今年のLJS、最終の荒尾ラウンドで大逆転の総合優勝を果たした岩永千明騎手。レース後には涙を見せ、感動のフィナーレを迎えました。LJSを中心に、これまでを振り返っていただきます!
赤見:まずは、LJS総合優勝おめでとうございます!
岩永:ありがとうございます。まさか荒尾ラウンドで2連勝して、優勝出来るとは思ってなかったので...。勝った時は本当に嬉しかったです!
赤見:第5戦の『アフロディテ賞』では、圧倒的な1番人気馬に騎乗。プレッシャーもあったのでは?
岩永:前夜祭の時にも話しましたけど、かなり緊張してました。シリーズになってから、なかなか思うような結果が出せなかったし、せっかく地元のファンが応援してくれているのに、悔しい結果が続いていたので。
でも本当に馬が強かったですね。逃げて道中の手応えも良かったし、最後まで追ってたんですけど、8馬身も離していたとは思わなかったです(苦笑)。
赤見:そして第6戦では、一転後方から豪快な追い込みでした。
岩永:もともと後ろから行く馬なんですけど、前が気持ちよく行っていたので、このままではまずいと思って早めに上がって行きました。
最後は平山真希騎手(2着)と、2人でワーワー言いながら追ってました(笑)。
赤見:2連勝、気持ちよかったんじゃないですか?
岩永:はい!本当に気持ちよかったですね。2連勝して馬から下りた時には、思わず泣いてしまいました。
でも、その時は優勝してるって気づかなくて(笑)。一通り泣いた後、インタビューの時に記者さんに言われて気づきました。そんな所が、私だな~って(笑)。
赤見:あの涙は優勝の涙ではなかったんですね(笑)。
岩永:とにかく地元で結果を出せたことが嬉しかったんです。最後の直線では、ファンの皆さんの声援がすごく聞こえました。「ちあきー」とか、「行けー」とか。その声が本当に力になりました。
ファンの皆さんにはいつも応援していただいて、本当に感謝してます。
赤見:今回大逆転での総合優勝となりましたが、この嬉しさをどなたに1番伝えたいですか?
岩永:所属調教師の幣旗吉治調教師ですね。厳しい先生ですが、未熟な私をレースに乗せ続けてくれました。馬主さんに頭を下げて、頼んでくれるんです。
やっぱり、レースに乗らないと上手くならないですから。先生のおかげでたくさん乗せてもらって、感謝の気持ちでいっぱいです。
赤見:荒尾は毎年LJSが開催されるので、他場よりも盛り上がりが大きいように思います。地元で開催されるということでプレッシャーもあると思いますが、岩永騎手にとって、LJSはどんな存在ですか?
岩永:シリーズになる前の、荒尾のみで行っていた女性騎手招待の頃に2連覇して、かなりいい思いをさせてもらいました。
あの頃は、デビューしたばっかりで何もわからないうちに勝たせてもらった感じでしたね。今より全然未熟だったし、ただ乗ってるだけでした。
それからシリーズになって、色々な競馬場で乗せてもらえるようになって。女性騎手たちに会えるのも楽しみだし、先輩たちの話が聞けるのも勉強になります。すごく刺激になるレースですね。
赤見:もともと、騎手を目指したきっかけは何ですか?
岩永:私は西原玲奈さんにすごく憧れていたんです。乗馬クラブの先輩だったので、玲奈さんが騎乗する時に競馬場に応援に行って、それで自分もなりたいって思ったんです。
赤見:実際に競馬サークルに入ってどうでした?
岩永:騎手学校では同期が女子1人だったんですけど、半年後に1期後輩で皆川さんが入って来てくれたので、とても心強かったですね。淋しくなかったです。
赤見:幣旗吉治厩舎所属になった経緯は?
岩永:乗馬クラブの先生が、幣旗先生と知り合いだったんです。「騎手になりたいです!」って言ったら、すぐに「いいよ」と言って引き受けてくれました。
幣旗吉治厩舎に入れたということが、すごく大きかったと思います。勝負に対しては厳しいけど、普段は優しいですし。
赤見:それでは、今後の目標を教えて下さい!
