上実調教師が地方通算1,500勝を達成した。村上実調教師は騎手として812勝を挙げ、岩手のトップジョッキーとして活躍。そして調教師としてもトップクラスのトレーナーとして見事な勝利数を積み重ねてきた。今回は師に思い出の馬などを振り返っていただいた。
まずは1,500勝達成おめでとうございました。
ありがとうございます。
1984年に調教師として開業されて37年になりますが、この1,500勝を振り返ってみて、ここまでの道程の感想とか苦労された事とかは何かありますか?
特別な苦労というのはあまり感じなかったですね。わりと順調に来た方ではないでしょうか。良い馬にも巡り合ったし、特別に"苦労した"という感じはないかな。
村上先生は騎手から調教師になられたので改めておうかがいしたいのですが、騎手としてもトップジョッキーとして活躍されて、みちのく大賞典や桐花賞も勝たれていますけれども、それほどの騎手が若くして引退されたのはどうしてだったのでしょうか。
いやもう減量がきつくてね。なんせ毎年10キロから減量しなくちゃいけなかったから。騎手を引退したのが32歳の時ですか。もうちょっと乗りたかったんですけども、体が追いつかなくなった。減量には勝てなかったですね。
調教師に転身された当初の苦労は何かありましたか。
開業した当時は資金も足りなかったし、いろいろ苦労はありましたね。でも開業2年目にトウケイフリートという走る馬に恵まれて、それからはほとんど苦労はしなかったです。
自分が岩手競馬を見始めたのはもう少し後の頃からなので実際のトウケイフリートを知らないんですけれども、どんな馬だったんでしょうか。
ごろっとした幅のある馬でしたね。馬体重は500キロぐらいあったと思ったね。上にはそんなに大きくはなかったけど幅があった。脚がちょっと内向で、それがあったから中央とかに行けなかったんじゃないかな。でも故障しないでよく走ってくれた馬でした。
デビューが今で言う3歳の4月で、かなり遅いですよね。
やっぱりその内向のせいで強い調教がなかなかできなかったんですね。徐々に調教のペースを上げていかないと脚元が保たなかった。じっくり仕上げていったのでデビューが遅かったのだと思います。でもデビュー2戦目にはもう特別を勝ったのだからやはり力がある馬でした。
こういうとなんですが、開業してまだ2年目くらいの新人調教師のところに重賞を勝ちまくるような馬が巡ってきたわけですから、凄い順調というか幸運というか......。
トウケイフリートが来たのは騎手時代に同じ馬主さんの馬(トウケイホープなど)に乗っていた繋がりのおかげでもありました。トウケイフリートの時は、馬主さんが若駒を買ったから見て来いということで、あの馬はえりも農場の生産でしたけども、えりもまで見に行ったこともあります。結果、その馬が当時あった重賞のほとんどを勝つくらいになって厩舎の流れも良くなった。上手くいきすぎといえばいきすぎでしたね。
さて、思い出に残る馬としてはまずトウケイフリートが挙がるとして、もう1頭挙げていただくとするとやはり......。
トニージェントだね。
トニージェント(2005年みちのく大賞典の返し馬)
トニージェントが先生のところに来た経緯は覚えておられますか。
トニージェントは確か補助馬だったんじゃないかな。牧場まで見に行って決めたんです。若馬の頃は細かったね。細くて脚長で。小さい頃の見栄えはイマイチだったと思う。徐々に身体の幅が出てきて良くなってきた。
デビュー戦の時は453キロでしたね。
初戦はもちろん勝ったんだけど、身体はまだ弱かった。レースを使って動きが悪くなって、確かしばらく休養したと思う。今思えばその休養が良かったんじゃないのかな。それで身体ができてきた。
そうですね、半年休養してからの復帰戦が490キロになっていますね。
ああ、そうでしょう?その辺からだんだん体ができて、走るようにもなっていった。
トニージェントは、グレードレースを勝ちたかったですね。勝てそうなレースはいくつかあったんじゃないかと今でも思っています。
船橋(2003年かしわ記念)は惜しかったね。あの時は、4着だったか。1コーナーで少し進路が狭くなる不利があって、あれがなければもっときわどい勝負になっていたんじゃないかなと思っていました。勝った馬から1馬身ぐらいしかなかったからね。
2003年かしわ記念(当時GII)。トニージェント(左)は4着に食い込んだ
上山のさくらんぼ記念や佐賀記念、名古屋大賞典なんかも惜しかったですね。当時下川さん(トニージェントの担当厩務員)と"もうちょっとで勝てたよね"と悔しがった記憶があります。
これも今思えば直前の輸送にはちょっと弱かったかもしれないですね。東北ダービーの新潟もそうだし、上山でも負けてるから。それで佐賀記念の時は早めに移動して長期滞在で挑んだ。相手が強くて勝てなかったけれども馬には滞在競馬の方が良かったと思う。それから夏場はあまり良くなかった。
というと?
