現役では3人目となる地方競馬通算3000勝を達成(2018年11月17日高知第8レース)した松木啓助調教師。高知競馬が現在の場所に移転してからほぼ同じ年月を調教師として過ごしてこられました。時代の変化や今でも忘れられない馬、そして今後について語っていただきました。
地方競馬通算3000勝、おめでとうございます。1986年4月の初出走から約32年での達成です。改めて、どんなお気持ちですか?
ありがとうございます。ある時からみんなに「もうちょっとや」って言われていたんですが、私自身はそんなに意識をしていませんでした。32年間の積み重ねで、いま考えてみたら長いですね。
厩舎を開業されたのは、高知競馬場が『桟橋競馬場』と呼ばれていた地から現在の場所に移転して1年後のことでした。当時はどんな状況でしたか?
移転して1年は騎手としてレースに乗っていて、それから調教師になりました。当時はスタンドも馬場も新しかったですね。移転して少ししてから売上げもバーッと上がって、あの頃は良かったですよ。
調教方法など、いまとの違いはありますか?
こっちではみんな内厩ですが、桟橋の頃は外厩が3分の2くらいは占めていましたかね。遠いと車で馬を連れてきていました。あと、昔は浜で乗っていました。浜の近くにも厩舎が結構あって、今の場所に競馬場が移ってからもしばらくは外厩という形で利用していました。砂浜での調教は屈腱炎とか故障馬にいいんですよ。あんまり砂が深い所で走らせると馬も疲れてしまうので、うまく調整しながらですね。
調教師になったばかりの頃は、他の調教師が嫌がる屈腱炎の馬とかを紹介してもらい預かっていました。屈腱炎の馬って、能力やスピードがあるんですよね。脚元を注意しながらですが、走れれば力は全然違います。朝、競馬場で調教を終えてから浜に行っていたので忙しかったですが、だからこそ成績も上がったと思います。開業当初は15馬房くらいしかなくて、まずは成績を上げないと馬房数も増えなかったですからね。
そうした苦労や工夫のおかげで、1年目は馬房数の約2倍にあたる29勝を挙げられたんですね。重賞はこれまで記録に残っている上では55勝です。特に印象に残っているのはどの馬ですか?
タイホウミラクルですね。開業3年目で高知県知事賞を勝ちました(1989年1月15日)。当時も県知事賞はビッグレースで、ええ馬に当たりましたね。気性のいい馬でした。
2004年には福山で全日本アラブグランプリをマルチジャガーで制覇。同馬は13連勝ののち4着を挟んで7連勝で同レース優勝だったんですね。カッコイイです。
2歳のデビューから高知でやった馬で、強かったね。スピードが違っていました。
最近ではセトノプロミスで2018年御厨人窟賞を勝たれました。
プロミスは高知にきてパパーッと勝ちましたね。距離は1400mか1600mがいいでしょう。1600mは掛かる時もあるけど、その時によって分かりません。折り合いがついたらいいですけどね。なかなか重賞っていうのはうまいこといかないと勝てないですから。この馬は脚元が良くなったり悪くなったりで、最近は年齢もあるかもしれません。でも、能力は高いですよ。
セトノプロミス(2018年3月11日・御厨人窟賞/写真:高知県競馬組合)
ご自身は重賞での活躍だけでなく、2000年からは4年連続で高知リーディングに輝くなど、毎年リーディング上位の勝利数を挙げています。今後についてはどのようにお考えですか?
高知の調教師には定年がありません。だから、自分で自分の引き際を決めないといけないです。でも、元気でやれるうちはやろうと思います。またマルチジャガーみたいな馬、やりたいですね。なかなか難しいことですが、ずっとやっていればどこかで当たるかもしれないですしね。
それと、いま厩舎に預けてくださっている馬主を大事にしたいです。景気が悪い時は高知競馬にも馬が300頭前後しかいなくて、経費も最小限に抑えていたから、1回走って2万5000円ほどの出走手当。私も預託料を下げましたが、それでも限界があって、結局馬主のところに負担がいってしまいました。もう辞めようかと思った時もありましたが、ナイターをやり始めてから売り上げも上がって、あの頃より良くなっています。だから、あの頃にお世話になった馬主は大切にしないといけません。
最後に、オッズパーク会員のみなさんへメッセージをお願いします。
高知の競馬は魅力があると思います。内の砂が深いことを買う方も考えないといけないでしょうし、ジョッキーも内枠に入ったら悩むと思います。
これからも高知競馬はまだまだやっていくと思います。売り上げも上昇してきました。どんどん買ってもらって、宣伝をどんどんしてもらって、高知競馬を発展させてもらいたいです。
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※インタビュー / 大恵陽子