11月15日現在、名古屋リーディング2位に付けている大畑雅章騎手。1位の岡部誠騎手は韓国遠征中であり、5位の安部幸夫騎手までが少差でリーディング争いを繰り広げています。新たな名古屋の顔として頭角を現してきた大畑騎手に、現在のお気持ちを語っていただきました。
大畑騎手といえばピッチシフターの印象が強いですが、10月に急きょ引退となってしまいましたね。
やっぱり寂しいですよね。あの馬とは一昨年からコンビを組ませてもらって、地元だけじゃなく全国に連れて行ってくれましたから。ダートグレードでも勝負できる馬に出会えるなんて、騎手としてなかなかないことですし、本当にいい経験をさせてもらいました。
一番印象に残っているレースは?
いろいろありますけど、去年の佐賀ですね(2014年サマーチャンピオン・2着)。すごく状態が良かったし、最高の走りをしてくれました。勝てなかったのは残念ですけど、牡馬のJRA勢相手に2着に来たんですから立派な成績です。ただ......、あそこで頑張りすぎちゃったのか、その後はなかなか体調が戻らなくて。あのレースがピークだったんだと思います。
昨年のサマーチャンピオンは惜しくも2着(右から2頭目)
ピッチシフターはどんな馬でしたか?
まさにお嬢様って感じでした(笑)。もうね、こちらの言うことなんか全然聞く気ないんですよ。攻め馬の時から本当に大変で、わがまま女子でした(笑)。でもそのぶんコミュニケーションの取り方も勉強になりましたし、全国いろいろな競馬場に行って勝負できたことはかけがえのない財産です。
やっぱり他地区に遠征に行くことは大きいですよね。
大きいレースになればなるほど上手なジョッキーばかりになりますし、少しでもミスをすれば致命傷になってしまう。それに地方同士だとかなり人気になりますから、そういうプレッシャーの中で戦えたこともいい経験になりました。
現在は生まれ故郷に帰ってお母さんになる準備をしているそうですね。
長い間頑張ってくれて、本当にありがとうございましたという気持ちです。無事に元気な仔を産んで欲しいですね。欲を言えば......、子供に乗せてもらえたら幸せです。
大畑騎手は現在名古屋2位に付けていますけれども、リーディングは意識していますか?
僕よりも周りが意識してますね。1位の岡部誠騎手とほとんど差がなくなって来て、その岡部さんは韓国に遠征中ですから。さすがに「今年はリーディングを!」という空気になってきました。今年はこのまま順調に行けば、今までで一番勝ち鞍を挙げられそうなんですけど、でもそれだって岡部さんがいないからですから。僕自身のことではないんですよ。
岡部騎手は2カ月間の南関東期間限定騎乗と、11月からの韓国遠征とで地元を長く空けていますけれども、存在の大きさは感じますか?
感じますね。僕なんてまだまだ足元にも及びませんよ。南関東から戻って来て、韓国に行くまでの間は神懸かってましたから。これまでも別格で上手かったですけど、より磨きがかかりました。一緒に乗っていると圧倒される時があります。
どんなところに圧倒されるんですか?
具体的に言うのは難しいですけど、まさに天才ですよ。吉田稔さんと岡部さんは天才です。まだまだ追いつける存在ではないですね。でも僕は運が良くて、その2人に可愛がってもらって、いろいろなことを教えていただきました。少しずつでも追いつきたいと思ってます。
どんなことを教わったんですか?