夏は暑さにちょっと弱くてね。夏はあまり勝っていないでしょう?でも冬のレースは勝っている。冬場は体調が良くてすごく調子がいい時期だったね。
ああ、確かにみちのく大賞典を勝ったのはレースが8月から6月に移動してからですね。8月の時は2回走って2回とも負けています。
そうでしょう?夏場はちょっと良くなかったからね。だから7歳、8歳の頃は夏は休養にあてて、マーキュリーカップを走った後は北上川大賞典まで間を開けていましたね。やはり寒い頃は走ったね。
ところでそのトニージェントなんですが、デビューから引退までほぼずっと村上忍騎手が乗っていました。先生としてはやはり息子の忍騎手を育てようという狙いというか意思があったんでしょうか?
もちろんそうですよ。やっぱり強い馬に乗せないと上手くならないからね。馬に教えられるわけだから、重賞を勝てるような馬に乗っていないと騎手も上手くならないですから。
村上実調教師は騎手だった80年代からずっと岩手競馬を見ておられるわけですけども、昔と今の岩手競馬で変わった点とかありますか。
自分が騎手だった頃は交流競走がほとんど無かったですよね。今はどこでも乗れるからね。最近はコロナで難しかったりするけども、その辺が一番違うんじゃないかな。レースに出すにしても中央に行って使うなんて自分が若い頃には無かったですから。
最近は売り上げも上がってきてるんですけども、苦しい時期を乗り越えたといえる今はどう思われますか。
だいぶ良くなったけれど、でもまだまだと言いたいですね。これからどんどん伸びてくれればいいんですが。
村上実厩舎の期待の馬を挙げていただくとすると。
リリーモントルーかな。夏場は夏負けで調子が良くなかったですが涼しくなって立ち直ってきた。中央の頃は芝で走っていたし、トビが軽い馬ですから芝がいいかなと思って連れてきたけど、でもダートでもどっちでもいいのかもしれない。重賞を何か勝てればいいなと思っています。
厩舎の期待馬リリーモントルー
ひと区切りの1,500勝を達成したということで、この先の目標を教えてください。
この先といっても大きな目標は持ってないですが、何か重賞を獲りたいですね。それが今は一番の目標かな。
リリーモントルーや、ハーベストカップを勝ったリンシャンカイホウ(写真)は村上忍騎手の息子・村上朝陽厩務員が担当。"親子三代"での重賞制覇を目指す
それでは最後にオッズパークの会員さんにひとことを
いつもインターネットで岩手競馬の馬券を買っていただいてありがとうございます。これからも岩手競馬を応援してください。
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※インタビュー・写真 / 横川典視
デビューから21年目にして悲願の重賞初制覇を果たした廣瀬航騎手。ガリバーストームで兵庫若駒賞を制覇した瞬間、喜びの声を上げ、検量室前に引き上げてきてからは嗚咽が止まりませんでした。トップ層が厚い園田・姫路競馬での長い下積み時代を経て、37歳の今でも誰よりも調教に騎乗する廣瀬騎手が、少し照れながら心境を語ってくれました。
兵庫若駒賞をガリバーストームで優勝、おめでとうございます!
