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やっぱり馬が好き(第47回) 旋丸 巴

2008年3月13日(木)

ナリタボブサップと私の関係は…

 ばんえい廃止の崖っぷちにあった一昨年末。帯広中心街で行われた「存続署名」の様子を取材に行った私に、一人の青年が近寄って来て曰く

 「ばんえいが廃止になったら、旋丸さんの協賛レースで優勝したナリタボブサップも肉になっちゃいますよ」

 そ、それは分かってるけど……この若者は誰? と、硬直することしばし。だって、私の顔のみならず、私の協賛レースと、その勝ち馬まで知っているとは、マニアにしても凄過ぎるし。という、この青年の正体については、一旦、置くとして……。

 「私の協賛レース」と記したのは、平成17年2月20日、同年ばんえい記念当日の第7競走で行われた3歳オープン特別のこと。偉そうに拙名を冠した協賛レースだけれど、このレース、我が大恩人であるJRA調教師=小檜山師と当情報局の斎藤編集長が、馬事文化賞受賞を祝ってプレゼントしてくれたもの。

 という訳で、私にとっては生涯の思い出となったレースだけれども、しかし、である。しかし、一般の人にとって、このレースが特に印象深かったとも思えないし、優勝馬ナリタボブサップだって、この署名の日の時点では、未だ800万円未満クラスの馬。

 だから見知らぬ青年に、その時の話をされた私は、寒風吹きすさぶ署名場所で呆然してしまったのである。

 って、随分、前置きが長くなっちゃったけど、実を言うと、私に声をかけたこれなる青年は、ナリタボブサップ生産牧場の御曹司さん。

 「なーんだ、それなら、私や私の協賛レースを知っていても不思議はないわね」と得心したのだが、この衝撃的な出会いを経て、私は御曹司さんと腐れ縁が出来……いえいえ、仲良しになった訳で、のみならず、以降、この方には様々な場面で助けられることばかり。「今じゃ、すっかり仲間なのさ」と、私が勝手に言いふらすまでになったのである。

 というような次第であるから、ナリタボブサップについても、何だか、とっても親近感を感じるようになったのは当然の成行き。

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ナリタボブサップ

 御曹司さん、ナリタボブサップが走る日は決って「今日はダメでしょ」と、のたまうのだけれど、そういうホラには騙されず、せっせとこの馬の馬券を買い、応援した。その私の盛大なる応援の甲斐あって、ナリタボブサップは今年度11月には北見記念を制し、めでたく重賞初制覇。その後、オープン2戦を挟んで、1月2月には帯広記念も制覇し、押しも押されぬ一流馬に成長したのは、ご案内の通り。繰り返すけど、これ全て私の大々的応援が後押ししたものであって(これ以上書くと、友達と読者を失うから、以下省略)。

     *     *     *

 以上のような経緯によって、ナリタボブサップ応援団員となった私。だから、ボブ・グッズも作りましたよ~。

 まずは、御馴染みのマグカップ。既に販売しているフクイズミやアンローズと、お揃いの大振りのマグカップ。1200kgもの巨体をイメージして「漆黒の重戦車」って文字も入れました。コピー・センスに恵まれない私としては、上出来のコピーだと自画自賛してるんだけど、読者の皆様、いかがでしょーか?

 もうひとつ、ナリタボブサップTシャツってのも作りましたぜ、へっへっへっ。こちらは、もっと恰好良く「Big weight Make Big success NARITABOBSAPP」とのコピー入り。英検マイナス10級を自負する私だから、勿論、こんな洒落たコピーが考え付くはずもなく、友人・知人から募集して決めたんだけど、どーです、なかなか恰好良いでしょーが。

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 と、ナリタボブサップを応援していたら、いつの間にやら、今年度もあと僅か。いよいよ、ばんえい競馬最大の祭典「ばんえい記念」が近づいてきた。

 勿論、ナリタボブサップも出走してくれるはずで、だから、今年のばんえい記念、その馬券購入は迷わないのである。ナリタボブサップから、愛しのアンローズへ1点!