吉田稔さんに言われたのは、「どんなに人間が入れ込んだところで、走るのは馬なんだ」ってことです。人気馬に乗ったり、大きなレースになると人間が先に入れ込んでしまうけど、それはまったく意味がないんだって。まぁ、メンタル的なことなので、なかなか実行するのは難しいですけど、ピッチシフターや、これまで出会ったたくさんの馬たちに経験を積ませてもらったお蔭で、稔さんの言っていたことを少しは実行できるようになったかなと思います。
確かに、レース前後でもあんまり緊張している感じを見かけないです。
そうですね。昔は緊張したこともありましたけど、今は硬くなったりすることはほとんどないです。僕ね、あんまり固定観念を持たないようにしているんですよ。もちろん、騎乗馬や相手馬のことは研究しますけど、でもゲートを出たら何が起こるかわからないですから、臨機応変に対応できるようにと思ってます。こうしなきゃいけない!という気持ちがあると、どうしても緊張して体が硬くなってしまうんですけど、固定観念を持たないようにするといい意味でリラックスできるんです。
デビューから15年、早い段階からかなり勝ち星を挙げていますね。
最初はなかなか上手く行かなかったんですけど、3年目で錦見勇夫先生が拾ってくれたんです。そこからいい馬をどんどん乗せてくれて、育ててくれました。錦見先生がいなかったらとっくの昔に騎手を辞めていたと思うし、本当に恩人ですね。先日、先生が2000勝を達成(11月2日名古屋第2レース・スキャットソング)したんですけど、少しは恩返しできたかなと思って嬉しかったです。僕が騎乗したわけじゃなくて、妹弟子の木之前(葵騎手)が乗っていたんですけどね。
先日、木之前騎手にお話を伺った時、「兄弟子にいろいろ教えてもらってます」と言っていました。
周りからは「もっとちゃんと教えろ」って言われているんですけど(苦笑)。木之前も一生懸命頑張っているので、少しでも役に立てればと思います。自分が先輩たちに教えていただいたことを今は後輩に伝えていく立場になったのかなと。まだまだ僕自身も勉強ですけどね。
では、今後の目標を教えて下さい。
今は自厩舎のノゾミダイヤが頑張ってくれて、東海ナンバー1と言えるような位置にいます。これからどういうローテーションを進むかはわかりませんが、これからも東海の看板を背負えるような立場に居続けたいと思ってます。それから、リーディング争いは4人(3位今井貴大騎手、4位丸野勝虎騎手、5位安部幸夫騎手)が差なく競っていて、年末に向けてさらに熾烈な戦いになると思います。岡部さんがいない間、自分たちが盛り上げなければいけないと思っていますし、ファンのみなさんに1つ1つのレースで熱い戦いをお見せできるよう頑張ります!
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※インタビュー / 赤見千尋
今年デビュー18年目を迎えた佐賀の倉富隆一郎騎手。山口勲騎手、鮫島克也騎手という二大看板に続く佐賀ナンバー3として、長年活躍を続けています。昨年はケガによる長期休養もありましたが、完全復活を果たした今、今後への意気込みをお聞きしました。
昨年は大きなケガがあり、久しぶりにトップ3から陥落してしまいました。ご自身ではどんなお気持ちでしたか?
デビューしてから初めての大ケガで、初めての挫折でしたね。足の甲の骨折で場所が悪かったので、リハビリを始めるのにも相当時間がかかってしまって......。結局、丸4か月騎乗ができませんでした。最初はすごく落ち込んだし、不安でしょうがなかったんですけど。でも今になってみれば、いい経験ができたんだなと思っています。
ケガで休養したことが、いい経験になったと?
そうですね。デビューして17年経って、3位というのがある意味定位置になっていたんです。山口さんと鮫島さんは本当に偉大な先輩で、いつの間にか「超えてやろう!」という闘志が薄れていました。でもケガをして長く休んだことで、馬に乗りたいという気持ちが改めて沸いてきて。自分はリーディングを獲りたいんだということを強く思うようになりました。
やっぱり、山口騎手と鮫島騎手というのは偉大な存在ですよね。
本当に偉大ですよ。山口さんは完璧なんです。リーディングになってからも、なる前とまったく変わらず努力を続けていて。誰よりも早く起きて、誰よりも遅くまで攻め馬してるんですから。それに、どんなにクセのある馬でも、ゲートが悪い馬でも絶対に無理だって言わないんです。普通1位になったら攻め馬の頭数を少なくしたり、馬も選んで乗っていくようになるじゃないですか。でも山口さんは変わらない。付け入るスキがないんです。鮫島さんはもうすぐ53歳ですし、今は頭数を減らして選んで乗っているんです。それでも抜けないんですから、本当にすごい人ですよ。でも、鮫島さんが乗っているうちに抜かなきゃいけないと思っています。そうじゃないとファンの方もつまらないだろうし、鮫島さんを抜けるとしたら3位の僕ですから。
倉富騎手は中学時代に全国で第4位に入るほどの乗馬の腕前をお持ちですが、どういう経緯で騎手になったんですか?