ありがとうございます。
待望の重賞初制覇となるゴールの瞬間はどんなお気持ちでしたか?
「レースに勝てた」という気持ちで、ホッとしました。その後、長い間苦労してきたことが蘇ってきて、込み上げるものがありました。
ガリバーストームはデビューから2連勝中で、前走の勝ちタイムもよかったです。プレッシャーはありましたか?
結構プレッシャーを感じていて、むちゃくちゃしんどかったです。プレッシャーに弱いんですよ。夜は眠れたんですけど、兵庫若駒賞までに少しレース間隔が空いたので、そこから感じはじめました。
レースを振り返ってみていかがですか?
逃げにはこだわらずにと思っていて、内から行く馬を行かせました。4コーナーを先頭で回りましたけど、ベラジオボッキーニがまだ近くにいて気になりました。正直、こちらの手応えがなくて、残り50mくらいで「(ピロコギガマックスに)負けた......」と思いました。いつものパターンなら、差されて負けていました。
それが「今回はなんとか凌げてよかった!」と。
そうです。それで、とりあえずホッとしましたね。
その直後には喜びの声が聞こえてきました。
それはもう「よっしゃ!」と思いました。
ピロコギガマックス(右)をクビ差でしりぞけ人馬とも重賞初制覇
先月には5連勝中で1番人気に推されたハナブサで園田チャレンジカップに挑むも、4着という出来事もありました。
あの時も常にプレッシャーを感じていました。ハナブサの時は挑戦者という気持ちでしたけど、今回は勝ちに行かないといけないと思っていました。
それだけガリバーストームの可能性も感じていたんですね。現時点での長所はどんなところですか?
テンが速いですし、乗りやすいです。あとは距離が延びてどうなるか、それはまだ分からないですが、能力はありますね。
廣瀬騎手は2001年4月デビュー。JRAに移籍した小牧太騎手や岩田康誠騎手がバリバリに活躍されていた時代ですね。
当時はジョッキーも50人くらいいて、デビューして12~13年はレースにあまり乗った記憶がないです。
それだけ競争が激しくてレースに乗ることさえ大変な時代だったんですね。減量特典も今は101勝を挙げるかデビューから5年までは付与されますが、当時は20勝で減量卒業でした。
環境のせいにはしたくなくて、自分が何か悪かったんじゃないでしょうか。その中でも伸びている後輩騎手もいますから。
そう感じつつも、努力が結果に繋がらないと腐りそうになることはなかったですか?
それはもう何度もありました。なかなか上手くいかなくてしんどいなとも感じますが、叩き上げでここまで上がってこられたのはミラクルじゃないかなと思います。
たまにですが調教を見に行くと、いつも最後の時間帯まで乗ってらっしゃいますよね。そういった姿勢が少しずつ評価されて、昨年・今年と騎乗数が園田・姫路で4位なのかなと感じます。
本当にありがたいです。毎日20頭以上、調教に乗ってきた甲斐があったのかなと感じます。
競馬で心がけていることは何ですか?
レースにほとんど乗れない時代が長かったので、どんな馬でも1頭ずつ真剣に「結果を出したろう!」と思って臨んでいます。もしかしたら他のジョッキーの方がもっと考えているかもしれないですけど、自分なりにはそう思って乗っています。
重賞初制覇を果たして、これからはどんなジョッキー人生を歩んでいきたいですか?
現状維持でいいんじゃないかなと思います。ここまでこられたら十分です。
最後に、オッズパーク会員のみなさんへメッセージをお願いします。
今はこういう状況でなかなか競馬場に来ることは難しいと思いますけど、全力で頑張るので応援よろしくお願いします。
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※インタビュー・写真 / 大恵陽子
9月12日に地方通算2,000勝を達成した九日俊光調教師(佐賀)。初出走から27年の間には九州ダービー栄城賞4勝や、5年連続佐賀リーディングなど多くのタイトルを手にしてきました。今年も佐賀リーディングを走る九日調教師のいまのお気持ちとは。
2,000勝おめでとうございます。記録が近づいているのは意識してらっしゃいましたか?