 うーん、だけど、さすがにこれだけでは馬券的妙味に欠けるから、馬場が重くなって有利になった力馬シンエイキンカイも絡めて……あ、いや、待てよ、重馬場で1トンをひくなら前年覇者のトモエパワーを丸無視する訳には行かないよね。トモエをチョイスするなら同厩のカネサブラックも視野に入れないといけないし、タケタカラニシキだって、ひょっとしてひょっとするかも……なんて、え~ん、結局、今年も迷いまくりのばんえい記念だよ~ん。

 と、混迷を極める私の思考は、この際、置き去りにして、最後に珍しい写真を掲げておきましょうね。

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 この馬、誰だか……分かるわけないよね。この馬の名前は華旭(かきょく)。そう、ナリタボブサップの父馬なんである。御曹司さんが撮影したものを許可を得て掲載させてもらったのだけれど、黒い馬体といい、キツネ色の鼻先といい、ナリタボブサップそっくり、でしょ? こんな珍しい写真を見ることが出来たラッキーなあなた! この幸運で、ばんえい記念も的中間違いなし……かもね。

馬券おやじは今日も行く(第45回) 古林英一

2008年2月21日(木)

祝!アンローズ

 アンローズがついに帯広で初勝利をあげました。伝え聞くところでは、今年度限りで引退し、近々引退式も予定されているとのこと。引退直前になってやっと帯広で勝ちました。

 アンローズがなぜ帯広で勝てないのか? もしかすると冬場が苦手なのかという説もありました。アンローズは現在までに通算32勝をあげていますが、このうち18勝が夏から秋にかけての岩見沢開催でした。2007年度から帯広で周年開催となったので、これで帯広でも勝てるんじゃないかと思われましたが、あえなく8歳時は未勝利に終わってしまいました。どうも、冬場苦手説よりも、帯広の第2障害が苦手というコース適性説の方が正しかったようです。

 アンローズといえば美形で有名な馬でもありました。馬でも人でもオッサンは美人が好きなので、当然のことながら小生も大好きでありました。小生、岩見沢競馬場に行く機会が多かったせいもあって、アンローズの晴れ姿を何度か目の前で見たのですが、一番の思い出といえば、2002年8月4日のクインカップでしょうか。

 このレース、小生は当時NHK北海道の看板番組「ほくほくテレビ」を担当していた目加田頼子アナウンサーとご一緒したのであります。このとき口取りに彼女も参加しました。アンローズと同様、目加田さんも大柄な美人です。華やかな美人同士で、なかなかいい組み合わせでありました。このときの写真をアップしようかと思ったのですが、もしかするとNHKは肖像権云々とかいいそうなので残念ながら断念します(^^;)

 せっかくなので、ここでアンローズの足跡を記しておくことにいたしましょう。

 生産者は数々の名馬を生み出した帯広の三井宏悦氏で、馬主も三井氏。2001年5月27日旭川競馬場の新馬戦でデビューしますがこのときは4着におわります。デビュー時の体重は882kgですから、小さくはないですが、特に大きかったわけでもないですね。旭川開催は2戦して4着、10着、続く北見開催で5着、3着のあと、7月16日の5戦目で待望の初勝利をあげました。そして岩見沢でおこなわれた白菊賞と星雲賞を勝ちました。その後、旭川、北見、帯広と転戦しますが、年を越えて2月17日のフリージア特別でシンザンタイガーの3着が最高でした。

 2002年度は、上述のクインカップ、オークス、ダービーを勝ち、菊花賞も2着と大活躍し、26戦10勝の素晴らしい成績で、収得賞金は12,122,000円にもなりました。

 古馬の壁に阻まれたということでしょうが、翌2003年度は24戦したものの、4歳限定戦で2勝、3・4歳限定戦で1勝の計3勝をあげるにとどまります。

 5歳になった2004年度は、岩見沢記念でスーパーペガサスを降して優勝、北見記念も勝ち、まさに女王誕生の年となりました。この頃になると、馬体重も1,100kg程度になり、ビッグウエイトカップにも出場しています。翌2005年度にはサダエリコを降し岩見沢記念を連覇し、ばんえい記念にも出走しましたが、残念ながら競走中止となってしまいました。

