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馬券おやじは今日も行く(第4回)  古林英一

2005年7月 8日(金)

ばんえい競馬誕生の頃
~1949年(昭和24年)の資料より~

 小生は1958年生まれである。ちなみに、先日無罪判決が下ったマイケル・ジャクソンと同い年である。それがどうしたといわれると困るのだが……。今年は2005年。つまり今年8月で47歳に相成る次第である。かれこれ半世紀近く人間をやっていることになる。

 さて、地方競馬としてのばんえい競馬が誕生したのは小生の誕生をさかのぼること11年、1947年のことである。ということは再来年がばんえい誕生60周年。人間でいえば還暦ということになる。

 記録によると、1947年のばんえい競馬は旭川と岩見沢で各2日間開催されている。このときの主催は北海道馬匹組合連合会(馬連)という組織である。ただし、馬連主催のばんえい競馬はこの年1年限りであった。売得金額は298万円。当時の298万円というのが今ではどれくらいの価値になるのかわからないが、どうやら、主催者が思ったほどの収益ではなかったようで、翌1948年のばんえい競馬は休催となってしまった。

 この1948年は、馬連・馬匹組合がGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって戦時統制団体として解散させられたことをうけ、競馬法が改正された年である。馬連・馬匹組合に代わり、都道府県が地方競馬の主催者とされた。ついでにいうと、この年は公営競技元年ともいえる年で、8月には自転車競技法が成立し、11月には小倉競輪場で競輪が産声をあげている。

 北海道は必ずしもばんえい競馬の存続に前向きではなかったようだが、地元関係者の熱意におされ、北海道がばんえい競馬を主催することになり、1949年に道営のばんえい競馬が開催された。

 先日、道立図書館で『昭和二十四年度地方競馬成績』という資料を発見した。発行者は北海道経済部競馬課である。この資料によると、9月3・4日に旭川で、28・29の両日に帯広でばんえい競馬が開催され、売得金額は6,577,700円となっている。このとき発売された馬券は単勝と複勝だけで、平地競走で発売された連勝式は発売されていない。面白いことに単勝よりも複勝の方がはるかに売れており、売上高の76%が複勝馬券であった。

 同じ開催日数で、1947年の馬連主催が298万円、1949年の道主催が658万円であるから、一見すると道主催に代わって売上高が大きく伸びたようだが、実はそうではない。というのは、この時期の物価上昇率は現在では想像もつかないくらい高い。東京の小売物価指数を例にとると、1934~36年を1として、1947年は50.99、1949年は243.4である。2年間で5倍近い物価騰貴だ。だから、298万円が658万円となったとしても、額面通りに受け取ることはできない。とはいえ、この年は何とか黒字になったようで、これ以降、現在に至るまでばんえい競馬はとぎれることなく今日まで続いている。

 4日間の競馬開催に登録された競走馬数は269頭。登録された馬主数は206名。馬主1人あたりの頭数は1.3頭。騎手免許成績というページをみると、受験者数が257名で、合格者数も257名。つまり全員合格ということだ。合格者とはいうものの、試験らしい試験はなかったらしく、必要な書類を提出しただけで免許が交付されたらしい。

 隔世の感があるというのはまさにこのことだ。今日のような近代化されたばんえい競馬を想像しえた人がいただろうか。

やっぱり馬が好き(第4回)  旋丸 巴

2005年7月 1日(金)

ラブリー谷厩務員

 今回は、谷歩(たに・あゆみ)さんという女性のお話。この人、既に色々なメディアで取り上げられているから、ご存知の方も多いと思うけれど、ばんえい競馬の女性厩務員さん。

akabee  昨年、十勝馬事振興会が発行した「赤べえ」という絵本で、谷さんが絵を担当。私が文を担当したことが縁で親しくさせてもらうようになったのだけど、この本の制作の過程で、谷さんの絵を初めて見た時には、心底驚いた。冗談抜きで巧いのである。馬の絵に対しては相当評価が厳しい私が、そう言うのだから、本物。それで、すっかり彼女のファンとなった私だけれど、以降、厩舎を訪ねたり、メールをやり取りしたりするうちに、谷さんの人間性そのものにも惹かれるようになった。何たって、実直で明るい性格が素敵!