ありがとうございます。2,000勝は全然気にしていなかったです。この年齢になると、2,000くらい勝てるかな、と感じています。
厩舎初出走は1994年4月。調教師になったきっかけは何でしたか?
佐賀で騎手をしていたんですけど、体重が重たくてね。
開業した頃の思い出に残っていることは何ですか?
初勝利がB級の重賞(1994年佐賀競馬リーディングジョッキー特別・カイキョウロマン)で、首からかけるレイがあったんですよ。開業にあたって他の先生のところから預かった馬だったんですけど、記憶に残っています。
9月12日、地方通算2,000勝を達成したシゲルブチョウ(写真:佐賀県競馬組合)
それから27年、多くの重賞レースを勝ってきました。記憶に残っている馬は?
ありがたいことにここまで恵まれてきて、思い出の馬はいっぱいいます。開業して最初に預かった2歳新馬がキングオブザロードという馬でした。それがめちゃくちゃ走ってね、佐賀で賞金を1億円稼ぎました。2歳で来た時はそんなことはなかったのですが、年が明けて3歳になるといい馬になってきて、ダービーとかを意識できるようになりました。
佐賀のダービーにあたる栄城賞を勝ち、その後も重賞を勝ちました。
プロキオンステークスや小倉日経オープンなど中央競馬にも遠征に行けて、若かったので「挑戦だ!」とはしゃいで楽しかったですよ。安藤くん(安藤勝己元騎手)とは同級生なんですが、当時は彼もまだ笠松から中央に遠征していた時で、遠征先で一緒になるといろいろ話したりご飯を食べたりできて、楽しかったです。
安藤くんが佐賀のJRA認定レースをうちの厩舎のコウエイリードで勝って、ひまわり賞(小倉競馬場が改修中のため京都開催)に遠征したんですけど、その時も安藤君に乗ってもらいました。佐賀の馬に笠松のジョッキーが乗って中央に遠征するっていうのが楽しかったですね。
JRA遠征と言えば、スーパーマックスの2017年チャレンジカップ(GIII、阪神芝2,000m)も5着で興奮しました。
気づけば5着で、「やったじゃん」という感じでした。翌年には阪神大賞典にも出走したんですけど、佐賀デビューの馬でGIIに出走できるというのが嬉しかったです。GIIに出走できることなんて、最初で最後かもしれないと感じました。
阪神大賞典に出走したスーパーマックス(写真:大恵陽子)
そういった活躍馬をこれからもどんどん育てられることと思います。
もう自分たちはゴールに入った後の流し運転に入っている感じで、若い子たちにガンガン抜いていってほしいなと思います。
今年61歳。後輩たちの活躍も願ってらっしゃるんですね。とはいえ、今年も佐賀リーディングを走っています(10月17日現在)。
馬房数が40くらいあって、馬がたくさんいますからね。馬主さんに恵まれています。何年か前に売り上げが落ちて一番キツかった頃に馬房数を増やせたんですけど、あの頃は佐賀の在籍馬も少なくて、潰れるんじゃないかって言われていました。今は売り上げが伸びていて、ありがたいですね。
2018年九州ダービー栄城賞を制したスーパージェット(写真:佐賀県競馬組合)
今後について、目標や勝ちたいレースなど教えてください。
佐賀競馬の調教師としてはこれまでたくさん勝たせていただきました。高知優駿も、今から考えると「佐賀の馬が勝てるなんて」と思いますが、スーパージェットで勝たせていただきました。佐賀の調教師として中央のGIを勝つっていうのは、それはもう夢物語なので、セリで自分が見つけた馬が中央の先生の元でGIを勝ってくれることが夢ですかね。
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※インタビュー / 大恵陽子