 7歳となった2006年度はまさに夏の女王の面目躍如といった年となりました。6月25日の復帰初戦を勝利で飾ると、岩見沢では7戦5勝2着1回という圧倒的な強さを見せ、ばんえいグランプリと、岩見沢記念3連覇を達成します。続く北見開催は3戦2勝。トモエパワーを降し北見記念を勝ちます。ばんえい記念にも出走しますが9頭立ての8着と惨敗してしまいました。

 そして8歳となった2007年度からは帯広での周年開催。ばんえい記念後休養にはいり、7月22日の北斗賞で復帰しますが4着。その後12月16日の師走特別でホクトキングの2着となり、帯広では2003年12月のヒロインズカップ以来久々の連対を果たしました。このときは勝馬とのタイム差はわずか1秒3。あわや帯広初勝利かと思わせるレースでした。そして2月17日フクイズミの猛追をかわしついに帯広初勝利を飾ったのでした。

 さて、この帯広初勝利でアンローズはこっそりもうひとつの記録を達成したのであります。それは帯広競馬場ですべての着順(さらに競走中止)を記録したのです。岩見沢では42戦していますが、10着と競走中止がありません。24戦した北見では競走中止はありますが9着と10着がありません。旭川では21戦し、2着、5着、6着、9着、そして競走中止がありません。

 最後にこれまでのアンローズの成績をまとめておきます。岩見沢だけで全収得賞金の半分を稼いでるんですねえ。まさに「夏の女王」です。

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やっぱり馬が好き(第46回) 旋丸 巴

2008年2月15日(金)

ミサキスーパー引退式

 前回、「ミサキスーパー引退式については、来月の心だ~!」と記して、しかし、未だ来月になってないんだけど、まあ、そんな小さなミステイクは無視してちょんまげ。とにかく、今回はミサキスーパーの引退式について、なのである。

 引退制度の廃止で、蛍の光賞も引退馬打ち揃ってのお別れ会もなくなってしまった今季。重賞4勝、スーパーペガサスと共に一時代を築いたミサキスーパーも、本来なら誰にも見送られず、ひっそりと引退することになっていたのだけれど、そこに現れたファンの青年2人の奔走によって、同馬の引退式が行われるようになった、とは、前回記した通り。

 この2青年の提案を受けて、当日の準備を進めたのがオッズパークばんえいマネジメント。これに調騎会も全面的に協力して実現したのが、ミサキスーパー引退式だったのである。正に全員参加型引退式。及ばずながら、不肖・私も、引退式で読み上げられる「引退馬紹介」の原稿なんぞを執筆してお手伝いする栄誉に浴した。

 その拙作「引退馬紹介」を、ばんえいの名物アナウンサー井馬さんが浪々と読み上げる中、名馬ミサキスーパーはパドックに登場。

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 ばんえい競馬特有の豪華な馬着(馬服)に身を包んだミサキスーパーは、いくらか現役時代より小さくなったようにも見えたけれど、凛と耳を立て、実に精悍で立派。殊に、その瞳は、何もかもを見通してしまいそうなほど清冽で、ゾッとするほど美しかった。
本馬の調教師・鈴木邦哉師、主戦・鈴木勝堤騎手への花束贈呈などのセレモニーも終わって引退式も終了かと思いきや、この後は、ファンとの記念撮影が用意されていたから驚いた。

 カメラを持参の希望者全員が、ミサキスーパーの手綱を取っても記念撮影……なんて、ファンのひしめくJRAでは到底、出来ないこと。こういうところが、小規模のばんえい競馬の強味であり、魅力なんである。

     *     *     *

 そんな写真撮影を見守っていたのは他ならぬミサキスーパーの主戦・鈴木勝堤騎手。実は、勝堤さん、レース間に行われたこの引退式のために騎乗レースをやり繰りして、無理にも、この引退式に参加されたのである。

 「だって、本当に良く走ってくれた馬だから」と人懐っこい笑顔で笑う勝堤さんに、「ひとつだけ質問していいですか?」と尋ねてみたのは「小柄な、この馬が、どうしてここまで強くなれたか?」ということ。