もともと佐賀競馬場の近くに住んでいたんですけど、10歳くらいの時に近所の乗馬クラブに行き始めたんです。乗馬クラブっていうと高級なイメージがありますけど、そこは佐賀の馬主さん(ワンパクメロなどのオーナーである、野上ヤチ子さん)が子供たちのために安くやっているところで、学校が終わってから毎日通っていました。それで、僕はあんまり頭が良くないから(笑)、「馬術で大学まで行けるように」という感じで教えてもらっていたんです。それで馬術推薦で高校に入ったんですけど、結局勉強についていけなくなって、学校に行かなくなって......。家にも帰りたくなくて、ちょっとグレてしまったんです。その時に、「このままじゃダメだから」って、半分無理やり佐賀競馬に連れてこられて、川田孝好先生のところに下乗りとして入ったんです。だから、その乗馬クラブが僕の原点だし、本当に感謝しています。
川田厩舎といえば、現在JRAで活躍中の川田将雅騎手のお父さんの厩舎ですよね。
そうです。将雅も同じ乗馬クラブに来ていたので、子供の頃から知っています。今でも隆一兄ちゃんて呼んでくれて、連絡を取り合っていますよ。将雅はものすごく頑張ってますから、いつも刺激をもらっています。あの時連れていかれたのが川田厩舎じゃなかったら今の僕はいないし、ジョッキーにもなってなかったと思います。川田家の方々にも本当に感謝ですね。
というと、騎手になるのもご苦労があったんですか?
下乗りで入った時点で55キロありましたから、教養センターの試験を受けるためには12キロ痩せなきゃいけなかったんです。育ち盛りの高校生で12キロ痩せるっていうのは、自分ひとりの力ではかなり難しいですからね。川田先生の奥さんが毎日食事を用意してくれて、毎日体重を計ってチェックしてくれたんです。みんなが見守ってくれたお蔭で、騎手になることができました。
川田将雅騎手の存在もそうですが、教養センター時代の同期には、戸崎圭太騎手や森泰斗騎手もいます。この2人の存在も刺激になるんじゃないですか?
そうですね。圭太はセンター時代から人に嫌われなくて、みんなの人気者でした。腕はもちろんですけど、人間力がすごいのであそこまでの活躍も納得です。泰斗はセンター時代は尖っているところもあったし、実力はあるのになかなか結果が出せない時期もありましたよね。でも今は全国リーディング独走中ですから、アイツもすごいなと思います。将雅もそうですけど、一緒にがんばってきた仲間がどんどん結果を出して遠くに行ってしまうので、僕も置いて行かれないようにがんばります!
では、今後の目標を教えて下さい。
まずは鮫島さんを抜いてリーディング2位になることです。そうしたら、「リーディングを獲ることが目標です!」と言えるようになるので。簡単なことではないですが、目の前のレース1つ1つで結果を出して、積み上げていきたいです。もうひとつは、もう一度ダートグレードを獲ることです。ヴァンクルタテヤマ(2008年サマーチャンピオン)に乗せてもらえたのは本当にラッキーで、山口さんと鮫島さんが他の馬に乗っていたので僕だったんです。あの時はものすごく緊張しましたけど、宝物になる経験をさせてもらいました。もう一度ダートグレードを勝って、もっと佐賀競馬を盛り上げたいです!
2008年サマーチャンピオンをJRAのヴァンクルタテヤマで勝利
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※インタビュー / 赤見千尋
9月12日第11レースをコサカコブラ(牡8)で制し、通算2000勝を達成した尾ヶ瀬馨騎手(50)です。
通算2000勝おめでとうございます。表彰式のインタビューでは、「区切り」とおっしゃられていましたね。
2000という数字は競馬では一区切りになる。これを目標にしていた。
思い出に残る馬は。
やっぱりフクイズミ(2009、2010帯広記念など重賞12勝)だな。障害が難しかったから苦労した。ちょっと気を損なうと、障害を登らなくなるからものすごく気を遣った。ファンも多いしな。その分、勝つと嬉しかったんだ。レースだと2連覇した帯広記念。3連覇はできなかったけれど......。牝馬でBG1を勝つ馬っていうのはなかなかいないぞ。
フクイズミのパドック
ばんえい記念にも何度か騎乗されました。
