この7月から岩手で7回目の期間限定騎乗を行っている内田利雄騎手。その個性的なキャラクターともあいまって、岩手でも高い知名度と人気を得ている。昨季の在籍時には期間限定騎乗による「岩手通算100勝」も達成。ファンのみならず他の騎手や厩舎関係者からも一目置かれる存在だ。全国区の人気を誇る騎手だけに、内田騎手にまつわるあれこれはこれまでも様々なところで触れられているのだが、今回は改めて自身のこれまでとこれからをうかがってみた。
横川:それでは改めまして、騎手になろうと思ったきっかけのあたりから教えてください。
内田:父が川口でオートレーサーをやっていたんですがね、その父が自分に競馬の騎手はどうだ?と持ちかけて来たんですよ。"馬の背中の上で青春時代を過ごさないか?"という殺し文句でね。オートレースは規模がそれほど大きくないけど、競馬は全国規模のものだから安定しているだろう...と感じていたみたい。
横川:そんなお父さんは、内田騎手を最初から地方競馬の騎手にするつもりだったんでしょうか?
内田:うん、最初は父も"競馬=中央競馬"というイメージだったんじゃないですかね。でも父もあちこち聞いて歩いて、名前を売るのなら地方競馬の方がいいだろうと。中央競馬じゃ芽が出ないまま消えるような人もいるから、すぐに名を売りたいなら地方競馬だろ...という事になって。
横川:そこから宇都宮で騎手を目指す...という話になっていったんですか?
内田:当時は埼玉にいたから南関東の、それも浦和あたりで...って言う話もあったんだけど、父の先輩が北関東に馬を置いてる馬主だった事もあって。じゃあ宇都宮でお世話になろう、とね。それに北関東は騎手の数が少なかった。南関東は当時から多かったから。厩舎もすんなりね。所属する事になった厩舎が、当時宇都宮でリーディングトレーナーだったんですが、所属騎手がいないというので何人か見習いを採っていた。その中で残ったのが自分だけでね。
横川:オートレーサーの息子から騎手というのは、ちょっと珍しいパターンですよね。今でこそ競馬に全く関係のない家庭から騎手になる人も少なくないですが、昔は騎手の息子とか牧場で小さい頃から馬に...とかがほとんどじゃないですか。
内田:まあ同じようなもんでしょ。競技は違っても"レーサー二世"ではあるからさ。でも、小さい頃から競馬を見ておけ見ておけって言われたけど、興味なかったものね、その頃は。"身体が小さいなら競馬の騎手かな"ってくらいで、ダービーがどうとか三冠レースとか知らなかった。ま、その辺は騎手になってからも知らなかったけどね(笑)。そうね、73年くらい。ハイセイコーの頃ですね。
横川:そこからは順調に?
内田:順調そのものですよ。中学2年の夏休みから厩舎に住み込みで仕事をし始めた。家族から離れて一人でね。騎手学校でも真面目そのものの理想的な生徒。
横川:真面目な生徒だったんですか(笑)
内田:何で笑うのよ。真面目で成績優秀ですよ。紅顔の美少年。卒業式では総代もやったんだから。他の生徒が"総代はぜひ内田に"って言うから総代になったくらいですから。それでですね、競馬学校に入る時に面白い話があって。厩舎に通い始めた頃の身長が155~6cm、競馬学校を受ける頃には158cmくらいあったんです。
横川:"小柄"じゃないですね。
内田:そうそう。中学校で真ん中くらい。騎手学校を受ける中では大きい方ね。それで、今はそういう制限は無いんだけど、その頃は身長制限があった。それが156cmなんですよ。まわりからも"ちょっと背が高いんじゃないの~?"と言われていたんですが、1次試験の時に自分を測った先生が間違えた。5cm間違えて153cmという事になった。
横川:5cmってけっこう大きな差ですよね。
内田:まあ、そんなに大きな子は受けに来ないだろう...という意識があったんでしょうね。結局二次の面接の時に"内田、お前、なんか大きくないか?"という事で測り直したんですけども、あの時先生が間違えていなければ、もしかしたら一次で落ちていたかもしれませんね。
初めて岩手で期間限定騎乗を行った最終日、自身のバンド「ひまわる」のライブ演奏でファンを楽しませた(2005年8月16日、盛岡競馬場)
横川:それから三十有余年たちました。
内田:今年の10月で34年ですね。17歳の誕生日の2日後から騎乗し始めて、今年51歳になりますから。
横川:この間の、内田騎手の記憶に残っている馬を挙げていただくと...? たくさんいるんでしょうが、あえて絞っていただければ助かります。
内田:それはやっぱりブライアンズロマン。それとベラミロードですよ。1度しか乗ってないけどカッツミーとか、最近で言うとソスルデムン(釜山)とか、マカオのGIを勝ったスプリームヒーローとかもね、それぞれ思い出があるけど、やっぱりその2頭ですね。