岩永:今164勝(12/20現在)なんで、早く200勝したいです!
荒尾は騎手とファンとの距離がすごく近くて、パドックやスタンドからの声援もよく聞こえるんです。野次もあるけど(笑)、ファンの方の声援が、本当に力になりますね!
これからも1つ1つのレースを一生懸命頑張って、1つでも多く勝てるように頑張ります。
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※インタビュー / 赤見千尋
今年3月のばんえい記念をニシキダイジンで制し、6月には通算2000勝を達成。信頼度も抜群でファンも多く、今シーズンばんえいリーディング2位の藤野騎手にお話を伺いました。
斎藤:ばんえい競馬に来たきっかけを教えてください。
藤野:出身は道南の森町。うちには牛と馬がいたんだ。小学校の時は近所のばん馬大会に出たり、馬で畑起こしたこともあるよ。
高校中退してからは、札幌のガソリンスタンドで働いていたのさ。やめて実家に帰った時に、近所の馬主さんに「遊んでるんなら競馬場入れ」ってすすめられたの。それが20歳の時。
斎藤:厩務員から、騎手を目指したのはなぜでしょうか。
藤野:すんげーかっこいいべや。だって、その当時活躍していたのは、木村卓司(元調教師)、久田守、金山明彦、岩本利春(3人とも現調教師)......。俺は7年目で受かったな。
受かったら、3月に那須の教養センターで研修があるのさ。新人騎手と制裁多い騎手が受けるの。5泊6日くらいあったかな。最後の日に初めて隣の部屋に行って、制裁を受けて来ていたどこかの騎手のところに行ったら、酒飲んで見つかってな。制裁受けて、1開催乗れなくてデビュー遅れたんだ。
研修から帰るときに家に電話したら、うちの長男が生まれてよ。忘れもしない日だ(笑)。 デビューの日は、朝の調教が終わってから一度寝たら、寝過ごして、検量に遅れて戒告よ。また怒られた。
斎藤:大物ですね(笑)。
藤野:最初の頃は、1日に1、2頭しかレースに乗れなかったな。若手騎手の減量特典も、今みたいに年数はなくて、30勝未満だけだったし。
デビューから10年くらい経った頃かな......、当時所属していた宮崎正徳厩舎にフジリキって馬がいたの。すんごい好きだったの。キレイな栗毛でな。レースぶりが好きなのさ。2障害手前に着くまでが早いんだけど、全然障害登らないの。障害から降りたら、ゴールまですんごい早いの。
違う騎手が乗ってたから「俺にやらしてくれ」って言ったんだ。調教でハミ変えたりして、障害登らせて。それからたくさん勝ったよ。数乗るようになったのはこのあたりからだな。
斎藤:シマヅショウリキ(ばんえい記念連覇など重賞9勝)について教えてください。
藤野:友達の親父が持っていた馬だから、能検からずっと乗せてもらっていたんだ。体は小さいし、腰のあたりが生まれつき不自由だから、頂点(ばんえい記念)まで取るとは思わなかった。フクイチが、初の3連覇なるか、って盛り上がっているときに、それ阻止してな(笑)。登坂力がすばらしかった。
斎藤:スーパーペガサス(ばんえい記念4連覇、重賞20勝)はいかがですか。
藤野:途中から乗ったからな。乗りたいとは思っていたけど、まさか俺に回ってくるとは思わなかった。オイドン(現2歳最強馬)に似てるよ。走るのが好きで、前に行くことしか考えていない。いい意味で、バカなんだわ。普段はおとなしいのに、レースになると自分で前に行くタイプだから。オイドンも、ペガサスみたいになるぞ。
ペガサスは、顔がかっこよかったよな。死ぬ1カ月前に一度会いにいったんだ。でも近づけなくて、遠くから見てた。寝たきりだったもの。それでも首から上は動くからこっちを見るんだ。その顔はかっこよかった。それは変わらなかった。
斎藤:ニシキダイジンについて教えてください。ばんえい記念は、前日に話を聞いたとき「勝つのは難しい」とおっしゃっていましたよね......。
