2017、18年とばんえい調教師リーディングに輝いたのが坂本東一調教師(65)。騎手としてばんえい歴代5位の2681勝を挙げ、2007年には日本プロスポーツ大賞功労賞を受賞。調教師として12年目を迎えます。
ばんえいアワード2018特別賞の表彰式。白いスーツが似合っていて、騎手時代からのオーラは健在
リーディング、おめでとうございます。2018年度の勝利数は歴代最多の135勝でした。通算勝利数も7月22日現在915勝で、今年度中の1000勝も期待できますね。
調教師は陰の存在でいいんだ。表に出るのは騎手。周りは(リーディングだって)騒ぐけれど、騎手時代から数にはこだわってなかった。マイペース! 自分のレベルを超えたら失敗する。絶対壁にぶつかるから。
勝利数はもちろん、出走回数も1011とずばぬけている(2位は西弘美調教師の903)のはすばらしいですね。馬主からの信頼と、無事に馬を出走させていることが数字に表れています。
あまり営業することはないが、入れてくれ、と言われるから。気を付けているのは馬の健康管理。しぐさで判断する。今は通年走るから、勝てる場面が必ず来る。勝つ意志を持って出走させながら、そのチャンスを作っておく。人でさえ絶好調は何度もない。風邪、寝不足。それを管理するのが私の仕事。よそには作れない馬の作り方はあるよ。オリンピックに出る選手の筋トレが難しいのと同じだよね。
坂本調教師は騎手時代から、誰よりも早い時間に起きて調教していたそうですね。
今も午前2時くらいには起きて馬を見ている。昔は50人も騎手がいて、1頭乗るのも大変な時代だった。1勝するのはさらに大変。「果報は寝て待て」だよ。騎手になる前は、建設、船、トンネルを掘るなど、いろんな仕事をしてきた。船に乗っている時に疲れてカッパを着たまま寝てしまうんだ。「寝て」というのは、まさにそれだと思う。続けていけば、そのうち上の仕事を任されるようになる。
馬とはずっと話をしていたよ。「自分はこうしたいんだけど」というと「それ以上の力出せない」と馬が言うのがわかるから。厩務員と騎手では教えるポイントも違う。馬のことだけは人に指導されたくなかったから、オーナーにも「それはだめです」って屈しなかった。それで乗り替ったこともあるよ。
坂本先生は、ばんえい記念にも積極的に馬を出走させ、ともすれば頭数が少なくなりそうなレースを盛り上げてくれます。今年は重賞の常連シンザンボーイのほかに、ドルフィンとカンシャノココロを出走させました。出走馬の見極めについて教えてください。
頼むよ、と言われるからなぁ。あきらめないで、這うような馬を選んで、馬主さんに頼む。もう表舞台には立たないけれど、裏で協力できるならやる。
ドルフィンは、(馬場の重い)草ばん馬で使っていた。青森の草ばん馬はそりに乗らず、口元を持つために障害でよれることがあるので、真っすぐにさせるのがポイント。松田道明騎手には「俺ならゴールまで持ってこれる。絶対あきらめるな」と話した。「よくやった」と言ったよ。カンシャノココロも、耐えることができる馬だから出したんだ。
2007年、トモエパワーでばんえい記念制覇
ばんえい記念といえば、トモエパワーですね(2007~09年に3連覇、坂本騎手は07年に騎乗)。
ばんえい記念は1回しか勝ったことないんだよ。ただ、勝ち馬には一番調教を付けたかな。一番強かったのはフクイチ(1995、97、98年ばんえい記念)。力が違う! 700、800キロならおもちゃ。馬の反発心があるから、厩務員がやっても動かないんだ。その次に強かったのがトモエパワーかな。牝馬のキヨヒメ(1979、81、82年ばんえい記念)も強かった。若い時には何人も怪我をさせた。それでも、調教をこなしたら馬も観念して「この人に逆らったらだめだ」ってわかる。
ばんえい記念も以前は4市で行っていたけど、帯広は楽。一番大変なのは、道中重い旭川。北見は晴れると重く、さらさらした馬場になる。水分でかなり違う競馬場なんだ。
