3年ぶりに地方全国交流として復活したダービーグランプリで、ロックハンドスターを岩手三冠馬に導いた菅原勲騎手。11月29日には、地方競馬史上6人目、現役では4人目となる地方競馬通算4000勝も達成しました。長きに渡って、岩手のみならず地方競馬のトップジョッキーとして活躍を続けています。
横川:騎手をめざしたきっかけは?
菅原:おじが地方競馬の調教師をやっていて父は厩務員。小さい頃から競馬場に来て厩舎で遊んだりしていたから、"馬がいる世界"には自然にとけ込んでいたね。その頃はまだ繋駕(ケイガ)競走があって、調教師兼騎手だったおじが繋駕に乗ってレースをしているのを応援したりしていた。
横川:小さい頃から競馬が近くにあったんですね。
菅原:まあその頃は、競馬がどうの騎手がどうの、というのは分からなかったから、ただ馬やレースを見ていただけ。騎手になろうとも考えていなかったと思うけど、父は自分を騎手にしたかったみたいだね。
自分も馬が好きだったし、身体もそんなに大きくならなかったから、自分でもわりと自然に騎手になろうと思うようになったな。
横川:そしてデビュー直後から新人らしからぬ活躍が始まりました。
菅原:最初のうちはただただ夢中だった。がむしゃらにレースに乗ってね。新人としてはよく勝っていた方だと思うけれど、あの頃は馬の力で勝っていただけ。自分が"凄い"とか"上手い"と思ったことはなかった。
周りが応援してくれたおかげで新人のわりにはいい馬に乗せてもらえたかな。いい馬、強い馬というのはレースをよく知っているから、馬が教えてくれるんですよ。仕掛けるタイミング、どこでどう動けばいいかってことをね。
運が良かったというか恵まれてはいたかもね。そうやっていい馬に乗って"こうやったら勝てる"という感覚を早くから掴めたのは有利だったと思う。
横川:ある程度騎手をやったらすぐ調教師になろうと思っていたそうですね。
菅原:その頃は周りがみなそうだったからね。30歳くらいまで騎手をやったら調教師になる...というのが普通だったから、自分もそういうものだと思っていた。騎手をやるのは調教師になるための勉強期間というか訓練期間というか、騎手をやりながら馬の扱い方や調整の仕方を覚えて、調教師になるのが"あがり"だと考えていた。
横川:それが結局、30年近く騎手を続けることになりました。
菅原:ちょうど30歳くらいの頃に、いい馬に立て続けに出会ったんだよ。トウケイフリートやトウケイニセイに乗ったのが自分が30歳前後の頃。アラブの強い馬にもたくさん出会えた。新潟や上山に遠征して勝つこともできたし、レースが面白くて仕方がなかった。
トウケイニセイが引退する時、自分も一緒に引退しようと思っていた時があったんだよ。トウケイニセイで勝ちまくったし、サラもアラブも若い馬から古馬までめぼしいレースはみな勝った。できることは全部やってしまった、もうこれ以上のことはないだろう...と思っていたんだよね。
横川:その頃が一番悩んだというか、ムチを置くかどうかの瀬戸際だったんですね。
菅原:強いて言えばそうだね。やっぱり辞めるとしたらいい時を選びたいでしょう。落ち目になって辞めざるを得なくなるくらいなら、一番いい時、自分がピークの時に辞めてしまうのがいいんじゃないか、ってね。
それに、その頃は騎手としてのピークはせいぜい30代前半、気力や体力が充実しているのは若い頃だけだって思っていたから。
横川:でも、すでに50歳が見えるくらいになりましたね...。
菅原:やってみると乗れるなと思うんだよね。30歳くらいの頃は"40歳くらいまでは大丈夫だろうな"、40歳になれば"もうちょっと乗れるかな..."。60歳までとは言わないけど、まだもう少し続けられると思うよ。
横川:"予定通り"に引退していたら、GIを勝つことも4000勝もなかったですしね。
菅原:トウケイニセイの後はメイセイオペラ、トーホウエンペラーと続いたから、もうちょっと、もうちょっと...と思ううちにここまで来てしまったね。
自分がデビューした頃はまだ、岩手は一介の地方競馬に過ぎなかったけれど、だんだん盛り上がるようになって売上げも上がって、全国的に注目される馬も出てきて、自分のキャリアもちょうどそのカーブと一緒に上がってきてね。いい時期に騎手になったな、とは思う。
まあ、今思えば辞めなくて良かったよね。これからは...どうか分からないけどね!