藤野:荷物(負担重量)を考えれば、得意だからチャンスはあると思ったよ。ダイジンの厩務員の佐々木一夫さんは、俺が山本幸一厩舎にいた時に一緒だった人なんだ。レース後「カズさん、やったな。」っていったら「やったー」ってな。今も調子はいいし、1月2日の帯広記念を焦点に仕上げてるよ。
斎藤:レースで大事にしていることはなんでしょうか。
藤野:うーん......10頭いる中で、目標となる馬の様子を見ることかな。俺、無理なレースすることあるから制裁も多いんだよ。
障害上がらない馬が好きなんだ。自分がやって、上がったら面白いでないか。ここで上げたら勝てるかな、この位置で届くかなって、レースの楽しみあるべや。
そう言ったら、癖馬を頼まれるんだ。それをまた、俺は喜んで受けるんだ(笑)。その時? ハミ変えたり、攻め馬を工夫するんだ。平地競馬の騎手みたいに背中に乗るんなら、ハミと人間が近いしょ。それでもよれることがあるのに、ばんえいは伝える方法がハミしかなく、しかも遠い。だから馬との戦いだ。グリーンのホースの間を走らせるのが仕事だもん。
斎藤:騎手生活24年の結晶ですね。
藤野:先輩から教えられたからな。騎手に大事なのは、考え方に柔軟性があるかどうかだと思う。それと、研究熱心なこと。調整ルームの娯楽室に、レースのビデオがあるんだ。若いやつには「何回も見ればいいしょ」って言うんだ。他の人が、自分が乗っていた馬をどう乗って勝ったか。今の若い騎手は、あまり見ないものな。時代も違うけれど、おとなしいもの。
斎藤:では最後に、ファンに一言お願いいたします。
藤野:大きな馬の走る雄大な姿を見に来てください。
帯広記念でのニシキダイジン? 前の方にいます(笑)。
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※インタビュー / 斎藤友香
3年ぶりに地方全国交流として復活したダービーグランプリで、ロックハンドスターを岩手三冠馬に導いた菅原勲騎手。11月29日には、地方競馬史上6人目、現役では4人目となる地方競馬通算4000勝も達成しました。長きに渡って、岩手のみならず地方競馬のトップジョッキーとして活躍を続けています。
横川:騎手をめざしたきっかけは?
菅原:おじが地方競馬の調教師をやっていて父は厩務員。小さい頃から競馬場に来て厩舎で遊んだりしていたから、"馬がいる世界"には自然にとけ込んでいたね。その頃はまだ繋駕(ケイガ)競走があって、調教師兼騎手だったおじが繋駕に乗ってレースをしているのを応援したりしていた。
横川:小さい頃から競馬が近くにあったんですね。
菅原:まあその頃は、競馬がどうの騎手がどうの、というのは分からなかったから、ただ馬やレースを見ていただけ。騎手になろうとも考えていなかったと思うけど、父は自分を騎手にしたかったみたいだね。
自分も馬が好きだったし、身体もそんなに大きくならなかったから、自分でもわりと自然に騎手になろうと思うようになったな。
横川:そしてデビュー直後から新人らしからぬ活躍が始まりました。
菅原:最初のうちはただただ夢中だった。がむしゃらにレースに乗ってね。新人としてはよく勝っていた方だと思うけれど、あの頃は馬の力で勝っていただけ。自分が"凄い"とか"上手い"と思ったことはなかった。
周りが応援してくれたおかげで新人のわりにはいい馬に乗せてもらえたかな。いい馬、強い馬というのはレースをよく知っているから、馬が教えてくれるんですよ。仕掛けるタイミング、どこでどう動けばいいかってことをね。
運が良かったというか恵まれてはいたかもね。そうやっていい馬に乗って"こうやったら勝てる"という感覚を早くから掴めたのは有利だったと思う。
横川:ある程度騎手をやったらすぐ調教師になろうと思っていたそうですね。