騎手時代に大事にしていたことはありますか。
第1障害からの乗る位置。中央の騎手と同じで、まずゲートを出す。平地競馬は位置取りが大変なので、その点ばん馬は(セパレートなので)楽。200mには1頭1頭のドラマがある。
俺は鈴木恵介騎手と意見がぴったり合うんだ。どん底見てきてるからな。あいつ(娘婿の阿部武臣騎手)はだめ! 2着が多い。最近は(俺の考えに)気づいてきているみたいだが。
リーディング2位の騎手に厳しいですね(笑)。引退してからは一度、2014年の『マスターズカップ』に参加して久しぶりの『東一ジャンプ』(そりの上で飛びながら追う)を見ました。
やめたらもう絶対乗らない、って決めていた。草ばん馬でも乗らなかったのに、あの時は馬主に頼まれて断れなくってな。ジャンプはサービスだよ。
今の騎手はプロ意識が薄れてきているな。50代はじめの頃は、スタート直後に蹴られて腕を骨折して、手綱で腕を巻きながら騎乗したよ。レースでは必死でしゃくる(手綱を引く)から、手が真っ青で夜は湿布をしていた。今もこんなに曲がっているよ。
すごいですね...。さて、今はホクショウマサルが25連勝中の記録更新中です。
もともとパワーはあったからね。800キロまでは調教が間に合うが、これから重くなると(手術した喉に)無理がかかる。ここがぎりぎりかな、と思うと休んでいる。出るからには負けたくないしね。負ける時が肝心。悔いのない負け方をしたい。調教を増やせば負担がかかるが、時間をかけて、おいおいはばんえい記念の出走を考えている。
連勝中のホクショウマサルと
オープン馬のシンザンボーイも活躍中ですが、マサルと同じ牧場出身の幼なじみなんですよね。
シンザンボーイは真面目。体が小さく、まとまっているからね。柔道みたいに階級があればトップなんだけど。その壁をクリアする方法を考えている。若い頃はマサルの方が比較にならないほど抜けていたが、シンザンボーイは階段をゆっくり上っていったね。
メムロボブサップは絶好調だから、正直古馬とは戦わせたくない。マサルの若い時のようだけど、つぶれたら終わりだから、気を付けている。
2歳のトワトラナノココロは、むちゃしない限り、将来活躍できると思っている。いい意味で気性が激しい。馬は階段、エスカレーター、エレベーター、と成長する馬がいるが、できるだけ階段を上るように調教していきたい。2歳ではカイセドクターもパワーがある。ひそかに狙っているよ。
かわいくて人気のタナボタチャンかい? 特に性格がきついんだ。反発心が強く、波があるから調整が難しい。調教も機嫌が悪かったら馬房から出てこないよ。普段はおとなしいんだけどな。
2019年3月3日、イレネー記念を制したメムロボブサップ(写真:小久保巌義)
中学生のお孫さん(阿部騎手の長男)も厩舎を手伝っているそうですね。
「俺が教えてやる」と言っているんだ。部屋にいると「ジジ大丈夫か」って、毎日俺の様子を見に来るんだ。ババ(妻の美香子さん)が4年前に亡くなってからいつも来る。妻が亡くなった時は、俺が「(競馬)やめるかな」と言ったら「俺がやるから、もうちょっと頑張ってくれ」と言ったんだ。
素質あると思うよ。100キロの重りを1人で持つほど力があるが「今から無理すんな」っていうんだ。
「来たかったら友達を連れておいで」と言ってる。今の時代は危ないとかいうけど、痛い思いをして物を覚えることも大事。俺が教えられるのはそれしかないから。
楽しみですね。では、オッズパークの会員に、ばんえいの見どころを教えてください。
いろいろな騎手の駆け引きがあることを知って欲しい。ドラマがあることを考えてみれば面白い。いつも来る人はわかっているよね。考えれば考えるほど深くなる。そして、根強いファンが増えてくる。
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※インタビュー・写真 / 小久保友香
