常に安定した成績を残し、5年連続リーディングの経験もある岡田祥嗣騎手の騎手像に迫ります!
西田:岡田さんは、怪我が少ないですよね。
岡田:そんなことないよ。昔はよく怪我したよ。怪我をするたびに、自分に何かが足りないから怪我をするんだという考えになりましたね。それが何かという答えは、いまだに見つかっていないんだけど、怪我した時は自分を見つめ直す機会だと考えるようにしています。
西田:怪我をしないようなトレーニングは何かしていらっしゃるんですか?
岡田:毎日欠かさずというのはしていませんんが、今の身体を維持していくためのトレーニングはするようにしています。あと気を遣っているのは、お風呂の入り方ですね。夏でも冬でも、必ず湯船に入るようにしています。これは、個人差はあるようですが、体温を1度あげると免疫力が上がり風邪をひきにくくなる......というのを聞いたんです。テレビや本などで情報を得たら、とりあえずは自分に合うかどうかを試してみます。
西田:理想の騎手像は?
岡田:あまり考えたことないです。中央・地方や海外も含め、たくさん素晴らしい騎手がいます。そんな人たちの良い部分や共感できるところなどを吸収できたらとは、常に思っています。家に居る時にも、ほとんど競馬を観てますから(笑)。
西田:色々な競馬場に遠征することも多いですよね。
岡田:同じレースに乗せてもらって、得るものや感じることもたくさんあります。本当にありがたいことです。あと、どこの競馬場へ遠征させてもらっても、"自分は福山代表なんだ"という気持ちを常に持って騎乗させてもらっています。
西田:そういう意味では、後輩ジョッキーたちにも、チャンスがあれば積極的に遠征へ行って多くのことを経験してほしいですね。
岡田:そうだね。後輩ジョッキーたちには、それぞれのアイデンティティと福山競馬の誇りを持って、失敗を恐れずにどんどんチャレンジしてほしい。真面目な子が多いんだけど、おとなし過ぎるなぁとも思うんでね。もっともっと貪欲さを表現してほしい。そして、遠征などでアウェー感なども体験することにより、地元愛というのを持ってほしいです。そういった意識を先輩や後輩と一緒に持ち、福山競馬の騎手のレベルを上げていく。それを全国のファンの皆さんに見て感じてもらい、福山競馬を好きになってもらうということにもつながれば一番良いと思ってます。
と、偉そうなことを言っていますが、自分もひとつひとつの壁を乗り越えて進化していかないといけないと思っています。難しいことばっかり言ったけど、大丈夫?(笑)。記事になるかな(笑)。
西田:大丈夫ですよ(汗・笑)。岡田さんらしさが出てますから!
自分の性格を『目立ちたがり』で『ナルシスト』という22年目の岡田騎手。じつは、CDデビューをしたらと思わせるほどの歌唱力を持っています。近づいてきた通算2000勝達成時には、歌の披露もしてもらいたいです!
※インタビュー / 西田茂弘
昨年ホッカイドウ競馬でデビューした、下村瑠衣騎手(19)にお話を伺いました。
斎藤:騎手になったきっかけを教えてください。八戸市出身ですね。
下村:家の近くに乗馬クラブがあったんです。ドサンコやポニーがいました。3歳か4歳の時にはじめて馬に乗って、気が付いたらもう騎手になりたかったんです。いつ、どうして、というのは覚えていないんです。市といっても周りは田んぼと馬だけのド田舎。コンビニに馬で行ったりしました(笑)。
父は、私が馬が好きだというので、盛岡競馬場に連れて行ってくれました。父は馬券も買わないし、競馬は全く知らないんです。私が騎手になりたいという夢を応援してくれていました。騎手のなり方はわからなかったので、中学校の先生が教えてくれて、地方競馬教養センターを受けました。JRAは知らなくって。
斎藤:中学校時代、スポーツはしていたんですか?
