春から秋は競馬、そして冬はデビュー前の馬の育成に携わるホッカイドウ競馬の騎手。
宮崎光行騎手は1984年のデビューからそのサイクルのなかで実績を重ねてきた。宮崎騎手2009年から北海優駿を3連覇。勝負強さを兼ね備えている騎手でもある。
宮崎騎手は1993 年に初のリーディングを獲得。デビューから10年目だった。
須藤三千夫調教師(故人)の一番弟子としてこの世界に入って、チャンスはたくさんもらえましたね。調教から何からいろいろと教わりました。よく怒られましたし、意見がぶつかることもありましたよ。でもそれは強い馬を造るという同じ目的の上でのこと。僕がここまで来られたのは、やはり須藤先生のおかげですね。リーディングということには自分自身、それほど意識はしていないんですよ。毎年毎年、いい馬との巡りあわせがあるかどうかということが大きいですからね。
その須藤厩舎の管理馬では、2000 年にヒットパークで道営記念を制覇した。
JRA では短距離戦が中心だったせいか、調教から行きたがって仕方がなくて。それでも転入初戦の瑞穂賞の2着で力があることがわかったので、調教方法を変えていくことにしたんです。ヒットパークは、須藤先生が初めてといっていいくらい、僕に調教からレースから任せてくれた馬なんですよ。
そのあと(転入2戦目の)北海道スプリントカップで4 着に入って、秋初戦はJRAのエルムステークスで5着。でもJRAの速いペースを経験して道営に戻ると、また行きたがってしまうと思ったので、南部杯に遠征させてもらって強い相手と対戦させました。そのとき、僕がいちばんに考えていたのは、ヒットパークと自分の呼吸とを合わせたいということ。その過程があったから、2000m の道営記念でも折り合えたんだと思います。短距離馬を2000m の大レースで勝たせたことは、僕の騎手人生のなかで大きな思い出のひとつとして残っています。
「勝つ」という目標に対して進めていく作業には、職人的要素が大いにある。その一方で、宮崎騎手は初コンビの馬を好走させた実績がたくさん。北海優駿は2010 年、2011年と初騎乗の馬で勝利している。
クラキンコ(2010 年)は、周りからいろいろな話が聞こえてきましたけれど、それは全部流すようにして、とにかく僕の感覚で乗るしかないと思っていました。1200m(北斗盃)から2000mになるわけですし、ひたすら「折り合い折り合い」と念じて。でもやっぱり重圧があったのかなあ。表彰式が終わってから、ものすごくホッとしたという気持ちになりました。
そういったなかでも結果を残せる勝負強さは、夏のJRA開催でもいかされている。
昨年までで10勝ですか。もちろん、JRA開催はモチベーションにつながります。でも最近は2歳馬が中心という傾向がより強くなっていますし、3歳時にJRAの芝で勝ったファインドロップみたいなタイプは少なくなりましたね。それでも今後もJRAには参戦していきたいと思っています。
2歳馬が中心の競馬ということは、必然的にケガをするリスクも高くなる。2009 年にはシーズン中のケガで、約3カ月の休養を余儀なくされた。
その年は「久々にリーディングが取れるかな」という勢いだったんですよね。そんななかでのケガでしたから堪えました。あれ以降、少し体が硬くなったように感じているので、毎日のストレッチは入念にやっていますよ。とにかく今は大きなケガをしないようにすることが大事ですから。
その大ケガの影響で、2008 年に続いてスーパージョッキーズトライアル(SJT)に出場できる可能性もついえてしまった。
シーズンが始まるとき、まず目標にするのはSJTの出場資格を得るということ。ほかの競馬場で乗るのは楽しいですし、そのなかでもSJT は本当に出たいと思える舞台。もちろん出場するのも勝ち抜くのも大変ということはわかっていますが、なんとか......とはいつも思っているんです。
宮崎騎手の勝負強さなら、その目標も手が届かないわけではないといえそう。実際、2009 年から3 年連続で連対率が1 位。2011年は勝率でも1位となっている。
「勝たせる」という前提で頼まれる馬も多いですからね。そういった馬でレースに臨むとき、僕は「この馬は強い」と信頼して乗るんです。あとは馬の邪魔をしないようにと気をつけながら。自分の馬が強いと思えば気持ちに余裕が出ますからね。それでもある程度の緊張感というかプレッシャーは、常に感じていなければならないとは思っています。