菅原:その頃は周りがみなそうだったからね。30歳くらいまで騎手をやったら調教師になる...というのが普通だったから、自分もそういうものだと思っていた。騎手をやるのは調教師になるための勉強期間というか訓練期間というか、騎手をやりながら馬の扱い方や調整の仕方を覚えて、調教師になるのが"あがり"だと考えていた。
横川:それが結局、30年近く騎手を続けることになりました。
菅原:ちょうど30歳くらいの頃に、いい馬に立て続けに出会ったんだよ。トウケイフリートやトウケイニセイに乗ったのが自分が30歳前後の頃。アラブの強い馬にもたくさん出会えた。新潟や上山に遠征して勝つこともできたし、レースが面白くて仕方がなかった。
トウケイニセイが引退する時、自分も一緒に引退しようと思っていた時があったんだよ。トウケイニセイで勝ちまくったし、サラもアラブも若い馬から古馬までめぼしいレースはみな勝った。できることは全部やってしまった、もうこれ以上のことはないだろう...と思っていたんだよね。
横川:その頃が一番悩んだというか、ムチを置くかどうかの瀬戸際だったんですね。
菅原:強いて言えばそうだね。やっぱり辞めるとしたらいい時を選びたいでしょう。落ち目になって辞めざるを得なくなるくらいなら、一番いい時、自分がピークの時に辞めてしまうのがいいんじゃないか、ってね。
それに、その頃は騎手としてのピークはせいぜい30代前半、気力や体力が充実しているのは若い頃だけだって思っていたから。
横川:でも、すでに50歳が見えるくらいになりましたね...。
菅原:やってみると乗れるなと思うんだよね。30歳くらいの頃は"40歳くらいまでは大丈夫だろうな"、40歳になれば"もうちょっと乗れるかな..."。60歳までとは言わないけど、まだもう少し続けられると思うよ。
横川:"予定通り"に引退していたら、GIを勝つことも4000勝もなかったですしね。
菅原:トウケイニセイの後はメイセイオペラ、トーホウエンペラーと続いたから、もうちょっと、もうちょっと...と思ううちにここまで来てしまったね。
自分がデビューした頃はまだ、岩手は一介の地方競馬に過ぎなかったけれど、だんだん盛り上がるようになって売上げも上がって、全国的に注目される馬も出てきて、自分のキャリアもちょうどそのカーブと一緒に上がってきてね。いい時期に騎手になったな、とは思う。
まあ、今思えば辞めなくて良かったよね。これからは...どうか分からないけどね!
横川:今と昔、レースの仕方とかレースに対する姿勢とかは変わっていますか?
菅原:若い頃は勝つことにこだわっていたよね。とにかく一つでも多く勝とう、ライバルよりも多く勝とうとしていた。だから昔は、周りから見てピリピリしていたというかガツガツしていたというか、余裕がなかったんじゃないかな。
横川:昔は、リーディング争いが佳境にはいる頃はもの凄く怖い雰囲気になっていたような記憶があります。
菅原:負けるのがとにかく嫌だったからね。リーディングを獲ることなんかにも凄くこだわっていた。今は勝ち星の数よりはレースの中身、いかに気持ちよく勝つかとか、馬に楽に勝たせてやりたいとか、そんなことを考えるようになったね。
正直リーディングを獲ること自体には、今はあまり関心がないな。一つ一ついいレースを積み重ねて、その結果として1位になるのならいいけれど、そのために勝ちに行く、っていうのは、あまりね。
あ、でもリーディングを獲らないと佐々木竹見カップに選ばれないのか。あのレースは面白いからぜひ出たいものね。
横川:ということは、5000勝、6000勝と積み重ねていくというのは...。
菅原:いやあ、とてもとても。4000勝に届いたこと自体が自分では信じられないこと。そこまでは騎手をやってないよ、たぶん。
横川:さて、こうして騎手を続けてきて一番辛かった出来事はなんでしょうか?