今春、デビューした木本直騎手(兵庫)。高校時代の友人の一言がきっかけで騎手を目指しましたが、4月11日のデビュー戦では本馬場入場時に落馬し競走除外。自身も骨折し、約1カ月の休養を余儀なくされました。デビュー直後からいきなり試練に見舞われましたが、6月12日に待望の初勝利を挙げたいまの心境を伺いました。
騎手になったきっかけを教えてください。
兵庫県西宮市出身で園田競馬場近くの工業高校に通っていました。一般的な高校3年間を過ごすつもりだったんですが、友達に「小柄だし、ジョッキーになればいいやん」と言われたことがきっかけです。当時はしょっちゅう美容院に行っていて、パーマもかけていたので「丸坊主か...」とも思ったんですが(苦笑)。1年生の3学期終業式当日に先生に高校を辞めることを伝えました。騎手になれるかどうか分からなかったので、友達には騎手になる直前まで何も言いませんでした。
友人の一言から思い切った決断を下しましたね。競馬は元々好きだったんですか?
いえ、ほとんど知りませんでした。ディープインパクトも知らないくらいで。友人に「ジョッキーになったら?」と言われた後、阪神競馬場にレースを見に行きました。武豊さんの名前しか知らないくらいでしたが、「うわ!これすごいな!」って思いました。
そこから騎手への道はどう手繰り寄せたんですか?
馬の専門学校を経て、いま所属している保利良平厩舎で厩務員をして地方競馬教養センターに合格しました。工業高校を中退した後は通信で勉強をしています。2年生まで単位を取って地方競馬教養センターに入所して、いままた高校3年生の勉強をしています。工業高校を中退する時に親と「高卒資格は取る」と約束したんです。
保利良平厩舎で厩務員をするきっかけは何だったんですか?
親の同級生に馬主さんがいて、その方が(保利)良平先生を紹介してくださいました。教養センターは規則が厳しくて辛かったですが、良平先生がずっと応援してくれていたので、辞めたら申し訳ないと思って頑張れました。
4月11日にデビュー戦を迎えましたが、ほろ苦いものになりました。
パドックから馬場に向かう馬道で、乗っていたダイシンクワトロが左に寄っていてチャカチャカしていて、馬具を外した時に馬がビックリしたのかひっくり返りました。落馬した瞬間のことは僕もよく覚えていないんですが、後ろにいた厩務員さんによると、馬と壁に挟まれたらしいです。デビューのお祝いに(杉浦)健太さんから「NAO KIMOTO」って名前入りでアメリカ製の鞭をもらったんですが、根っこから折れてしまいました。乗るはずだったダイシンクワトロは競走除外になりました。その後、2鞍に乗ったんですが、直後に良平先生から「もうやめとけ」と言われ、騎乗変更になりました。中学の友達やカメラ好きの友達が応援に来てくれていたので乗りたかったですが、手がすごく腫れあがって痛くなってきていました。
診断の結果、橈骨遠位端骨折で約1カ月休養することになりました。
休んでいる間に同期はどんどん勝っていって、しんどかったです。最初の頃は「早く乗りたい」って思っていましたし競馬も見ていたのですが、途中からしんどくなって見るのをやめました。モチベーションも低くなってきてしまって。プロはモチベーションを保つのが難しいって聞きますが、ホンマなんやなって感じました。でも、久しぶりに馬に乗ったら楽しくて、またモチベーションが上がっていきました。休養中はやっぱり焦っていましたね。
5月22日に待望の復帰戦を迎え、6月12日にエンジェルアイドルで初勝利を挙げました。
スタートから前に行ける分だけ行っておこうと思い、逃げ馬のハコ(直後)に入れました。前の2頭が競り合う形で展開にも助けられました。前走も乗せていただいたのですが、エンジンをかけるのが遅くて脚を余して2着だったので、この時は早めに行きました。それでちょうど良かったです。最後は永井孝典騎手が迫ってきて横を見ましたが、「あ、勝った!」と分かりました。「勝てて良かったぁ~」と嬉しかったです。
師匠の保利良平調教師からは何か言葉をかけられましたか?