下村:運動はそんなに好きじゃないんですよ。小、中学校と吹奏楽部で、ドラムでした。今は演奏はしていないけれど、曲を聴くのは好きですね。ミスチルや斉藤和義が好きです。
斎藤:中学を卒業して教養センターに入所しました。高知の別府真衣騎手、森井美香元騎手や名古屋の山本茜騎手ら3人の後、5年半ぶり、久しぶりの女性騎手です。
下村:女子は1人だし、高校を卒業して来た人が多かったので、中卒の私は正直辛かったです。競馬は男の社会だというのを感じました。でも、やめたら騎手になれないし、親や周りの人が期待してくれているから、がんばりました。同期では、名古屋の丸山真一騎手、大井の山崎良騎手とはよくメールしています。いろいろと相談にものってくれていますね。
2年の時に、現在佐賀競馬にいる小山紗知伽騎手が入ってきました。私はほとんど実習だったので一緒にいることは少なかったけど、いろいろと話ができて楽しかったです。いる人にしかわからない、同じ悩みをかかえていましたから…。
斎藤:卒業の時、ちょうど東日本大震災がありました。
下村:教養センターが福島原発に近かったこともあり、みんなで出ることになりました。八戸にも帰りたかったのですが、そのまま北海道に来てといわれ、そのまま競馬場にいます。また、父の会社が津波で、すべて流されてしまいました。それでも親戚も含め、命があったからよかった。会社の人たちも応援してくれています。
斎藤:なぜ北海道に来たのでしょうか。また、今の生活を教えてください。
下村:学校から北海道がいいとすすめられて、谷口厩舎を紹介してもらいました。
今は、午前2時半に起きて、12時近くまで調教と厩舎作業。毎日12頭ほどに調教をつけています。それから午後1時から6時まで馬房の手入れや引き馬、乗り運動。休みは2週間に1度、半日だけあるので大変です。特に担当馬はいなくて、みんなで全部の馬をみます。
斎藤:大変ですね……。休みの日は何をしていますか。
下村:寝るか整体ですね。
斎藤:そういえば、骨折して少しの間休んでいましたよね。
下村:6月、調教中に落ちて後ろの馬に踏まれました。頭蓋骨骨折で頭がへこんじゃいなした。まだ痛みはありますが、休んでいると、どうしても仕事しなくちゃ、という気持ちになるんです。夢でも仕事をしていて、谷口先生も出てきて怒られました(笑)。完治には2年かかるのですが、休んでいられません。
斎藤:復帰後、8月15日に今年初勝利をあげました。
下村:みんな喜んでくれました。ほかの騎手も戻ってくるとき、おめでとうと声をかけてくれて。検量にいるおばちゃんたちも、かわいがってくれています。ファンの方は、次の日にケーキをもってきてくれました。
斎藤:パドックにも応援幕が出ていますね。
下村:競馬場近くにある居酒屋の社長さんが作ってくれました。1枚でもあるとうれしいです。毎月手紙を送ってくれるファンの方もいるし、ありがたいです。
斎藤:居酒屋に行くのは19歳だからまだですね。初勝利について教えてください。昨年8月23日、ほぼ1年前ですね。馬はレディープラネットでした。
下村:なかなか勝てなくて、向いていないんだ、やめようかな…と思っていた時でした。でも、馬に力があったから。昨年の(地元での)3勝はすべて逃げ切りなんです。
昨年思い出に残っている馬はその後2連勝したメモリダンサーですね。ものすごくうるさい馬で、乗る前は憂鬱…(笑)。レースで走ったらかわいいところはありますが、普段はすごくうるさい馬なんですよ。
斎藤:北海道には女性騎手の先輩、笹木美典騎手がいますね。
下村:はい、休みが合えば買い物とか、いろいろと連れていってもらいます。優しくておもしろい。
教養センター1年目の後半で北海道に行くことが決まったとき、なにもわからないので手紙を書いたんです。競馬学校は携帯を使えないので、何度か手紙をやりとりして、競馬場のことを教えてもらいました。
川島洋人騎手の奥さんの、安田歩元騎手とも調教中に話をします。かっこいい! 洋人さんといつも一緒に併せ馬をしていて。きっと今復帰しても勝てると思います。
斎藤:厩舎には所属の先輩騎手がいませんが、誰に教わっていますか。
下村:騎手はみんな優しいんです。若手が少ないというのもありますが、みんな教えてくれる。優しくない人はいません。中でも谷口厩舎で乗ることの多い、小国さんや岩橋さんがいろいろと教えてくれますね。引退した小嶋さんはとても優しくて大好きでした。お父さんみたい。おにぎりくれるんです(笑)。
斎藤:昨年、初出場したレディースジョッキーズシリーズはいかがでしたか。女性騎手同士、いろいろ話ができたでしょう。
下村:みなさんにいろいろと教えてもらいました。悩みも相談できたし、仲良くなってみんなといい関係です。今でもよくメールをするのは、別府さんや元岩手の皆川麻由美さんですね。他地区で乗せてもらえたことがとにかく楽しかったし、うれしかったです。でも、第1ラウンドの盛岡、第2ラウンドの荒尾では成績がでなくて……。どちらも緊張しました。盛岡も広かったことくらいしか覚えていないんです。
斎藤:道営の開催は終了していたので、レース勘を取り戻すのも大変だったのでは。
下村:馬場も凍っていたので騎乗もしていませんでした。第3ラウンドの福山は心配だし怖かったので、福山競馬から連絡がきた時に、レース前に馬に乗せてもらえるかを相談しました。徳本厩舎で、朝調教をつけさせてもらえることになったんです。
斎藤:そうでしたか! 福山ではパーフェクト、2勝しましたね。
下村:福山は強い馬に乗せてもらいましたから。また、1つ勝ったらものすごいテンションが上がって……他の人より、私は勝つことがうれしいから気持ちが盛り上がるんです。福山はものすごくいい場所でした。人が優しい!