そういったなかでも、快心と思えるレースはたくさんあったことだろう。
強い馬に乗るのも楽しいですが、強い馬を負かすというのも騎手の醍醐味ですよね。カネマサコンコルド(2010 年北海道2 歳優駿1 着)のレースはまさにそれ。あのときは「ひょっとしたら」という思いはありましたが、無欲といえば無欲。この馬の競馬をして3着でも拾えたら最高だなというくらいの気持ちでいたら、勝ちましたものね。しぶといタイプなので道中はインコースでじっとしていたら前が開いてくれて、展開もピタリとはまってくれました。
昨年はピエールタイガーで北海優駿3連覇
数々の重賞タイトルを手にしている宮崎騎手だが、まだ若手にその地位を譲るつもりは全くない。
とにかく強い気持ちを持つことが大切なんですよ。負けが込むと少しヘコむこともありますが、そんな状態では勝てないんです。勝負ごとでいちばん大切なのは、気持ち。それと体調管理ですね。最近は減量が厳しいですが、プロですからしっかりしていかないと。自分の体調がいまひとつだといい結果も出ないんです。馬も同じですよね。体調がいまひとつだと動けない。ですから、どれだけいいコンディションで自分も馬もレースに臨めるのか。調教も普段の生活も、それを第一に考えています。
今年もSJT の舞台を目指して勝ち星を重ねるベテランジョッキー。「ケガなく」というテーマをクリアすれば、そのチャンスはおのずと近づいてくるはずだ。
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宮崎光行(北海道)
1966年11月24日生まれ いて座 AB型
北海道出身 松本隆宏厩舎
初騎乗/1984年9月30日
地方通算成績/10,604戦1,545勝
重賞勝ち鞍/北海道2歳優駿JpnⅢ、道営記念(3回)、
北海優駿(4回)、赤レンガ記念(5回)、王冠賞、
北斗盃、栄冠賞(2回)、瑞穂賞、サンライズカップ(5回)、
華月賞、フロイラインカップなど49勝
服色/胴白・緑元禄、
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※成績は2012年5月21日現在
(オッズパーククラブ Vol.26 (2012年7月~9月)より転載)
今年でデビュー27 年目を迎える宇都英樹騎手は、愛知県騎手会の会長。勝利を目指す仕事のほかに、競馬の活性化や情報発信などにも心を砕いている。これまでを振り返りつつ、名古屋競馬と自身のこれからについても話を伺った。
宇都英樹騎手が騎手デビューした当時の名古屋競馬は、騎手同士の戦いも激しかった。
入ったときは騎手が55 人くらいいて、いちばん多かったときが58 人かな。調整ルームに入りきれないくらいでしたよ。だから乗り鞍の確保が大変。同じ年代に安部幸夫騎手、吉田稔騎手などがいるんですが、みんな5 日間の開催で2 ケタ乗れない程度の騎乗数でした。調教でも乗る馬があまり回ってこないという時期が5年くらい続きましたね。でも、それが当たり前だと思っていた部分があったかもしれません。
それでもなんとか上を目指したい。その想いは巡りあわせの幸運もあって、少しずつ花開いていく。
僕は鹿児島県出身なんですが、名古屋競馬にはなぜか同郷の人が多くてね。僕の父がウチの厩舎の厩務員さんと知り合いで、竹口勝利調教師が騎手を探しているから、と聞いてきたことがこの世界に入るきっかけです。でも入ったら兄弟子がいて(笑)。最初はいろいろと厳しかったですが、そのあと宮下兄妹(康一、瞳の両騎手)が来てくれたことで、他の厩舎に顔を出せる余裕ができました。
その頃ですね、マルブツセカイオーに乗れることになったのは。主戦の戸部尚実騎手が体を悪くして、代役が回ってきたんです。あの馬で東海桜花賞を勝たせてもらいましたが、運もよかったですよ。その年から東海桜花賞が名古屋開催に変わったんです(前年は中京競馬場の芝2000m)。左回りと芝が苦手だったマルブツセカイオーにとっては、本当に大歓迎。自分も『どうせ1 回きりだろうし』と思って開き直って騎乗しました。ヘタを打ったらどうしようかと考えたってキリがないですから。
その結果、東海所属馬による大レースを勝利。しかしながらその頃は、笠松競馬所属馬が名古屋の重賞戦線で大攻勢をかけている時期でもあった。
あまりに笠松の馬に勝たれるので、荒川友司調教師(故人)にグチっぽく文句を言ったら『ウチらが来られなくなるような馬を作ってみろ』と返されまして。そんなこともあって、少しずつ意識が変わってきたように思いますね。坂路もできましたし。