横川:まずブライアンズロマンから、改めてどんな馬だったかを。
内田:自分に初めてのグレード(上山・さくらんぼ記念GIII)を獲らせてくれた馬ですし、北関東の大レースをたくさん勝ってくれた。すごく頭が良い、でもちょっと臆病なところがあって本当は馬ごみを嫌った。力の違いで揉まれるようなところに入る事はなかったんだけどね。あの頃にしては足長で、繊細な感じの体型。あの馬が出る前はああいう雰囲気の馬はあまり地方競馬にはいなかったですね。
横川:ベラミロードは僕もユニコーンSを見ていました。
内田:最後の最後でゴールドティアラに差された時ね。あまり大きな馬ではなかったけど、あれだけバネがある馬は乗った事がなかった。乗っていて気持ちよかったですよ。でもね、普段はおとなしくて何にもしない。何日も調教を休ませても全然暴れたりしない。調教師が"大丈夫なのか?"って心配するくらいおとなしいの。でもレースでは速い。凄いよね。
2000年の東京盃、2001年のTCK女王盃を勝って、NARグランプリ2000の3つの部門(年度代表馬、最優秀牝馬、最優秀短距離馬)で賞を獲ったんですよ。一度に3つも獲れるなんていうのもあの馬らしい。
小学生の頃に約2年間通った軽米町・観音林小学校で特別授業を行った(2009年7月7日)
横川:さて、これまで全国を回ってきた内田騎手が、浦和に腰を落ち着ける事になった。ちょっと衝撃的なニュースでもありましたが、その辺の経緯を教えてください。
内田:全国を回るのも年齢と共にだんだんと難しくなっていくんでね。浦和の騎手会長の見澤騎手(内田騎手の教養センター同期生)の勧めもあって、何年か前に出しておいたんですよ、その申込みのようなものを。南関東4場の騎手会でなかなか足並みが揃わなくて先送りみたいな形になっていたんですが、昨年荒尾が廃止になったでしょう。それで"廃止場の騎手を1場に1名受け入れる"という規定ができたんだそうです。つまり4場で4人までね。
横川:その規定を拡大していって内田騎手にも適用、と?
内田:拡大っていうか"そのもの"ですから。"廃止された宇都宮競馬場の騎手"ですから。転々としていたといっても無くなってからですからね。それで受け入れてもらえる事になったんです。
横川:落ち着く先ができたのは喜ばしい事ですが、毎年来てくれると思っていた自分たちから見ると正直寂しいです。
内田:僕も寂しいですよ。もう全国を回る事はできないでしょうからね。今年は"今までお世話になった皆さんにご挨拶をしたいから"と無理を言って回らせてもらってますが、今年の残る時間、できる限りあちこち行きたいと思うけども、日程がうまく組めなくてね。
横川:来年からの「浦和の内田利雄」はどんな騎手として生きていくのでしょうか?
内田:変わりないですよ。変わりない。1日でも長くレースに乗る、と。
横川:そろそろ騎手人生の終着点、引退という文字が...という事はないですか?
内田:引退してもやる事がないもの。それはもう乗れるだけは乗らないとね。だってねえ、志半ばで辞めてったわけですから、宇都宮時代の仲間が。そういう仲間たちの分までやらなくちゃならない。そういう使命があるんですよ。みんなだってそうでしょう? 東北で被災した人たちの分まで幸せにならなくちゃならないんですから。
横川:4000勝とかという記録とかが目標ではなく?
内田:そんな事はとてもとても。騎手として1レースでも多く乗る、って事ですよ。いつまでも若くはないんだから記録を狙って...なんてとてもね。もちろん与えられた仕事はきっちりこなしますが、いつまでも俺が俺がじゃなくて、若い芽を伸ばしてあげないとね。僕と一緒にレースに乗ると、若い騎手たちは楽しそうでしょ? 時には前に立ちふさがるかもしれないけど、若い奴らはどんどん越えていきますよ。そうやって世代が変わっていくんです。
例年、夏の頃に岩手で騎乗する事から"夏の風物詩"ともなっていた内田利雄騎手だが、浦和競馬所属となった事で期間限定騎乗で岩手に来るのは今回がラストという事になる。
自分からすれば内田利雄騎手の騎乗をもっと岩手で見てみたいし、その「終の棲家」は岩手競馬であって欲しかったとも思うのだが、こうなったからには内田利雄騎手の岩手での騎乗を応援しつつ目に焼き付けておく...というのが内田利雄騎手の決断に対する最大のリスペクトだろう。もちろん、また岩手で騎乗する姿を見る事ができる日を期待しながら...。
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※インタビュー・写真 / 横川典視