2着、3着はあるがなかなか勝てなくてな。ダイニハクリュウ(2008年、タイムオーバーで失格)は、よく完走してくれた、たいした馬だ。どんなに強い馬でも、ばんえい記念では第2障害を越えられなくてソリを外すことがある。よく山を越えたよ。ゴールは難しいかな、と思ったけれど、最後までファンが応援してくれたから、頑張らなきゃ、って思ったよ。ばんえい記念は特別なレースだ。
今年はインフィニティー(牡9)で挑戦でしょうか。
そうだね。2000勝の次の目標はこの馬でばんえい記念だな。登坂力は競馬場の中で1番だと思う。障害を降りてからは、ほかの馬に切れ味で負けることはあるけれど、障害はうまいよ。弟のトレジャーハンター(牡8)にも乗ることがあるけれど、性格いいところが似ている。素直で反応がいい。2頭とも障害がうまいしな。
インフィニティーで2015年の北斗賞3着
2000勝の表彰式でも言われていましたが、怪我が少ないですね。
「生き物だから、何があるかわからない」って、調教師(父の尾ケ瀬富雄調教師)によく言われていたんだ。気を抜かないようにはしているね。
20歳で競馬場入り、27歳で騎手デビュー。初年度(1992年)は日本プロスポーツ大賞新人賞を受賞していますが、意外と遅いスタートです。
札幌の自宅には厩舎があって、開催がない冬には馬がやってきた。だから子どもの時から馬好きだった。親父はそりに乗ってセブンイレブン行ったりしていたんだぞ(笑)。父は跡を継いでほしかったみたいだけど、単身赴任が多いからってまわりに反対されていたんだ。高校卒業後社会人になったけど、やっぱり騎手になりたくて、20歳過ぎて競馬場に来た。最初のころは、もっと早くやっておけばよかった、って思ったよ。でも追い上げたいと自分なりに努力した。負けたらどこが悪いかビデオを見るなど研究した。ほかの厩舎をまわっていたら、たまにチャンスは来るんだ。それを絶対外さないようにする。そうすれば、この馬とはお前が合う、と乗せてくれることがあるから。それと、昔は中継がなかったから、馬主はみんな競馬場に来たんだ。その時挨拶してな。年間100勝を目標にやってきたよ。
その積み重ねなんですね。ではファンに一言。帯広の楽しみ方は何かありますか。
まずは温泉、やっぱり十勝川(温泉)だな。俺は温泉とゴルフが趣味なんだ。芽登温泉(足寄)やかんの温泉(鹿追)など、十勝管内は遠くの温泉も全て行った。 十勝は平均して食べ物おいしいよな。北の屋台には俺のファンが多いんだ。十勝産のものを多く出しているから、北の屋台や十勝乃長屋はお薦めだよ。これから冬にかけて大きなレースも増えてくる。レースはもちろんだけど、観光も楽しんでいってほしいな。
2011年ヒロインズカップを制したフクイズミ
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※インタビュー・写真 / 小久保友香
福山のトップジョッキーとして君臨していた佐原秀泰騎手は、福山廃止後に南関東、高知と移籍してなかなか結果が出せずにいました。しかし、今年は91勝(10/25現在)を挙げて高知リーディング第3位につける活躍を見せています。これまでのこと、そして現在の心境をお聞きしました。
今年はここまで(10/25現在)91勝を挙げ、昨年の48勝を大きく上回っています。何かきっかけがあったんですか?
きっかけというか、嬉(勝則)騎手が別の厩舎に移籍して、乗り馬が増えたということもありますし、あと乗り方のイメージを変えたというのもありますね。去年1年は福山での乗り方を意識して、イケイケのレースをすることが多かったんです。でもそれでは思うように結果を出すことが出来なかったので、今は高知に合ったスタイルで乗ることを心掛けています。
具体的にはどんなことですか?
福山の場合は、内枠でも外枠でもとにかく先手にこだわることが重要でした。多少無理をしてでも前でいい位置を取ることがポイントだったんです。でも高知は、前半で少しでも無理をしてしまうと最後に止まってしまう。先手にこだわるよりも、いかに道中楽に運べるかなんです。僕は福山時代に上位にいさせてもらっていたので、そのやり方を貫きたいという気持ちが強くて......。福山のやり方を高知でも通用させたいと思って1年やってきたんですけど、結局結果を出すことはできませんでした。でもよく考えたら、高知に合わせた騎乗をすることは、福山時代の騎乗を捨てることにはならないんですよね。今は福山で培った経験をベースに、高知に合わせてプラスαの技術を身に付けたいという意識でやってます。
福山ではどんな技術を学びましたか?