そういった対抗意識が、2000 年以降に全国区の活躍馬を送り出した要因になったのかもしれない。
でも今はそういう馬が少なくなりましたね。昔はどのクラスでも力関係の判断が難しいレースが多かったですよ。でも今はだいたい堅いでしょ。もっと面白みのある番組を作ってくれと、主催者にはよく掛け合っていますよ。その上で、話題性のある馬が出てきてくれれば。最近で僕が乗った馬でいうと、マリンレオとかね。
アラブながら、サラブレッドの重賞を制したマリンレオ。その馬で宇都騎手は福山のアラブ大賞典と金沢のアラブグランプリを勝利した。そのときは『本当は吉田稔騎手が乗る予定だったんですが、都合が悪かったらしくて、僕に依頼が回ってきた』という経緯だったそう。やはりこの世界で成功するためには、実力以上に縁が重要なのだと感じずにはいられない。それらを武器に実績を重ねてきた宇都騎手は、3年前から騎手会長を務めている。
任期は2年なんですが、昨年また再選されまして。そのなかで、昨年から騎手ズボンに広告を付けるということを始めました。いろんな企業やお店に営業に行きましたよ。なかなかうまく進んではいませんが、でもこうやって動いていくことで、「競馬場の人はがんばっているんだな」と、わかってもらえればと思いますからね。大震災のときは騎手会で募金活動もやりましたし、競馬場のお祭りにも協力しました。騎手はレースで一所懸命に乗るのが本分ですが、それ以外にもいろいろやっていかないと。お客さんが競馬をやめてしまったら、もうおしまいですからね。
騎手会長として、そして名古屋競馬を愛する者として、宇都騎手はさまざまなことを考えている。しかし本人もひとりの騎手。向上心は忘れていない。
デビュー当初はリーディング20位以内には入りたいなと思っていて、それが実現したら次はリーディングジョッキーカップに乗りたいなとなって。そうしたら今度はそれを勝ちたいってなるじゃないですか。いい馬に乗せてもらって教えられたことも多いですが、そういった気持ちがあることが、教養センターであんなに下手だった自分がここまでこられた理由かなと思います。
宇都騎手の通算勝利数は1700あまり。2000勝という数字も見えてきた。
去年、レース中に他馬の落馬に巻き込まれる形で、右の鎖骨を骨折してしまったんですよ。それで今は騎乗数を少しセーブしているんですが、2000 勝......、できるかなあ。最近のペースなら4年後くらいですかね。なんとか頑張ります(笑)。
名古屋競馬の騎手界は、若手の台頭もあって激戦区なのは今も同じ。そのなかで2010 年と2011 年はシルバーウインドとのコンビでグランダム・ジャパン古馬シーズンに参戦した。
あの馬は先頭に立つと気を抜くし、ゲートでも落ち着かないし、乗り難しいタイプ。あと、夏に弱いのがね......。去年の金沢(読売レディス杯)のときなんて、暑いのに全然汗をかかなくて、ゲート裏でダメだと思いましたもの。そんな状態でも3着に来るのだからすごいですよね。今年は3歳のマザーフェアリーが楽しみな存在。グランダムも狙えたらと思っているんです。
宇都騎手は「名古屋競馬場を夢のある場所にしたい」と口にしていた。それにつながっていくように、騎手会長は自分から動く。このインタビューのあとも、広告ズボンの広告主のところにあいさつと営業に行く予定になっているとのことだった。
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宇都英樹(名古屋)
1968年8月14日生まれ しし座 A型
鹿児島県出身 竹口勝利厩舎
初騎乗/1986年10月16日
地方通算成績/11,761戦1,736勝
重賞勝ち鞍/東海桜花賞2回、アラブ大賞典(福山)、
アラブグランプリ(金沢)、ゴールド争覇2回、
ゴールドウイング賞2回、名港盃2回、くろゆり賞(笠松)、
スプリングカップ、尾 張名古屋杯2回など27勝
服色/胴青・黄一本輪、そで青黄縦じま
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※成績は2012年2月29日現在
(オッズパーククラブ Vol.25 (2012年4月~6月)より転載)
いよいよ3月11日(日)に、今シーズンが幕を開ける金沢競馬場。開幕に合わせて、金沢リーディング常連の、吉田晃浩騎手にスポットを当てました。
赤見:まず騎手になるきっかけから教えていただけますか?