横川:今と昔、レースの仕方とかレースに対する姿勢とかは変わっていますか?
菅原:若い頃は勝つことにこだわっていたよね。とにかく一つでも多く勝とう、ライバルよりも多く勝とうとしていた。だから昔は、周りから見てピリピリしていたというかガツガツしていたというか、余裕がなかったんじゃないかな。
横川:昔は、リーディング争いが佳境にはいる頃はもの凄く怖い雰囲気になっていたような記憶があります。
菅原:負けるのがとにかく嫌だったからね。リーディングを獲ることなんかにも凄くこだわっていた。今は勝ち星の数よりはレースの中身、いかに気持ちよく勝つかとか、馬に楽に勝たせてやりたいとか、そんなことを考えるようになったね。
正直リーディングを獲ること自体には、今はあまり関心がないな。一つ一ついいレースを積み重ねて、その結果として1位になるのならいいけれど、そのために勝ちに行く、っていうのは、あまりね。
あ、でもリーディングを獲らないと佐々木竹見カップに選ばれないのか。あのレースは面白いからぜひ出たいものね。
横川:ということは、5000勝、6000勝と積み重ねていくというのは...。
菅原:いやあ、とてもとても。4000勝に届いたこと自体が自分では信じられないこと。そこまでは騎手をやってないよ、たぶん。
横川:さて、こうして騎手を続けてきて一番辛かった出来事はなんでしょうか?
菅原:やっぱり怪我をして騎乗できなかった時だね(2004年8月からシーズンいっぱい騎乗できず)。あまり大きな怪我をしてこなかったから、あれだけ長く乗れなかったのは初めて。乗りたいと思うのに身体が言うことを聞かないから乗れない。気ばかり逸って焦る。
結局そのシーズンを全部休んで次のシーズンからのスタート、元通り乗れるようになるのか?って、実際に乗ってみるまで不安があったしね。
横川:では反対に良かったことは?
菅原:好きなことをこれだけ続けてこられたのがまずひとつ。それから、調べてもらえば分かると思うけど、ここ最近の岩手の代表的な馬にはほとんど乗っていたんだよ。サラもアラブも。そんな歴史に残るような名馬たちに乗って戦ってきた、っていうのは自慢できるよね。
横川:一番思い出に残る馬を挙げるとすると...?
菅原:前も話したけど、やっぱりスーパーライジンかな。自分に最初の重賞勝ちをプレゼントしてくれた馬。あの馬のおかげで強い馬に乗った時の戦い方を身をもって覚えることができた。デビューしてすぐあの馬に出会えたから今の自分がある、そう言ってもいいと思う。
横川:もちろんトウケイニセイもですね。
菅原:本当に強かった。どんなに強い馬でもね、"あ、これは負けそうだな"という気持ちというか雰囲気みたいなものを見せてしまうもの。でもニセイは違った。どんな相手でもどんな展開になっても勝とうとする気持ちを失わなかった。別格だね。
横川:最後に、話題の馬ということでロックハンドスターについて。
菅原:やはり遠征に出て揉まれたことがね、結果はともかく馬には良かったと思う。強いライバルと戦っていかないと馬は伸びないものだからね。ダービーグランプリは期待通り、いやそれ以上のレースをしてくれた。地元の馬が活躍して、競馬を盛り上げていかないとね。
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※インタビュー / 横川典視