経営が大変だといわれますが、主催者が熱心で、いろいろと用意してくれました。騎手として扱ってくれた。「みんなで競馬をやってる」というのが伝わってきました。食べ物は、明石焼きが美味しかったです(笑)。また行きたいですね。
斎藤:女性で有利と感じることはありますか。当たりが柔らかいとかいいますよね。
下村:ないですね。ひとつでもあればいいのですが…。男でも当たりが柔らかい人はいっぱいいるし、人それぞれだから。女性騎手は、自分が親なら反対しますね(笑) 大変ですから。
斎藤:北海道は女性騎手の減量特典がないですよね。
下村:一度話が出たそうなのですが、立ち消えになってしまいました。今の状況で頑張るだけです。
斎藤:ここまで話を聞いていましたが、相当頑張り屋さんですね。
下村:人前では明るくって心がけているんですが……部屋の中ではものすごく暗いですよ(笑)。今日ももっと、楽しい話ができればよかったんですが、こんな話しかできなくてすいません。
友達はみんな大学生。東京に行ったりばらばらです。しかも、競馬学校にいたときに携帯を持てなかったから、連絡先がわからなかったりする。
斎藤:友達は下村騎手に連絡してあげてください(笑)。そうそう、声がかわいいですよね。
下村:ああ……(笑)、生まれつきなんです。姉もこんな声なんですよ。2人姉妹で、姉は馬はいやだっていうんです。
両親は2カ月に1回くらいは来てくれます。でも、その時に勝ったことがない。なんとか一緒に口取り写真を撮りたいです。
斎藤:これからの目標を教えてください。
下村:まだ今は厩務員という感じ。自分は騎手です、と言える騎手になりたい。まだはじまったばかりなので、騎手を楽しみたい、というか、楽しいと思えるような騎乗を自分でつくっていきたい。幼稚園、小学校の時に描いていた騎手の感じではないんです。
今は毎日がいっぱいいっぱい。勝つことはもちろんですが、それ以前に、馬に乗って楽しくてしょうがなかった、その思いを取り戻したいです。
※インタビュー・写真 / 斎藤友香
この7月から岩手で7回目の期間限定騎乗を行っている内田利雄騎手。その個性的なキャラクターともあいまって、岩手でも高い知名度と人気を得ている。昨季の在籍時には期間限定騎乗による「岩手通算100勝」も達成。ファンのみならず他の騎手や厩舎関係者からも一目置かれる存在だ。全国区の人気を誇る騎手だけに、内田騎手にまつわるあれこれはこれまでも様々なところで触れられているのだが、今回は改めて自身のこれまでとこれからをうかがってみた。
横川:それでは改めまして、騎手になろうと思ったきっかけのあたりから教えてください。
内田:父が川口でオートレーサーをやっていたんですがね、その父が自分に競馬の騎手はどうだ?と持ちかけて来たんですよ。"馬の背中の上で青春時代を過ごさないか?"という殺し文句でね。オートレースは規模がそれほど大きくないけど、競馬は全国規模のものだから安定しているだろう...と感じていたみたい。
横川:そんなお父さんは、内田騎手を最初から地方競馬の騎手にするつもりだったんでしょうか?