吉田「僕の場合は、中学を卒業して、北海道の静内にある育成技術者の養成学校に入ったのがきっかけです」
赤見:なんでその学校に入ったんですか?吉田騎手の生まれは神奈川県ですよね?
吉田「そう、神奈川です。実は小学校6年生の時に、北海道の過疎化が進んでる町に山村留学に行ったんですよ。僕の親がそういうのがあるって聞いてきて、面白そうだから行ってみようと思って
一年間、町の寮みたいなところに住んだんですけど、その時に馬に乗せてもらえる機会があったんです」
赤見:小学生で一年も親元を離れるなんて、すごい経験ですね。
吉田「う~ん、あんまり深く考えてなかったというか(笑)。勢いで行く行くって感じでしたけど、実際いろいろ体験出来て楽しかったですね」
赤見:その時の体験で、馬の仕事をしたいと?
吉田「いや(笑)、すぐには思わなかったです。
中学生になって地元に帰ったんですけど、学校があんまり面白くないというか、勉強がしたくなくて...。馬の仕事したいって言ったのは、実は勉強をサボる口実だったんです(笑)」
赤見:正直ですね(笑)。それで中学を卒業して、静内で育成の養成学校へ?
吉田「そうです。そこの装蹄師さんから、背が小さいから騎手になってみないか?って言われて、現在の所属調教師(佐藤茂先生)を紹介してもらったんです。騎手っていう職業自体あんまりよくわかってなかったんですけど、面白そうだなと思って挑戦しました」
赤見:地方競馬教養センターの生活はどうでした?
吉田「キツかったです!!静内の時がゆる~い感じだったんで、センターでの自由のない生活は本当に辛かったです。僕は短期生で半年間だったんですけど、けっこうイヤでしたね(笑)」
赤見:よくわかります!辞めようとは思わなかったですか?
吉田「辞めても後がないっていうか、することがなかったので耐えました。
センターを受験する時から佐藤先生にいろいろお世話になったので、辞めるわけにはいかなかったっていうのも大きかったですね」
赤見:佐藤先生は、もともとは上山所属でしたね。
吉田「そうです。廃止になってしまったけど、上山はすごく楽しかったですね。 僕は初騎乗初勝利をさせてもらったし、いろいろな思い出があります」
赤見:2003年の廃止は、とても残念でしたね。
吉田「本当に残念です。あの頃はまだ若くて、よくわかってなかったというか、あまり実感がなかったんですけど。浦和に移籍出来ることが決まったし、新しい場所でまた頑張ろうと、前向きな気持ちでした。
でも実際、浦和に移籍してみて、甘くないなと痛感したんです。
「あ、乗り馬いねー...」って思いました(苦笑)。
今まで乗れたのは、佐藤先生がいてくれたお陰だったんだって、初めて気付きました。感謝の気持ちというか、有難みというか...失ってみて、初めて気付いたんです。
浦和で2年やったけど全然お金にならないし、ちょうど落馬して怪我をしたんで、もう辞めちゃおうって免許を返上しました」
赤見:その後はどうしていたんですか?