菅原:やっぱり怪我をして騎乗できなかった時だね(2004年8月からシーズンいっぱい騎乗できず)。あまり大きな怪我をしてこなかったから、あれだけ長く乗れなかったのは初めて。乗りたいと思うのに身体が言うことを聞かないから乗れない。気ばかり逸って焦る。
結局そのシーズンを全部休んで次のシーズンからのスタート、元通り乗れるようになるのか?って、実際に乗ってみるまで不安があったしね。
横川:では反対に良かったことは?
菅原:好きなことをこれだけ続けてこられたのがまずひとつ。それから、調べてもらえば分かると思うけど、ここ最近の岩手の代表的な馬にはほとんど乗っていたんだよ。サラもアラブも。そんな歴史に残るような名馬たちに乗って戦ってきた、っていうのは自慢できるよね。
横川:一番思い出に残る馬を挙げるとすると...?
菅原:前も話したけど、やっぱりスーパーライジンかな。自分に最初の重賞勝ちをプレゼントしてくれた馬。あの馬のおかげで強い馬に乗った時の戦い方を身をもって覚えることができた。デビューしてすぐあの馬に出会えたから今の自分がある、そう言ってもいいと思う。
横川:もちろんトウケイニセイもですね。
菅原:本当に強かった。どんなに強い馬でもね、"あ、これは負けそうだな"という気持ちというか雰囲気みたいなものを見せてしまうもの。でもニセイは違った。どんな相手でもどんな展開になっても勝とうとする気持ちを失わなかった。別格だね。
横川:最後に、話題の馬ということでロックハンドスターについて。
菅原:やはり遠征に出て揉まれたことがね、結果はともかく馬には良かったと思う。強いライバルと戦っていかないと馬は伸びないものだからね。ダービーグランプリは期待通り、いやそれ以上のレースをしてくれた。地元の馬が活躍して、競馬を盛り上げていかないとね。
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※インタビュー / 横川典視
金沢ラウンド・名古屋ラウンドが終了し、残すは最終戦の荒尾ラウンドのみとなった、今年のレディースジョッキーズシリーズ(LJS)。各レース共に熱戦が繰り広げられている中で、唯一2度の総合優勝を誇る、名古屋の山本茜騎手にインタビューしました。
赤見:まずは、騎手を目指したキッカケを教えて下さい。
山本:もともと動物が好きだったこともあったんですけど、子供の頃にお父さんと、横浜の根岸森林公園に行ったんです。その時、自分と同じような子供たちが馬に乗っているのを見て、やってみたいなと思って。
運良く、愛馬少年団に入ることが出来たので、小学校5年の時からずっと乗馬をしていました。
赤見:山本騎手は高校を卒業してから騎手学校に入ったんですよね?
山本:そうです。中学を卒業して、高校に入学した頃から将来の進路を考えるようになって。遊ぶために大学に行くのは嫌だったので、自分の進みたい道をみつけたいと思ってました。
ちょうどその頃、茜は背も低いし、騎手やってみればって言われて、そういう仕事があるんだって初めて認識したんです。
川崎競馬場が近かったので、自転車で行って、返し馬やレースを間近で見たら...ものすごい迫力でした。自分が今まで乗ってた馬とは全然違ってて、なんてゆうか、野性的な感じで。これに乗れたらかっこいいなーって思ったんです。
赤見:どうして名古屋所属になったんですか?
山本:高校を卒業して、1年間美浦の牧場で働いていたんですけど、そこの社長の伝手で南関東に入れないか聞いてもらいました。
話を聞いてもらう所まではいったんですけど、「南でデビューしても乗せてもらえない。まして女の子ならなおさら」ということで、上手くいかなかったんです。
赤見:なるほど。では実際に競馬サークルに入っての印象はどうでしたか?