一緒に口取り写真を撮りましたが、その1つ前のレースを自厩舎のグッドアビリティで勝てなかったので...。
自厩舎での初勝利も挙げたいですね。
はい、そうなんです。こないだ(7月3日)、良平先生のお父さんの(保利)良次厩舎で2勝目を挙げることができました。同じ日に自厩舎でもスダチチャンといういい馬に乗せてもらっていたんですが、3/4馬身差2着。タラレバですが、僕がもっとじっと乗っていたら、とも思います。自厩舎でも勝ちたいです。
スダチチャンとは以前から関りがあるそうですね?
騎手候補生の時からずっと調教をつけていて、思い入れがあります。スダチチャンが3歳で名古屋の梅桜賞に遠征した時、厩務員として僕も手伝いに行ってパドックで曳いていました。まさか騎手として乗れる日がくるとは思いませんでした。スダチチャンでも勝ちたいです。
これからの目標を教えてください。
ケガなく、安全と健康第一で頑張って、やっぱり勝ちたいです。僕、ゲートが苦手っていうか下手で、出る時にたてがみを離してしまうんです。いま、ネックストラップで頑張っていて、もうちょっと上手くなりたいです。川原(正一)さんはゲートが上手いですよね。ブラックルシアンに乗った時、僕はゲートを上手く出せなかったんですが、次走で川原さんが普通に出していて、すごいなって思いました。周りの人たちは「ゲートは出る週もあれば、出ない週もあるからそこまで気にしなくていい」と言ってくれるんですけど。
最後に、オッズパーク会員のみなさんへメッセージをお願いします。
勝負服は所属する保利良平先生のお父さんの保利良次先生の騎手時代のデザインを引き継いで、愛着を持っています。これからも頑張るので、応援よろしくお願いします!
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※インタビュー / 大恵陽子
今年4月で40歳になった倉富隆一郎騎手。デビュー22年目の今年も55勝(6月28日現在)を挙げ、佐賀で安定した成績を続けています。
今年はすでに55勝を挙げ、昨年の年間勝利数(65勝)更新が見えて来ました。好調の要因は何でしょうか?
たくさん乗せていただいて、たくさんチャンスをいただいて、周りの方々にはとても感謝しています。ただ、ここ何年か怪我が続いてしまって、1年を通して騎乗することが出来なかったので。今年好調なのは、怪我をしていないということが大きいですね。
以前インタビューした時も、脚の甲を骨折したというお話がありましたが、その後も続いたんですね。
最初が脚の甲で、5か月くらい休んで、それから骨盤骨折やって、顔面骨折やって...。ここ3、4年はまともに1年乗ったイメージがないですね。こればっかりは仕方ないですけど。さすがに落ち込んだこともあるけれど、結局は『また頑張ろう』って。休んでいる間は恐怖心があるけど、馬に乗ってしまえば大丈夫なんですよ。
騎手を辞めたいとは思わなかったですか?