吉田「その頃父親が定年間近で、母親だけ先に北海道に移住していたんですよ。うちは行動力だけはある家系なんです(笑)。
それで僕も北海道に行って、ふらふらしてました」
赤見:ふらふらとは?
吉田「まぁ、フリーターですね。色んなバイトしましたよ。引越し屋さん、コンビニ、居酒屋、パチンコ屋...あと、漁師になる!って言って、和歌山まで体験しに行ったこともありましたね。どれも続かなかったけど」
赤見:フリーター生活から、競馬の世界にもどったきっかけは何だったんですか?
吉田「佐藤先生は金沢に移籍してたんですけど、ある日突然電話をくれたんですよ。「お前、今何やってんの?騎手やる気はないのか?」って。
それで、戻れるならもう一度挑戦してみたいと思ったんです」
赤見:金沢の内規では、再度騎手免許を取得するためには一年間の厩務員経験が必要だったんですよね?
吉田「はい。その一年は、全然苦じゃなかったですよ。改めて、自分は馬が好きだったんだなと感じました。騎手とは違う側面から競馬に携わってみて、面白かったし勉強になりました」
赤見:一見遠回りしたように見えますが、得るものも大きかったんですね。
吉田「本当にそうですね。再デビューした時は、「今度こそ絶対に乗り役で食べて行くぞ!」って思って、前よりもずっと真剣に仕事に取り組むようになりました。
前は甘く考えていたところもあったし、せっかく恵まれた環境があったのに、その有難みもわかってなかった。
今は調教でもレースでも、ひとつひとつ真面目に向き合うようにしています」
赤見:その甲斐あって、現在は4年連続吉原寛人騎手に続くリーディング第2位ですね!
吉田「もう本当に佐藤先生のお陰ですよ。再デビューしてからずっと乗せ続けてくれたので、他の厩舎の方々にも、少しずつ認めてもらえるようになりました。
今の僕があるのは、佐藤先生をはじめ周りのみなさんのお陰です。あの時電話をもらわなかったら、多分今もフリーターをやっていたと思いますから。本当に救われました。」
赤見:では、現在の目標を教えて下さい。やはり、打倒・吉原寛人!ですか?
吉田「もちろん、それもあります。ここのところ、ずっと2位という成績ですから、上は目指しています。
でも一番は、今を一生懸命生きるってことですかね。あんまり数字とか先のこととか考えてないです。今すごく楽しいし、怪我をしないでこのままずっと騎手を続けていたいなって思ってます」
赤見:いよいよ今シーズン開幕です。ファンのみなさんにメッセージをお願いします。
吉田「やっぱり、競馬場に見に来て欲しいですね。僕たちは、精一杯面白いレースを作れるよう努力します。金沢みんなで一丸となって、今年も頑張ります。ぜひ、生でレースを見て下さい!!」
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※インタビュー / 赤見千尋
2011年1月8日の初騎乗初勝利後、29日には減量特典のない特別戦でも勝利。10月には重賞初騎乗初勝利のほか1日5勝(1日最多勝利タイ)など、ばんえいの新人騎手記録を次々と塗り替えている島津新(あらた)騎手(21)。いずれもばんえいからは4人目となる、2011年度日本プロスポーツ大賞新人賞、NARグランプリ2011の優秀新人騎手賞を受賞。デビュー年にばんえい新人史上最多の86勝、3月5日現在通算95勝を挙げており、100勝目前だ。
斎藤:2つの新人賞受賞、おめでとうございます。引っ張りだこですね。
島津:あちこち行って、正直ちょっと疲れましたね。白鵬は大きかった! 内藤大助選手は、同じ北海道出身だからか、世間話をずっとしゃべっていました(笑)。東京でご飯も食べましたが、混んでるし、帯広の方が美味しいかもしれません。
斎藤:新人賞はデビュー時からの目標でしたね。いつ頃獲れると思いましたか。