高知に比べても超小回りでしたから、コーナーできっちりと進路を選択する技術は持っているつもりです。それは今もすごく活きていて、高知は内を大きく開けるのがセオリーですけど、僕はけっこう内を突いて差し切ることも多いです。あとは、若馬を育てる技術ですね。福山の頃からずっと所属している那俄性哲也先生は、昔から若馬にこだわる方だったので、毎年毎年いい2歳が入って来て、そこから育てて行くということを教えてもらいました。その中でも、クーヨシンとカイロスに出会えたことは本当に大きかったです。
福山の女神と呼ばれたクーヨシンは、2歳3歳時に重賞を勝ちまくり、佐原騎手と共に全国区の馬になりましたね。
あの仔が僕のすべてを変えてくれました。クーヨシンに出会うちょっと前は、那俄性厩舎も馬が少なくなってしまって、僕も乗り馬が少なくなっていて。先生も辞めるか悩んでいる時期で、先生が辞めるなら僕もやめようかななんて思っていました。でもクーヨシンに出会って、最初は強くなかったのにどんどん成長してくれて、僕を導いてくれました。レースの見方も変わったし、競馬っていうのは、馬っていうのは、という根本の部分も教えてもらいました。今振り返ると、それまではあんまり深く考えていなかったんです。人気がある馬に乗ったら勝てるかなとか、単純にしか考えてなかった。それが、1頭1頭の馬ときちんと向き合って、深く考えるようになったんです。
そしてその直後に出会ったのが、福山の怪物と呼ばれるカイロスですね。
カイロスに乗った時には、勝ちたいという気持ちよりも、負け方がわからないという感じでした。大昔に那俄性先生に「勝つのは難しいか? でも、本当に強い馬に乗ったら、勝つことは難しくないんだ。負ける方が難しいんだぞ」って言われて。その時はまったく理解できなくて、さすがローゼンホーマ(福山史上最高の名馬と呼ばれた馬)に乗ってた人だなくらいに思っていたんですけど、カイロスに出会って那俄性先生の言ってたことがわかりました。
カイロス(2013年2月2日、福山・若駒賞、写真:福山市)
カイロスとはさまざまな思い出があると思いますが、福山廃止後に共に南関東に移籍したあとは、乗り替わりという悔しい経験もありました。
そうですね。今は離れているのでそこまで思わないですけど、自分も南関東にいる頃に別の人間が乗るというのはかなり悔しかったです。勝負の世界なので仕方ないことですけど、高本先生(福山時代のカイロスの調教師)と厩務員さんと僕とで育てて来たという自負があったので、その部分を見てもらえないのは悔しいです。それが南関東の厳しさなんですけど。
福山→川崎を経て、再びデビューの地・高知に戻って来たわけですが、そもそもなぜ高知から福山に移籍したんですか?
デビューから3年は高知にいたんですけど、デビューしてすぐに廃止になるかもというくらい追い込まれていました。当時は1000勝以上の騎手が何人もいて、もし廃止になったら僕は行き場がないなと不安に思っていて。そんな時、福山の那俄性先生が騎手を探しているという話があって、別府(真司)先生から「誰か福山に行かないか?」って言われて。その時は悩まずにすぐに動きました。福山なら近いし、いいかなという感じで、かなり甘い考えでしたね。今思うと、よく行けたなと思います(笑)。今なら移籍の大変さもわかるから、絶対動けないですけど。結果的には福山が廃止ということになってしまいましたけど、福山に行かなければ今の僕はなかったし、もしかしたら騎手を辞めていたかもしれません。だから、あの時思い切って動いたことは良かったと思ってます。
ジュメーリイで黒潮皐月賞制覇(写真:高知県競馬組合)
現在は永森騎手、赤岡騎手に次ぐリーディング第3位につけていますし、ジュメーリイで黒潮皐月賞を制し、高知初重賞制覇も成し遂げました。
リーディングに関してはまだ途中なので何とも言えないですけど、この勢いが来年再来年と続いて行けるようにしたいです。黒潮皐月賞を勝てたことは、本当に嬉しかったですね。最後は倉兼騎手との叩き合いになって、かなり内に押し込めてしまったので、レース直後に怒られてしまって......。本当はガッツポーズをしたかったんですけど、火に油を注ぐことになってしまうので大人しく帰って来ました(苦笑)。次は快勝してガッツポーズをしたいです!
では、ファンのみなさんにメッセージをお願いします。
人よりもウロウロしましたけど、今度こそ高知に根を下ろすことが出来たので、これからは恩返しをしていきたいです。そのためには腕を磨いて面白いレースをすることだと思っているので、今まで以上にがんばります。あと今年から高知の2歳戦が復活して、世代ナンバー1になれそうなディアマルコに騎乗させてもらっているので、高知生え抜きの代表馬になれるように育てていきます! 応援よろしくお願いします。
2歳の期待馬ディアマルコ
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インタビュー / 赤見千尋