山本:楽しかったですね。私は全く競馬に関係ない家庭に育ったので、トレセンの中のシステムとか全然わからなくて。それを知っていくのが楽しかったです。
赤見:デビューからすぐに大活躍して来ましたが、一昨年にはニュージーランドへ武者修行に行きましたよね。
山本:前からずっと行きたいと思っていたんです。日本で騎手になれなかったら、オーストラリアの学校に行くつもりで資料も集めていたし。海外に行って勉強したいと、今でも思っています。
赤見:次はどこへ行きたいですか?
山本:とりあえずは、アジア圏に行きたいです。色々な所に行って、いっぱい勉強したいですね。
赤見:ニュージーランドでは、かなり貴重な経験をしたのでは?
山本:本当にそうです。ライセンスを取るまで1年くらいかかってしまって、とにかくレースに乗りたいという気持ちが強かったですね。
それに、馬に対する姿勢も日本とは違ってかなり自然というか、そのままなんですよ。牛がいっぱいいる所をガーッと走らせたり、道もでこぼこしているし。
赤見:実際、レースに騎乗出来た時はどうでした?
山本:本当に久しぶりだったので、なんかデビューの時より緊張してましたね(笑)。馬場も芝でよくわからないし、メンバー的に強いのか弱いのかもわからないし、言葉も微妙だし、周りのジョッキーもよくわからない人ばっかりだし...。
日本とはゲートインのシステムも違って、ゲート裏で輪乗りとかしないんですよ。パラパラ集まって来てすぐ入れちゃうんで、え?もう?って感じでした。ゲートが開いて少しの間、目の前しか見えてなかったですよ。かなり視野が狭かったです。
でも、やっぱりレースはいいですね。楽しいです。かなり馬群もタイトだし、追い込みも迫力があって、本当に勉強になりました。
赤見:これまでで、思い出深いレースはありますか?
山本:いっぱいありますね。たくさんいい馬に乗せてもらって来ましたから。その中でも、初めて重賞を勝てたのは嬉しかったです。
赤見:今年の11月5日『ゴールドウイング賞』。【ミサキティンバー】とのコンビで、最内をこじ開けての勝利でしたね!
山本:この馬にはデビュー前からずっと調教に乗せてもらってました。デビューから何戦かは馬が重なってしまって乗れなかったんですが、厩舎スタッフと一緒に一丸となって育てて来て、それで重賞を勝てたことが本当に嬉しかったです。
【ミサキティンバー】
それに...ここまで1つも勝ってなかったというのが悔しいです。これからまた海外に行きたいのに、名古屋で1つも勝ってないのは...茜にも意地がありますから。
赤見:海外遠征も経験して、重賞も勝って...常に前に進んでいる山本騎手。LJSでは、フル参戦した2回共に優勝という凄い成績を残してますね。
山本:LJSはみんなに会えるので、とても楽しみにしています。ただ今年は、ここまで自分らしさを出せていない気がするんです。逃げて無理に競られたら嫌だから、とか無難な乗り方をしてるんですよ。考え過ぎてるというか...。優勝させてもらった2回は、デビューして1年だったり、ニュージーランドから帰って来たばかりで、メンタル面が違うんですよね。
今は総合5位でポイント差も少ないですから、最終戦の荒尾ラウンドでは、茜らしく積極的に乗りたいです!!