島津:重賞獲ったとき(10月16日クインカップ、重賞初騎乗で4番人気のキタノサクラヒメで勝利)。重賞に乗りたいなぁとはずっと思っていました。勝ててほっとした。キタノサクラヒメは、ここを勝ってクラスが上がり、重量も増えて苦戦しています。
斎藤:新人賞受賞のインタビューでは「勝利数には満足しているけど、内容に満足していない」とコメントしていましたね。満足できない点を具体的に教えてください。
島津:レース運びですね。勝てるレースで勝てなかった。今、悩みどころです。キタノサクラヒメのように、今まで勝ってきた乗り馬たちが、クラスが上がって勝てなくなっています。なんとか勝てない馬を勝たせたい。負けても、馬に山を上げる自信をつけさせるような、次につながるレースをしたい。最初からそうしたいとは思っていましたが、最近は実際に考えられる余裕が出てきました。
斎藤:50勝して、減量特典がなくなったあとも苦労したようには見えませんでした。その余裕はどこから来るのでしょうか。
島津:そんなことないですよ。星(減量)が取れた後は苦労して、藤野さんにアドバイスを聞いたりしました。がむしゃらにやっていたら、秋ころには余裕が出てきた感じです。
斎藤:えんじ色の勝負服は、同じく道南出身の藤野俊一騎手を参考にしたそうですね。
島津:父が持っていたシマヅショウリキ(99、00年ばんえい記念など重賞9勝)に乗るなど仲がよかったので、昔から知っていました。今でも尊敬しています。酔っ払って電話かかってきたりしますが(笑)。
斎藤:さて、騎手になったきっかけを教えてください。競馬場に来て1年半、一発合格でしたね。
島津:祖父、父が馬主でした。北斗市は草ばん馬も盛んなので、子どもの頃からポニー引っ張っていました。騎手になろうと思ったのは保育園くらいの時かな。ばんえいの存続が危なくなった時にどうしようか悩んだこともありますが、父のつながりで岩本利春調教師にお世話になりました。
斎藤:1年たって変わったと思うことはありますか? ファンレターとか来るでしょう。
島津:ふけたなぁって...(笑)。写真撮られるのは慣れました。インタビューはまだちょっと...(笑)。ファンレターは来ないですよ。バレンタインのチョコもこなかったです...。(好きな)タイプはおとなしい子です。
斎藤:3月13・20日に放映されるNHKドラマ『大地のファンファーレ』には、主役のライバルとしてエリート新人騎手が出てきますが、モデルは島津騎手じゃないですか?
島津:いや...どうかな(笑)。ドラマには一瞬出ています。ちょっと笑ってますが(笑)
斎藤:普段はどうやって過ごしていますか。また、仲がいい騎手はいますか?
島津:厩務員作業があって遊ぶ時間がないから...釣りは好きです。夏は1人で海に行きました。普段は1人で行動しますが、謙(西謙一騎手)や幸太(長澤騎手)とよく話します。
斎藤:「ケン」や「コウタ」って...先輩ですが、そのように呼ぶんですね。厩舎で、みんなでご飯を一緒に食べたりはしないんですか?
島津:自炊しています。料理はそんなにしないけど...米は炊きます。カップラーメンは食べないです。体によくないから。170センチ60キロです。食べても太らないんです。寝たら元に戻る。弁当箱(騎手重量を合わせる重り)は、佐藤希世子元騎手にもらったものを使っています。
斎藤:よく特別で騎乗しているのはアグリミズキですね。
島津:かわいいですよ、まじめで。おでぶちゃん。1100キロくらいあります。めんこいです。今担当しているのは、父が持っているハヤテショウリキ、アウルメンバー、キュートエンジェル。キュートエンジェルかわいいですよ。でぶだけど。あとは、春にテスト受ける2歳馬。ニシキウンカイの下です。動物は全般好きで、イヌ飼ってます。名前はナナ。(レースでは)逃げるのは楽ですが、追い込みが好きです。
斎藤:乗ってみたい馬、レースはありますか?