 帯広畜産大学を卒業し、浦河の谷川牧場で、かの三冠馬シンザンの世話をしたこともある、という経歴を持ちながら、一向、偉ぶったところがなくて、いや、それどころか、小柄な体で巨漢馬相手に真摯に働き、でありながら、いつも快活、お茶目なのだ。

 この原稿を記すために、メールで「今、担当してる馬、教えて」と問い合わせたら、「3歳、せん馬、カゲセンプー。昨年度は男だったんだけど、あんまり、ろくでないことばかりするので玉とられました」……だって。

 谷さん、女性としてどうよ、この発言。

 他の担当馬についてのコメントも面白いから引用すれば……。
「キョウワプリンセス 2歳牝馬。何でもおっかなびっくりの体ばかりでかい5月生まれのお嬢ちゃん。人一倍大きな目がとってもラブリーです」

 他にタカラガールという3歳牝馬の、計3頭を担当。プロ級の絵を描き続けながら、今日も愛馬3頭と共に、ばんえい競馬で戦っている谷さんは、キョウワプリンセスに負けず劣らずラブリーなんである。

馬券おやじは今日も行く(第3回)  古林英一

2005年6月24日(金)

昔の馬券

 先日、1962年から今日までばんえい競馬にたずさわってこられたKさんにお話をうかがう機会があった。ずいぶん多くの興味深いお話をうかがうことができたのだが、そのなかから、今回は「馬券」についてご紹介しよう。

 Kさんが主催者協議会という団体に就職された1967年当時は、すでに、今と同様、1日12レースが組まれていたという。発売業務担当の職員さんたちの仕事は、まず、予想紙を見ることからだったという。予想紙をみるのは、職員さんたちが馬券を買うためではないことはいうまでもない。「窓わり」という作業のためである。

 当時の馬券は買い目ごとに窓口が設置されていたのである。たとえば「3-6」という馬券を買いたければ「3-6」の窓口に並んで馬券を買うわけだ。買い目が3つなら、3つの窓口に並ぶ必要があるわけだ。したがって、客は、今のように、何十通りもの買い目を購入することはできない。とはいえ、いつでも1点勝負というわけにはいかないから、たいがいの客はいくつもの窓口を渡り歩いて馬券を買うことになる。限られた時間内でいくつもの窓口に並ぶわけだから、客もさぞ焦ったことだろう。それぞれの窓口で発売する買い目は一通りだから、「何を何枚」という必要はなく、「3枚」とか「5枚」といってお金を出すだけだ。だから、3-6を買うつもりで間違って2-6の窓口で馬券を買っても、間違って買ったことに気がつかないことも結構あったようだ。

 「窓わり」というのは買い目ごとに窓口を配分する作業のことだ。職員さんは予想紙をみて、人気しそうな買い目の窓口は多く、人気薄の窓口は少なくするのである。その頃はオッズなんぞというものはない。客の方も、窓口に並ぶ人の数をみて、オッズの見当をつけるのである。

 小生、この当時の配当計算はさぞ大変だったろうと思っていたのだが、Kさんによるとそんなに難しいことはなかったとのこと。当時、ばんえいの馬券は100円券だけで、100枚で1冊になった馬券綴りがあった。全部売れた馬券綴りの束がいくつあるかをカウントし、さらに馬券が残った束は100マイナス残った枚数で売れた枚数がわかる。それを全部合計すれば売得金額がわかるわけだ。だから、発売終了後、発走前までの数分間で売上の集計はできたという。後はレース終了後、所与の算式に基づいて配当金を割り出せばいい。

 もっとも電卓なんぞという重宝なものはまだなかったので、売上高の集計はすべてそろばんだ。そろばんはばんえい競馬職員の必須技能だったようで、Kさんより15年ほど後輩にあたるMさんも就職試験の際にそろばんがあったという。

 馬券は「ミシン」と呼ばれる穿孔機をつかって、券に買い目を記していた。ミシンは木箱に収納し、開催ごとに各場を持ち歩いたという。買い目の穿孔もコツがいり、1束(100枚)を一気に打ち抜くことはできず、いくつかにわけで穴をあけたようだ。失敗して、ミシンの針を折ってしまうということもしばしばあったという。

 Kさんの記憶によると、ミシンは15台くらいあったとのことだが、実はこのミシン、今も北見競馬場の倉庫(?)に残されているのである。小生、昨秋、試しに使ってみたところ、ちゃんと穿孔することができた。

 この頃を思えば、今の馬券はほんとに便利だ。便利だからといって的中率が上がるわけでもないのだが……。

やっぱり馬が好き(第3回)  旋丸 巴

2005年6月16日(木)