それはないですね。だって僕にはこれしかないもん(笑)。馬に乗るのが好きということも大きいし、馬関係の職業の中でも騎手という仕事が好きなんです。これだけ長年やっていると、いろいろな人が別の道に行くのを見て来たんですけど。こないだたまたまそういう話になって、そういえば何人辞めただろうって。僕が入ってから、佐賀だけで40人くらいは辞めていると思うんです。同期はもちろん、上下の期でデビューした人たちがごっそり辞めてしまって。
倉富騎手と同年代は佐賀にはいませんね。
そうなんですよ。僕は1998年デビューなんですけど、上で一番近いのが1987年デビュー組の山口勲さんと真島正徳さん。下は2002年デビューの小松丈二なので、僕の周りだけ15年くらいぽっかり開いてるんですよ。
今よりもデビューする人数が多かった時代でしたし、その中で売り上げが低迷したりと辞めてしまう要素も多かったですよね。
今でもそういう人たちと話をするんですけど、JRAの職員になって、誘導馬やゲート係をしていたり、騎手辞めてから高校へ行って、専門学校へ行って、美容室を開いたり、医学療法士さんやっていたり。料理の道に行って、料理長までたどり着いて、今年博多に店出した人もいるんですよ。今日これから初めてお店に行くので、すごく楽しみで。みんなそれぞれの道で本当に頑張っているのですごいなと思いますね。ただ、職業として羨ましいと思ったことはなくて、自分にはつくづく騎手の道しかないなと。辞めていった人たちも、結果的に自分に合った職業についているから、『自分は今ここにいるから、これが天職なんだ』と思ってやってます。
長年活躍し続ける秘訣は何ですか?
なんですかね。あんまり考えてないけど(笑)。苦しい時期もあったけれど、長年騎手をやってこれたというのは、自分でも自信になっていると思います。だから、今までの積み重ねなのかな。「これが」というのはないけれど、1頭1頭を大事に乗って来たからだと思いますし、そこはこれからも大事にしていきたいですね。
佐賀は現在深刻な騎手不足と伺っていますがいかがですか?
もうそこは本当に大変ですね。今は夜中の12時50分に目覚まし掛けていて、1時20分には馬に跨っていますから。長い時は朝8時くらいまで乗り続けています。頭数?なるべく数えないようにしてるんですけど(笑)、多分20頭以上ですね。
夜中の12時50分とは...。相当ハードですね。
今年40歳になりましたし、キツい面もありますね。でも馬に乗るのは楽しいし、やっぱりレースは楽しいですよ。今は若手の方が多いから、それでも倉富と声を掛けてくれる人がいるというのは嬉しいですし、結果を出して恩返ししたいと思っています。
現在の目標は何ですか?
怪我なく1年乗りたいですね。そこが一番大きいです。でも、そんな甘っちょろいことを言っているだけではダメだし、お客さんにも失礼だから、安全第一は基本で、少しでも上手くなって、もっともっといいパフォーマンスを見せたいです。常に上を目指していかないと。そういう気持ちがないと楽しくないし、向上心は持ち続けたいです。あとは佐賀の騎手が増えて欲しいです!これはけっこう切実で。
昨年期間限定騎乗をしていた岡村健司騎手(船橋)は、佐賀にいる間に大活躍して重賞制覇。地元に戻ってからも活躍を続けていますよね。
岡村くんは頑張っていましたよ。もともとセンスもあったと思うけれど、たくさんレースに乗せてもらってぐんぐん成長しました。そういう風に若手の成長が見られるというのは、僕としても嬉しいです。
ライバルが増えるわけですが?
もちろんそうですけど、ライバルはどんどん増えて欲しいです。その中で切磋琢磨していきたいし、その方がお客さんも面白いでしょう。佐賀は長年上位があまり変わらなくて、自分としては安泰なのはいいことですけど、上の人間がずっと定位置というのは面白くないと思いますから。僕が世代交代という言葉を使うのは違うけど、そういう元気のいい若手が出て来て欲しいですね。
では、オッズパーク会員の皆さんにメッセージをお願いします。
長年乗せてもらってありがたいですし、応援してもらってありがたいです。まだまだ乗りたい気持ちが強いですし、騎手として行けるところまでとことん頑張ります。応援よろしくお願いします。
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※インタビュー / 赤見千尋(写真:佐賀県競馬組合)