内田:うん、最初は父も"競馬=中央競馬"というイメージだったんじゃないですかね。でも父もあちこち聞いて歩いて、名前を売るのなら地方競馬の方がいいだろうと。中央競馬じゃ芽が出ないまま消えるような人もいるから、すぐに名を売りたいなら地方競馬だろ...という事になって。
横川:そこから宇都宮で騎手を目指す...という話になっていったんですか?
内田:当時は埼玉にいたから南関東の、それも浦和あたりで...って言う話もあったんだけど、父の先輩が北関東に馬を置いてる馬主だった事もあって。じゃあ宇都宮でお世話になろう、とね。それに北関東は騎手の数が少なかった。南関東は当時から多かったから。厩舎もすんなりね。所属する事になった厩舎が、当時宇都宮でリーディングトレーナーだったんですが、所属騎手がいないというので何人か見習いを採っていた。その中で残ったのが自分だけでね。
横川:オートレーサーの息子から騎手というのは、ちょっと珍しいパターンですよね。今でこそ競馬に全く関係のない家庭から騎手になる人も少なくないですが、昔は騎手の息子とか牧場で小さい頃から馬に...とかがほとんどじゃないですか。
内田:まあ同じようなもんでしょ。競技は違っても"レーサー二世"ではあるからさ。でも、小さい頃から競馬を見ておけ見ておけって言われたけど、興味なかったものね、その頃は。"身体が小さいなら競馬の騎手かな"ってくらいで、ダービーがどうとか三冠レースとか知らなかった。ま、その辺は騎手になってからも知らなかったけどね(笑)。そうね、73年くらい。ハイセイコーの頃ですね。
横川:そこからは順調に?
内田:順調そのものですよ。中学2年の夏休みから厩舎に住み込みで仕事をし始めた。家族から離れて一人でね。騎手学校でも真面目そのものの理想的な生徒。
横川:真面目な生徒だったんですか(笑)
内田:何で笑うのよ。真面目で成績優秀ですよ。紅顔の美少年。卒業式では総代もやったんだから。他の生徒が"総代はぜひ内田に"って言うから総代になったくらいですから。それでですね、競馬学校に入る時に面白い話があって。厩舎に通い始めた頃の身長が155~6cm、競馬学校を受ける頃には158cmくらいあったんです。
横川:"小柄"じゃないですね。
内田:そうそう。中学校で真ん中くらい。騎手学校を受ける中では大きい方ね。それで、今はそういう制限は無いんだけど、その頃は身長制限があった。それが156cmなんですよ。まわりからも"ちょっと背が高いんじゃないの~?"と言われていたんですが、1次試験の時に自分を測った先生が間違えた。5cm間違えて153cmという事になった。
横川:5cmってけっこう大きな差ですよね。
内田:まあ、そんなに大きな子は受けに来ないだろう...という意識があったんでしょうね。結局二次の面接の時に"内田、お前、なんか大きくないか?"という事で測り直したんですけども、あの時先生が間違えていなければ、もしかしたら一次で落ちていたかもしれませんね。
初めて岩手で期間限定騎乗を行った最終日、自身のバンド「ひまわる」のライブ演奏でファンを楽しませた(2005年8月16日、盛岡競馬場)
横川:それから三十有余年たちました。
内田:今年の10月で34年ですね。17歳の誕生日の2日後から騎乗し始めて、今年51歳になりますから。
横川:この間の、内田騎手の記憶に残っている馬を挙げていただくと...? たくさんいるんでしょうが、あえて絞っていただければ助かります。
内田:それはやっぱりブライアンズロマン。それとベラミロードですよ。1度しか乗ってないけどカッツミーとか、最近で言うとソスルデムン(釜山)とか、マカオのGIを勝ったスプリームヒーローとかもね、それぞれ思い出があるけど、やっぱりその2頭ですね。
横川:まずブライアンズロマンから、改めてどんな馬だったかを。
内田:自分に初めてのグレード(上山・さくらんぼ記念GIII)を獲らせてくれた馬ですし、北関東の大レースをたくさん勝ってくれた。すごく頭が良い、でもちょっと臆病なところがあって本当は馬ごみを嫌った。力の違いで揉まれるようなところに入る事はなかったんだけどね。あの頃にしては足長で、繊細な感じの体型。あの馬が出る前はああいう雰囲気の馬はあまり地方競馬にはいなかったですね。