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※インタビュー / 赤見千尋
父は通算3166勝、重賞50勝、14年連続兵庫リーディングジョッキーと輝かしい戦績を残し、"園田の帝王"と称された田中道夫現調教師。その息子として鳴り物入りで競馬界デビューした田中学騎手。デビューして14年の2007年には遂に、親子二代の兵庫リーディングの座を獲得します。そして今年の10月14日には、地方通算2000勝を達成。父同様ゴールデンジョッキーの仲間入りを果たすのです。
竹之上:残り8勝となって迎えたあの週は4日間開催で、1日2勝ずつ勝って決めたんやね。
田中:あの週は良い馬にたくさん乗せてもらってたので、決めないとあかんなぁと思ってました。でもプレッシャーはありませんでしたね。2000勝は今週できなくても来週でも達成できますから。
竹之上:そう言えば2000勝のインタビューのときに、いつも「先生」って読んでるのに、「父が...」って言ってたよね。
田中:えっ、そうでした?覚えてないですわ。もうずーっと先生って呼んでますからね、今でも。ただ、あのときは先生も勝って帰ってくるのを待っててくれたんです。いつもなら自分の(管理する)馬のレースが終わったらさっさと帰るのに。
田中道夫調教師もさすがに嬉しかったのでしょう。そのときは師弟ではなく、単に親子という気持ちだったのではと想像します。だから田中騎手の口から思わず「父」という言葉が無意識に出てしまったのではないでしょうか。
竹之上:騎手を目指そうと思ったのは、やっぱりお父さんの影響?
田中:厩舎に住んでましたから自然とそうなりましたね。だって、小学校2、3年のころから馬に乗ってましたもん。朝5時に起こされて、学校に行くまでの時間に朝の攻め馬前の運動をひとりでやらされてましたよ。中学校のころには、2歳馬の馴致なんかもしてましたもんね。
にわかに信じがたいことですが、恐ろしい英才教育です。そりゃ自然と騎手になるわけです。それでも、思わぬ障壁が彼を待ち受けていました。
竹之上:偉大すぎる父がいることで、競馬学校では周囲の風当たりは強かったと聞くけど。
田中:「バカ息子」とか、「親の七光り」とか言われたりしてね。とてもツラかったです。それでも、ぼく自身もチャランポランでしたしね。生まれたときから競馬界にいて、世間知らずだったんでしょうね。
そんな苦難を乗り越えて、1993年に騎手デビューを果たした田中騎手。1998年に精神面、技術面で大きく成長させられる一頭の馬と出会います。
田中:サンバコールという馬がいて、あまり脚元が強い馬ではなかったんですよ。それで、よその厩舎なんですけど常に気にかけていて、乗りたいとか勝ちたいとかを超えたような気持ちが初めて湧いてきたんです。そしてその後に『全日本アラブ優駿』に乗せてもらうことになるんです。
アラブのメッカ園田が誇る最大のレース『全日本アラブ優駿』は、全国のアラブ4歳馬(現3歳馬)の頂点を決める大一番。サンバコールと田中騎手は2番人気の支持を受け、得意のマクリで向正面からスパートするも、4着に敗れてしまいます。
田中:レースが終わって、次のサンバコールの調教のときに、そろそろ出てくるころだろうとウキウキして待ってたんですね。そしたら、目の前で平松さん(現調教師)が乗っていったんです。乗せ替えだったんですよ。
竹之上:調教師からは何の連絡もないままの乗せ替え、どんな思いだった?
田中:そら悔しかったですよ。そのときから、この人(平松騎手)だけには負けたくないという気持ちになりました。
田中騎手が初めて芽生えたライバル心。眠っていた彼の闘争心が呼び覚まされた瞬間だったのかも知れません。
田中:そこから周りの騎手たちとの比較をするようになり、数字にもこだわるようになりましたね。
こうして少しずつ形成されていく騎手としての心構えに次第に変化が見え始めます。
竹之上:でも、最近は数字にこだわらないって言うよね。
田中:そうですね。楽しく乗りたいんです。面白いレースがしたい。
竹之上:具体的にどういうこと?