島津:ニシキダイジンかな。本当のオープン馬というのがどのような馬か、乗ってみたい。レースでは、大臣賞(ばんえい記念)もですが、イレネー記念も勝ちたいですね。2歳の(最高峰)、っていうのはかっこいい。
斎藤:ばんえいの見どころを教えてください。
島津:馬の迫力や大きさはもちろんですが、そりの上で踊るような、騎手の動きを見てほしいです。僕は藤野さんの左パンチを真似します!
斎藤:扶助として、そりの上で体を揺らすんですよね。左パンチは右手に持った手綱で馬の左側のお尻をたたく時。
島津:はい、邪魔にならない程度に。藤野さんは独特のリズムがあって、きれいなんです。
斎藤:今後の目標を教えてください。
島津:馬を育てられる騎手になりたいです。左パンチ見てください(笑)。馬券、特に島津新の馬券を買って!
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※インタビュー・写真 / 斎藤友香
大柿騎手(22歳)といえば、『園田プリンセスカップ』(昨年9月22日)で初重賞制覇を成し遂げた表彰台で、恋人にプロポーズをしたことで一躍有名になった騎手です。
竹之上:まずはプロポーズに至った経緯を教えてくれる?
大柿:もうそろそろ彼女と結婚しようかなぁと思ってたころで、そんなことを調教中に北野(真弘騎手)さんに話してたら、「お前今度重賞で勝てそうな馬がおるやろ。その表彰式のときにしたらどうや」って言われたんです。
なんと、あの衝撃プロポーズは、北野騎手の発案だったのです!
レースの前の週、騎乗するアスカリーブルの話を訊きに行ったとき、神妙な顔で大柿騎手がにじり寄り「実はそのことで相談が...」と言ってきたのです。「もし勝ったら、当日来る彼女に表彰台からプロポーズをしたいんですけど、そんなことをしてもいいですかね」と。
竹:ええがな、前代未聞やけど、やってみたらええがな。って言ったけど、あかんって言ってらどうしてた?
大:どんな形でもプロポーズはしようと思ってました。結果的に表彰台で伝えることができて良かったです。でも、あのときはめっちゃ緊張しましたよ。
竹:そうやな、若手騎手が初重賞制覇するわけやし、嬉しくてたまらないか、涙を見せるかっていうのが相場やけど、ガチガチになって青ざめてた感じやったもんな。
大:あの日は乗り鞍自体があのレースだけだったので、朝からレースのことばっかり考えてました。内枠だったので、初めて砂をかぶる競馬になったらどうしようと不安になっていました。だから勝ったあとはホッとするところなんですけど、まだこのあとやることがあるんやと思ったら、めっちゃ緊張してきて...。
「こんなぼくですが、結婚してください!」と直球のプロポーズ。もちろん成功して、3月3日に入籍。3月30日に挙式の運び。多くの人が見届け人になったわけやから、絶対に幸せになるように!
竹:甘い新婚生活が待っているところやけど、6月から南関東の船橋で期間限定騎乗することが決まってるんやね。
大:そうなんです。でも、彼女には早い段階から遠征に行くってことは言ってましたから、納得してくれてます。それより、自厩舎(山口浩厩舎)の方が気がかりで...。だから先生になかなか言えなかったんです。
竹:厩舎に迷惑がかかることを心配したの?
大:調教している馬の数は、西脇トレセンの中でもかなり多くやっている方だと思います。だから、ぼくが船橋に行っている間、誰かに負担がかかるわけじゃないですか、それがあるので先生からお許しが出ないんじゃないかと思ったんです。
竹:でも先生は許してくれたんやね。
大:意外にあっさりね(笑)。「何かつかんで帰ってくるんやったらええよ」って。
竹:いいこと言ってくれるねぇ。
大:「調教がしんどくなるなぁ」って冗談で言われましたけどね(笑)。ただ、調教がしんどくなるのは事実なので、だから3ヶ月まで遠征できるんですが、2ケ月の申請にしたんです。うちの厩舎のことを考えると、それが限界かなと。
船橋での所属厩舎は天下の川島正行調教師の息子さんである川島正一厩舎となりました。
大:うちの厩務員さんが大井の関係者と親しいから聞いてみると言ってくれてたんですが、話がまとまらず、最後の切り札として取っておいた、川島正太郎(船橋騎手)に直接電話をして頼んでみたんです。ぼく彼と同期なんですよ。
竹:ええカードを残してたなぁ。そういえば、アスカリーブルは川島正行厩舎に移ったんやね。ひょっとして騎乗依頼があったりして。
大:それはないでしょう。あったら嬉しいですけどね(笑)。でも、川島正一厩舎にも、うちの厩舎にいたプレミールサダコがいるんですよ。何かの縁かなぁって思いますね。
竹:アスカリーブルが『ユングフラウ賞』で強い勝ち方したよね。どう見てた?ずっとこっちにいて乗り続けたかったとは思わない?
