街なかの馬
本来、小生、岩見沢開催は得意なのである。1回岩見沢こそ不本意な成績であったが、2回岩見沢になって、俄然本領発揮なのである。1回岩見沢前半戦3日間のうち、2日間は収支プラス、1日はプラマイゼロという、いわば完璧に近い戦績であった。後半戦も収支的にはプラスである。ついでにいうと、競輪のほうも調子上昇である。日々コツコツと積み重ねてくると成果はあらわれるものである。人間努力が肝心である。ここらが小生のまじめなところなのである。
さて、今回は久々に昔の馬の話である。ばんえい競馬は「農耕馬のレースだった」と書いてあるものをみかけることがあるが、実は、必ずしもそうではない。もちろん、農耕馬が多数出場していたのも事実だが、トップレベルで活躍していた馬の多くは、いわゆる農耕というよりは、山林作業であったり、運搬業で働いている馬だった。農家で通常飼われていたのは牝馬(繁殖・作業兼用のため)であった。
では、街のなかで働いていた馬というのはどのようなものだったのか。これが、実は、よくわからないのである。そもそも、そういう馬が何頭くらいいたのかも今となってはよくわからない。
馬車運送の話を教えてくれる人がいないだろうかと、北海道トラック協会にお願いしたところ、札幌市の中村運送の中村光雄会長を紹介していただくことができた。中村会長のお世話で、中村会長の他に当時のことをよくご存じの方3人にお話をうかがうことができた。以下はそこでうかがった話である。
1950年代の半ば頃、札幌市内には大小20以上の運送業者があり、殆どは馬を使っていたという。中村運送(当時は中村組)は大手といっていいくらいだったが、使っていた馬は20頭くらいだったという。近隣の農家などから、馬と馬車(保道車というゴムタイヤ付きの車両)を連れて働きに来ていた人の馬が15頭くらいで、自社馬は5頭くらいだったという。ちなみに、日通は全部自社馬だったようだ。
鉄道貨物の市内配送が主たる仕事で、札幌の場合、苗穂駅に着いた荷物を馬車に積んで市内の配送先に運んでいた。もちろん、それだけではなく、今トラックで運ぶものはすべて運んでいたといっていいようだ。
写真は1957年、丸井今井百貨店に北海道初のエスカレータが設置されたときの写真である。当時、苗穂にあった三菱電機の工場から大通の丸井今井百貨店まで運んだ。3頭の馬が写っているが、真ん中の馬を曳いているのは今回お話をうかがったうちのお一人である高橋さんである。
1960年代になると馬は急速に街のなかから姿を消していくが、中村運送の場合、1966年頃まで馬車が使われていた。写真はその最後の馬車である。えらく大きな荷物を積んでいる。こうした長大な荷物の運搬には馬車がよく使われたようだ。
お話をうかがったうちのもう一人、鳴海さんによると、べろんべろんに酔っぱらっても馬はちゃんと家に連れて帰ってくれたそうで、そう考えるとトラックには代え難い機能もあったということである。