ばんえい最高峰・三井牧場

 ばんえい競馬では生産者ランキングが公表されていなくて、だから、存外知られていないのが、三井牧場の偉大さ、である。

 熱心なファン諸氏ならご承知の通り、ばんえい記念3連覇を果たし、今や史上最強馬の1頭となったスーパーペガサスは、この牧場の生産馬。のみならず、スーパーペガサスと並んで「現役3強」と言われるミサキスーパーもアンローズも、三井牧場生産馬なのである。もちろん、アンローズの兄にして97年の3冠馬ウンカイも同様。

 かくの如く毎年確実に活躍馬を出し、優良農用馬生産者賞を受賞されている三井牧場は、だから、規模こそ違うけれど、まさに「ばんえい界の社台ファーム」とも言うべき大牧場なのである。

 さて、そんな三井牧場に、しかし、私は今まで行ったことがなくて、だって、そんな偉大な牧場、とても恐れ多かったんだもーん。

 それでも、先日、ようやく意を決して、この大牧場を訪問してみると……。

 こんな凄い牧場だから、きっと怖い方が経営されているのだろう、という予想に反して、登場した牧場主の三井宏悦さんは40歳を過ぎたばかりの若さで、しかも、とっても気さくな方。20頭もの繁殖牝馬が出産、種付けを迎えている超多忙の時期だというのに、親切に牧場を案内して下さったのだから、感謝感激。

miharu  中でも、嬉しかったのは名牝ミハル(写真)との対面。前述ウンカイとアンローズを生んだ偉大な母ミハルだけれど、美形アンローズに似た優しい面差しを見た時には狂喜してしまった。

 今年は残念ながら産駒のいないミハルだが、既にタツリキを種付けしたとのこと。来春には、また、この牧場の輝かしい歴史の1ページを飾る馬が誕生するのだと思うと、今から胸高鳴なる気の早い私なのでした。

馬券おやじは今日も行く(第2回)  古林英一

2005年5月27日(金)

神様・中西関松の時代

 小生の今年最大のテーマは「ばんえい」である。ばんえいのすべてを知りたいというのが小生の今年最大の課題なんである。ということで、今回はちょいと趣向を変えて、ばんえい競馬の古きをちょいとたずねてみることにしよう。毎度毎度、当たった、はずれたばかりではしょうがないけんね。

 今からほぼ半世紀ほど前まで、馬は日本中いたるところにいた。農村だけではない、街のなか、山林、炭鉱、港湾、それこそいたるところでたくさんの馬が働いていた。馬とともに働く男たちは自らの馬を競い合った。ヨーロッパの貴族たちは自らの馬の速さを競い合った。これが近代競馬につながるわけだが、わが日本の馬遣いの男たちは力を競い合った。わが馬の力を誇り、自分の技量を誇る男たちは、それこそ日本中どこにでもいたであろう。そうした男たちが己の馬の力と己の技量を競い合ったのが「ばんば競走」であり「馬力大会」だった。

 1946年の地方競馬法に基づき、ばんば競走・馬力大会は馬券発売を伴う公営競技として実施されることになった。青森県と北海道でばんえい競馬が開催されたという記録はみられるが、青森では数年で姿を消し、その実態はほとんどわからない。

sekimatsu  力自慢の馬と腕自慢の男たちが続々と競馬場に集まる。当時の限られた開催日数ではそれで飯を食うプロはありえない。普段は、馬とともに、山林で、畑で、道で、港湾で働いている男たちが自慢の馬を連れて競馬場に集まる。そうした男たちの頂点に君臨したのが神様といわれた中西関松(写真中)であった。

 1919年新十津川の農村に生まれた中西関松は何よりも馬が好きだった。馬が好きであったのと同時に、類まれな負けん気の持ち主でもあった。公営競技・ばんえい競馬の草創期、中西はまさに神様であったという。残念なことに1963年以前の記録は散逸し、神様・中西がいったい何勝あげたのかを知ることは容易ではない。残っている記録だけをみても、1966年には425戦114勝という記録が残されている。

 当時は冬季は休催、中西は山仕事にいっていた。過酷な山仕事のなかで馬たちは鍛えられた。山で鍛え抜かれた馬を懸命に追い、中西は驚異的な勝ち星をあげていったのである。

 中西の騎乗は体をめいっぱい使って追いまくるというものであったという。1960年代終わりころからさすがの中西も勝鞍が減っていく。そのころから急速に台頭してきた若者がいた。中西の愛弟子・金山明彦であった。1977年を最後に中西は調教師専業となっているが、これは同時にばんえい競馬の「前近代」の終焉でもあった。

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