田中:康誠(やすなり・現JRAの岩田康誠騎手)がいたころ、相手の動きを読みあってレースをして、それがハマったときが最高でした。「一緒に乗ってて面白い」って康誠に言われたことが嬉しかったですね。
このころから田中騎手は勝利にこだわるより、楽しくレースがしたいという思いが一層強まっていきます。ところが、そうなるとなぜかこだわっていないはずの勝ち鞍は増え続け、99勝にとどまった03年の翌年には、一気に200勝まで勝ち星を伸ばします。そして、07年には兵庫のリーディングジョッキーにまで登り詰めます。
田中:恵まれていたんです。太さん(現JRA小牧太騎手)や高太郎(現JRA赤木騎手)さんが抜け、康誠も抜けて。周りが支えてくれて良い馬に乗せてもらって、本当に恵まれてたんです。
ところが、好事魔多し。安定味を越え、円熟味すら醸し始めた田中騎手に災難が降りかかります。2008年9月2日第5レースで落馬。第1・第2腰椎脱臼骨折という重傷を負います。
田中:振り返ってみると、あのときは嫌々レースをしてたんかなぁって思いますね。それが怪我となって表れたんかなぁって。
手術、リハビリに時間を要し、レースコースに復帰するのは7ヶ月後の翌年の4月でした。それでも、この逆境も、良い転機だったと田中騎手は言います。
田中:入院で苦しんでいるときに親や家族の温かさに触れ、すごくありがたみを感じました。親と食卓を囲むことなんてあまりしなかったんですけど、このごろ進んで行くようになりましたね。呑みに行くときも、この時間と金があれば、家族に何かしてやれるなと思うようにもなりました。
それは騎乗スタイルにも表れ、勝利にこだわらないという考えもより強まり始めます。
田中:正直、そんなことを聞いて、こいつには乗せないって言って去っていた馬主さんもいます。でも、勝利にこだわらないってことは、勝負を諦めたってことではないんです。レースに乗ればがむしゃらに勝ちにも行きます。それが騎手としての務めですから。
ここで、田中騎手の真意を窺い知ることができる事例をご紹介します。11月30日園田競馬第12レース。4連勝中マイネルタイクーンと3連勝中のアスカノホウザンとが人気を二分しました。ともに前走までの連勝は田中騎手でのもの。重複した騎乗依頼で、田中騎手が騎乗を決断したのはアスカノホウザン。しかし結果はマイネルタイクーンが連勝を伸ばすことになるのです。
田中:(勝つことだけを考えれば)やっぱりマイネルタイクーンですよ。でも、厩舎との関係、これまでの流れから、アスカノホウザンに騎乗したんです。
そこには迷いなどない、揺るぎない信念を感じとることができます。
竹之上:いまリーディング争いで2位に10勝差でトップ(12月2日現在)に立っているけど、そこにもこだわらないの?
田中:実はね、腰の手術でプレートやボルトを埋め込んであって、その除去手術を11月に予定していたんです。でも、周りの人やファンの方たちに、絶対(リーディングを)獲ってくれよと言ってもらって、それに応えたいなと思ったので、手術を延期してチャレンジしようと思いました。医者からは、遅くなれば手術の痛みが大きくなるし、復帰も遅くなるよと脅されているんですけどね(笑)。
竹之上:楽しみながら獲れれば最高ってこと?
田中:そうですね、無理に勝てそうな馬を集めて獲りに行くって姿勢ではないですね。ただ、手術をすれば絶対に獲れないですから。
竹之上:最後に、田中騎手の思う一流の条件ってなに?
田中:一流の条件ってなんでしょう?
竹之上:逆質問!?
田中:なんでしょうねぇ、人が認めることですからねぇ。わからないですけど、ぼくが調教師の先生たちに言われることでひとつあるのが、お前は乗り馬が重なったときに、乗らない方の調教師に断るのが上手いよなって言われるんです。自分ではそうは思わないんですけどね。
竹之上:それはどうやって身に付けたの?
田中:いや、それは思ったことを素直に言ってるだけなんです。ただ、上位にいると融通が効くのは確かです。それでも、そこで天狗になったらすぐに鼻を折られるのがこの世界ですからね。
トップに立っても決して驕らず、素直な気持ちで相手と接することで、多くの信頼を得て、多くの勝ち鞍に結びつけていく。"勝利にこだわらない"わけは、それによって失うものの大きさを知っているから。そうして辿り着いた現在の境地。「親の七光り」だけで到底到達できないものであることは明白なのです。
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写真提供:斎藤寿一
※インタビュー / 竹之上次男