 いつだったか『どうぶつ物奇想天外』というテレビ番組で、勝堤さんはミサキについて「この馬は、小さいけど出世すると思ったんだ。そう言ったら、みんなに笑われたけどね」と話されていたのを思い出したからである。

 「いいところ? うん、それは真面目で、いらないことをしない性格だね」

 従順な馬のことを、ばんえいの世界では「手触りの良い馬」という。ミサキスーパーは、その「手触りの良い馬」の代表格だったようで、レースでも調教でも人の指示を良く理解し、どこまでも真面目に力の限り走った。

 その生真面目のおかげで、スーパーペガサスと死闘を繰り広げ、一時代を築いたのだけれど、また、その性格故に、体に負担をかける結果となり、引退を余儀なくされた。

 「そんな馬のためだもん、引退式には、どうしたって参加しないと」と勝堤さん。

 蛇足ながら、鈴木勝堤騎手という方は、東北弁の口の悪いオジサンで……いえいえ、確かに口は悪いけど、しかし、こと競馬となると、さすが、と、うならされること、しばしば。何より感心させられるのは、この名手、競馬の話となると、必ず「この馬を、どう育てたらいいか」「この馬に合ったレースをするには、どうしたら良いか」というようなコメントをされるのである。一見、極く普通のコメントに聞こえるけれど、注意して聞くと、「馬」が中心の会話であることに気付くはず。それくらい、個々の馬を観察し尽くし、それぞれの馬に合わせた調教、騎乗をされている訳で……。いや、勿論、他の騎手さんだって、馬の個性を尊重されているけれど、その一点に対する執念が圧倒的で、これだからこそリーディング街道を独走されているのだな、と、得心させられるのである。

 さて、話はミサキスーパーに戻って、この引退式の数日後、同馬の調教師・鈴木邦哉先生と、ゆっくり話す機会があったから、ミサキスーパーについても色々なお話を聞いた。

 ミサキスーパーは、牧場時代、目立つ存在ではなかったという。そんな同馬に惚れこんだのが邦哉先生。

 「確かに体は小さかったけど、いい顔してたんだ」という先生。

 生産者である三井さんもまた、「この馬を競走馬にしてくれるなら」と、格安で、この馬を邦哉先生の知り合いの馬主さんに譲ってくれたというのである。

 邦哉先生の相馬眼、三井さんの心意気、馬主さんの理解、そして、勝堤さんの的確な調教と騎乗、これらが、ミサキの素質を大きく開花させた。

 いやいや、しかし、こういう名人達の心を動かしたのはミサキスーパーの真摯な性格だった訳で……。人馬共に、みんなみんな、凄かったのである、ミサキスーパー陣営は。

 そんなお話の後、邦哉先生は腕組みをしつつ中空を見つめて、しみじみ、おっしゃった。

 「ファンのためにも、やっぱり、いい馬を作らんとダメだな」

     *     *     *

 今は亡きライバル=スーパーペガサスに代わって、ミサキスーパーは種牡馬として活躍してくれるだろう。我々は、彼の素晴しい産駒が競馬場にやって来るのを待望しながら、また新たなヒーロー、ヒロインの誕生を夢見て、今日も競馬場の門を潜るのである。

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馬券おやじは今日も行く(第44回) 古林英一

2008年2月 8日(金)

やあやあ、我こそは…

 久々に歴史ネタである。小生、昔から昔話が好きで、中学時代は歴史学者にもちょっと憧れたのである。中学高校の同級生に川合康という男がいた。こいつが戦国時代マニアで、こいつには敵わんと思って歴史学者の道は早々に諦めたのである。ちなみに、この川合君、神戸大学の史学科に進学し、本当に歴史学者になってしまった。現在、首都大学東京(都立大学)で歴史学の先生をやっている。ただし、現在の専門は中学時代にはまっていた戦国時代ではなくて平安・鎌倉時代のようだ。

 数年前、本屋で『源平合戦の虚像を剥ぐ─治承・寿永内乱史研究─』(講談社、1996年)という彼の著作を見つけ思わず買ってしまった。同書の裏見返しに載っていた彼の顔写真は中学・高校時代とまったく同じである。変わらない奴である。同書がテーマとしている時代は平安時代末期から鎌倉時代のはじめ、つまり平清盛とか源義経とかが活躍する時代である。