大:別に思いませんね。移籍はしょうがないことですから。それより、デビューから乗せてもらって無傷の4連勝で重賞制覇させてもらったんですから、すごく感謝しています。結婚にも繋がりましたしね(笑)。とにかくアスカの活躍は素直に嬉しいです。
デビューから5年目を迎える大柿騎手。初年度に16勝。2年目には50勝(リーディング12位)を挙げる大活躍。しかも騎乗回数は群雄割拠の兵庫において、新人としては破格の842回という騎乗数。これはその年の39名中、5位の記録だったのです。
しかし、その後は23勝、29勝と落ち込み、今年は2月23日現在、まだ2勝。乗り数も大きく減少傾向にあり、完全に伸び悩みといえる状況です。
大:はい、完全に伸び悩んでいます。デビューした頃はうまくいくことが多かったのですが、最近は...。周りの人からは下半身が不安定やと言われるんです。とくに理(おさむ・下原騎手)さんには厳しく指摘されますね。
竹:いくら先輩でも、本当は賞金を取り合うライバルなわけやし、アドバイスしてくれるってありがたいね。
大:本当に理さんには技術面でいつもいいアドバイスをもらっています。それから、精神面では北野さんにケアしてもらってますね(笑)どちらも面倒見のいい優しい先輩です。
竹:いい先輩に恵まれてるね。それで、新人のときにできたことが、いまできないのはどういうところだと思うの?
大:デビューしたての頃の方が、騎座がしっかりしてたんだと思います。教養センターでやってた鍛錬が効いていたんじゃないでしょうか。あのときの教官で杉山先生って方がいたんです。その先生に毎日課せられていた下半身強化のトレーニングがキツかったんですけど、すごい効果があったんです。
いまでも行き詰ると、杉山先生に連絡してアドバイスをもらっているという大柿騎手。その声に触れ、初心に帰ることに、はたと気付かされます。
竹:またそのトレーニングを始めたんやね。
大:毎日ってわけじゃないですけど、徐々に始めています。初心を思い出して、もう一度立て直そうと。そんな時期に南関東への遠征話も入り、結婚して家庭を築いていくわけですから、もっとしっかりせなあかんと思ってきたのです。一からやり直すぐらいの気持ちで頑張ります!
竹:最後に、今後の目標を聞かせてくれる?
大:技術としては理さんのようなレースができるようになりたいですね。ロスなく立ち回って、馬をスムースに動かすんですよね。それと、自厩舎の馬には全部乗りたいです。先生に「全部お前に任せる」って言われるぐらい信頼される騎手になりたいです。
竹:もうない?
大:本音を言えば、兵庫は川原さんや木村さん、学(田中騎手)さんなど、本当にすごい人たちばかりですよね。すごく勉強になるんです。だからこそ、ここでトップに立ちたいって、やっぱり思いますよね。
竹:うん、その言葉が欲しかった!南関東でも頑張ってな!
大:はい!何か見つけて帰ってきます!
これから彼の騎乗ぶりの変化に期待しましょう。南関東での活躍にも期待しましょう。そして次に目標を訊いたときに、すぐさま「トップを獲りたい!」と言える逞しさが備わっていれば、兵庫県競馬の未来は明るいものとなるのです。
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※インタビュー / 竹之上次男
写真:齊藤寿一