横川:ベラミロードは僕もユニコーンSを見ていました。
内田:最後の最後でゴールドティアラに差された時ね。あまり大きな馬ではなかったけど、あれだけバネがある馬は乗った事がなかった。乗っていて気持ちよかったですよ。でもね、普段はおとなしくて何にもしない。何日も調教を休ませても全然暴れたりしない。調教師が"大丈夫なのか?"って心配するくらいおとなしいの。でもレースでは速い。凄いよね。
2000年の東京盃、2001年のTCK女王盃を勝って、NARグランプリ2000の3つの部門(年度代表馬、最優秀牝馬、最優秀短距離馬)で賞を獲ったんですよ。一度に3つも獲れるなんていうのもあの馬らしい。
小学生の頃に約2年間通った軽米町・観音林小学校で特別授業を行った(2009年7月7日)
横川:さて、これまで全国を回ってきた内田騎手が、浦和に腰を落ち着ける事になった。ちょっと衝撃的なニュースでもありましたが、その辺の経緯を教えてください。
内田:全国を回るのも年齢と共にだんだんと難しくなっていくんでね。浦和の騎手会長の見澤騎手(内田騎手の教養センター同期生)の勧めもあって、何年か前に出しておいたんですよ、その申込みのようなものを。南関東4場の騎手会でなかなか足並みが揃わなくて先送りみたいな形になっていたんですが、昨年荒尾が廃止になったでしょう。それで"廃止場の騎手を1場に1名受け入れる"という規定ができたんだそうです。つまり4場で4人までね。
横川:その規定を拡大していって内田騎手にも適用、と?
内田:拡大っていうか"そのもの"ですから。"廃止された宇都宮競馬場の騎手"ですから。転々としていたといっても無くなってからですからね。それで受け入れてもらえる事になったんです。
横川:落ち着く先ができたのは喜ばしい事ですが、毎年来てくれると思っていた自分たちから見ると正直寂しいです。
内田:僕も寂しいですよ。もう全国を回る事はできないでしょうからね。今年は"今までお世話になった皆さんにご挨拶をしたいから"と無理を言って回らせてもらってますが、今年の残る時間、できる限りあちこち行きたいと思うけども、日程がうまく組めなくてね。
横川:来年からの「浦和の内田利雄」はどんな騎手として生きていくのでしょうか?
内田:変わりないですよ。変わりない。1日でも長くレースに乗る、と。
横川:そろそろ騎手人生の終着点、引退という文字が...という事はないですか?
内田:引退してもやる事がないもの。それはもう乗れるだけは乗らないとね。だってねえ、志半ばで辞めてったわけですから、宇都宮時代の仲間が。そういう仲間たちの分までやらなくちゃならない。そういう使命があるんですよ。みんなだってそうでしょう? 東北で被災した人たちの分まで幸せにならなくちゃならないんですから。
横川:4000勝とかという記録とかが目標ではなく?
内田:そんな事はとてもとても。騎手として1レースでも多く乗る、って事ですよ。いつまでも若くはないんだから記録を狙って...なんてとてもね。もちろん与えられた仕事はきっちりこなしますが、いつまでも俺が俺がじゃなくて、若い芽を伸ばしてあげないとね。僕と一緒にレースに乗ると、若い騎手たちは楽しそうでしょ? 時には前に立ちふさがるかもしれないけど、若い奴らはどんどん越えていきますよ。そうやって世代が変わっていくんです。
例年、夏の頃に岩手で騎乗する事から"夏の風物詩"ともなっていた内田利雄騎手だが、浦和競馬所属となった事で期間限定騎乗で岩手に来るのは今回がラストという事になる。
自分からすれば内田利雄騎手の騎乗をもっと岩手で見てみたいし、その「終の棲家」は岩手競馬であって欲しかったとも思うのだが、こうなったからには内田利雄騎手の岩手での騎乗を応援しつつ目に焼き付けておく...というのが内田利雄騎手の決断に対する最大のリスペクトだろう。もちろん、また岩手で騎乗する姿を見る事ができる日を期待しながら...。
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※インタビュー・写真 / 横川典視