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 馬のことを知りたくて買った本ではなかったのだが、開いてみると、期せずして「馬に関する諸問題」と馬について1節が割かれている。第2章の「弓馬の道」の1節なのだが、この第2章は当時の武士の戦闘方式などについて論じられた部分である。馬好きにはぜひ一読をすすめたい。当たった、外しただけではなく、たまには馬の歴史も勉強したらいかがかな。

 さて、この「馬に関する諸問題」では鎌倉市の発掘で出土した馬の骨の分析結果から、当時の馬が現代のサラブレッドなどよりはるかに小さな馬であったことや、平家物語などに登場する当時の名馬がどのような馬であったかについて論じられている。

 発掘された馬の骨から推定された体高は109センチから140センチだったそうだ。また、川合君は平家物語その他の文献に出てくる有名な馬の体高の一覧表をつくっている。これによると、宇治川の先陣争いのところに出てくる佐々木高綱の乗馬「生食(いけづき-「食」は本当は二水に食なのだが、フォントがなかった(^^;))」が最も大きくて8寸(生食は5尺2寸という別の文献もあるようだ)である。ちなみにこの「8寸」というのは4尺8寸のことで、馬の体高を表現するのにふつうは「4尺」は省略し、5尺を超える馬を大馬というのだそうだ。1尺は約30センチだから、5尺2寸だと158センチ程度である。

 「やあやあ我こそは…」と武士が戦場で戦うとき、150センチそこそこの馬が、人間の体重+鎧+武器+馬具で90キロは超える重量を背負っているのである。何ともご苦労様なことである。

 さて、わがばんえい競馬である。150センチそこそこ(馬体重は350キロくらいか)の馬が90キロ以上を背負って戦場をとことこ走っていたことを思えば、体重1トンの馬が橇と人間あわせて700キロを曳くくらい、案外たいしたことではないのかもしれない。

 ついでにいうと、かつてばんえいに体重制がしかれていた頃、最上級馬である甲級馬は800キロ以上となっていた。今よりもずいぶん小さい。それでも今と同じくらいの重量をひいていたのである。いやあ、馬力はほんとにあなどれませんなあ。

やっぱり馬が好き(第45回) 旋丸 巴

2008年2月 1日(金)

幸せをかみ締めたウエスタンショー

 細川騎手が、そして、我らがリーディング騎手・鈴木勝堤さんが、カウボーイに変身!

 というような珍しい姿が見られたのが、1月26、27日。毎度お馴染みの「とかち馬文化を支える会」が、またまた帯広競馬場でイベントを開催したのだけれど、今回はウエスタン・スタイルの乗馬の達人が登場。愉快なゲームをしたり、ウエスタン乗馬の妙技を披露したり、と楽しいウエスタンショーを繰り広げたのである。

 このウエスタンショー、実は、馬インフルエンザ騒動で半年も延期になっていたから、企画に携わった私も、ずっとヤキモキし続けていた。結局、開催は、こんな厳寒期になってしまったけれど、両日、午前と午後、都合4回行われたショーは大好評。

 知恵の輪外し、蹄鉄投げといったゲームには小さな子供から年配のファンまで参加。ゲームの優勝者には、本革のベストや特製アポロキャップが贈られるというので、参加者は奮闘。その姿を見て観客は抱腹絶倒。最高気温マイナス4度という寒さも、観客の熱気で、この時だけは、どこへやら。

 ゲームが終われば、いよいよ本格的なウエスタンショー。ただし、ウエスタンとは言っても、この日、登場したのは有名牧場の競走馬馴致・調教にも携わる調教の達人=持田裕之さん。だから、このショーも、単なる西部劇ごっこではなくて、馬を自由自在に操る妙技を次々に披露。例えば、円馬場を走る裸馬を手招きで呼び寄せたり、小さく呼びかけるだけで寝転ばせたり……。乗馬してからも、手綱なしで、指差す方向に馬を走らせたり、急停止させたり、と、魔法のような馬術が続々登場するから、観客はア然、呆然。拍手を忘れるほど。

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ウエスタン乗馬の達人=持田さんにかかれば、手綱なしで指を差すだけで、馬は、その方向に進む

 そんなショーを見守る観客の中に、調教師さんや騎手さんの姿もあったから、ショーの終了後に、声をおかけした。

 「皆さんも、ウエスタンの馬に乗ってごらんになりませんか?」と。

 照れからか激しく拒否されていた騎手さん達だったけれど、しかし、調教師の服部先生の「ファンサービスだから」という言葉を受けて、果敢にウエスタン・スタイルに挑戦してくださったのが細川騎手。

 平素は巨大な輓馬を繰る騎手さんが、金色のクォーターホース(ウエスタン用乗用馬)にまたがったから、観客からはヤンヤヤンヤの声と喝采が巻き起こった。で、当の細川さんはと言えば、騎乗するまでは「いやぁ」などと恥かしそうだったものの、一旦、馬の背に乗ると、たちまちホースマンの血が騒いで、「ちょっと、歩かせてもいいかな」とクォーターホースの手綱を取り、前進、後退。かと思ったら、今し方までウエスタンショーで繰り広げられていた妙技=後肢旋廻まで披露。

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細川騎手はウエスタン乗馬の妙技=後肢旋廻に挑戦

 「馬が良く調教されてるから」と下馬した細川さんは謙遜されたけれど、「輓馬とは指示の仕方が違うんだね」と、騎手らしい分析もされていたから、さすがである。

 午後の部の終了時には鈴木勝堤騎手も同じく金色のクォーターホースにまたがって、またも観客は拍手喝采。

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我らがリーディング騎手・鈴木勝堤騎手も西部の男に

 一方、このウエスタンショーに出演した持田さん達も、調教師の服部先生に勧められて、リッキーに騎乗。ばんえい騎手がクォーターホースに乗るのも不思議な光景だったけれど、カウボーイ達が巨大な輓馬に騎乗するのも、これまた摩訶不思議な光景。周囲の人々から暖かい笑いが起こった。けれど、私一人は、その様子を見ながら、ちょっと胸を熱くなんかしていたりして……。

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リッキーにたまがるウエスタンの達人

 だって、当欄にも何度も記したけれど、「帯広競馬場から馬文化を発信する」というのが私の大いなる「たくらみ」なのである。輓馬も乗馬も平地競馬も流鏑馬も、みんなみーんな馬が主役。だから、全ての分野の垣根を取っ払い、馬を中心に集まった人々が全国に馬文化を発信できたらいいな。と、そんなことを考えてきた私の、その志が、この日、ちょっぴり具現化したようで、嬉しかったのである。

 実際、持田さん始め、この日、イベントに参加して下さってウエスタン関係者の人達からは「ばんえいが身近になった」という感想をもらったし、服部先生は「持田さんの技術に学ぶために、騎手や調教師で研修をしたいね」と意気込んでおられた。

 「大風呂敷ばっかり広げて」と、日頃、揶揄されている私だけど、たまには大風呂敷だって役には立つんだもんね~、と幸せをかみ締めたウエスタンショーだったのである。

    *     *     *

 と、実に幸せな2日間を過ごして、しかし、27日には、もうひとつ素敵なことがあった。

 ミサキスーパーの引退式、これである。

 名馬が引退してしまうのは寂しいけれど、しかし、引退式が実現したのは、ばんえい競馬にとっては画期的な出来事。

 今年から、ばんえいでは引退制度が廃止されて、従って、毎年行われていた引退レース「蛍の光賞」も、引退馬が勢揃いする「お別れ式」もなくなってしまった。だから、今季限りで引退するミサキスーパーも、ひっそりと競馬場を去ることになっていたのだが……。

 「それは、あまりにも寂し過ぎる」と、立ち上がった青年が2人。関係者に働きかけ、主催者に嘆願し、企画を立て、東奔西走の結果、実現したのが、この引退式なのである。つまり、2人の青年の奮闘がなければ実現しなかった引退式について、さて、これからタップリご報告しよう……。と思ったら、誌面が尽きた(というか、既に大幅に文字数超過)。

 かような次第で、ミサキスーパー引退式については、来月の心だ~!

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ミサキスーパー引退式。最後はファンとの撮影会

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