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ばんえい名馬ファイル(6) イエヤス

2010年10月 6日(水)

天下獲りの冬の陣 イエヤス

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Photo●OPBM

 「イエヤスが天下を獲った!」

 年号が昭和から平成に変わった年の農林水産大臣賞典(現・ばんえい記念)。伏兵イエヤスが先頭でゴールした瞬間、スタンドは沸いた。この年の大臣賞はのちに1億円馬となるタカラフジ、ヒカルテンリュウの一騎打ちと見られ、連勝オッズも2倍と両馬が圧倒的な人気を集めていた。

 当日の帯広競馬場は12月10日とはいっても晴れの天気で馬場水分2.5%であり、ひじょうに時計のかかる馬場状態だった。スピードを生かしたレースでの実績はあるが、11月12日の北見記念900キロが今まで経験した最高重量のイエヤスである。それに比べ、タカラフジは岩見沢で行われた地方競馬全国協会会長賞で2着のキンタイコーに15秒の大差をつける圧勝劇を演じており、そのタカラフジを5馬身突き放し旭王冠賞馬となったのがヒカルテンリュウ。超満員のファンの誰もが「銀行馬券で暮れのボーナスを」と思うのも当然だった。

 5分32秒2。農林水産大臣賞典の重量が1000キロに定められてからの優勝最高所要タイムである(※1)。まさに死闘だった。ゲートが開き各馬定位置を第2障害に進み、赤い帽子の西弘美騎手・イエヤスが先頭で降りても、まだ誰も銀行馬券を疑うことはなかった。すぐあとに金山明彦騎手のヒカルテンリュウが、3番手に久田守騎手のタカラフジが差なく続いて降りたからだ。「逃げ」といってもばんえい競馬だ。10メートル進んでは止まり、5メートル進んでは止まるのである。それと一緒にファンも声援を送りながらスタンド前を200メートル移動するのだ。「これがバンバだ」と叫んでいる老人もいる。

 6歳で農林水産大臣賞馬となり天下獲りを果たしたイエヤスは、昭和61年北見競馬場で行われた能力テストを1回で合格、デビュー戦もゴール前で差し切って勝ったが、タイム的には平凡だった。61年デビュー組はチカラトウショウやゴーニテンリュウ、牝馬ではミドリゴゼンと実力馬が揃うなかでイエヤスは陰の存在だった。3歳時は北見産駒特別の優勝はあるが、レース名のとおり北見産駒限定戦である。3歳オープンでは入着はするが勝てないレースが続く。

 しかし不思議なことに、常に人気になる馬ではあった。そのイエヤスという馬名が人気の要素だったのかもしれない。

 ばん馬の名前は昭和40年代前半までは山や河、海など出身地を思わせるものが多く、馬名で馬主さんが分かったものだったが、後半からNHK朝のドラマやコマーシャルからの馬名が多くなるのも特徴である。国民的ドラマの主人公の名をとり「オシン」、「キタノアグリ」や「アグネス」(香港出身の歌手ではなく、ハワイ出身のアグネス・ラム)にヒゲで有名な現調教師(※2)である片平俊悦騎手が乗っていたのも面白い話である。オリンピックの翌年は必ず優勝者の名前が登録馬の中に入っていて、「ルイス」や「ジョイナー」など、時代を反映した名前が見受けられたものだ。

 兄弟騎手の兄として1000勝騎手となった(※3)西弘美騎手は、その後フクイチで平成9、10年の大臣賞を制したが、初めて大臣賞を優勝したのがイエヤスだった。「デビューからずっと手綱を取りました。最初は他厩舎に所属していたのですが、すぐに私の所属の山本幸一厩舎に転厩してきたんです。普段は大人しいんですが、レースが近くなると担当の厩務員しか馬房に入れることができないほどで、馬房の壁は穴だらけでした。イエヤスの同期は本当に強い馬が多くて、騎手の仲間とよく『鳴くまで待つか』なんて話していたものです。現実に大臣賞に出走させるにも、4歳時のばんえい大賞典をひとつ勝っただけの実績しかありませんでしたからね。でも1カ月前の北見記念3着の時の手ごたえが本当に良かったんです。山本先生と相談して出走させて、苦しいレースでしたが勝って良かったです。大臣賞を勝ったあとは、あんなに強いレースをしたのが嘘のように勝てなくなりました。大臣賞で燃え尽きたんですね。でも種牡馬になってからも初仔のダイカツは現在5歳オープンで活躍していますし(※4)、4歳もパワーウルフ、レーザーエッジと続いています。楽しみですよ」

 10月10日(※5)に旭川で行われる旭川記念にイエヤスの長男ダイカツが出走を決めた。ダービー馬ハイトップレディなど実力馬を相手に、無冠のダイカツがどう立ち向かうか、楽しみである。

文/小寺雄司

(馬齢は当時の旧年齢で表記)
※1:その後、08年にトモエパワーが制したばんえい記念が5分35秒8。
※2,3,4,5:1999年当時。

イエヤス
1984年2月27日生 半血 牡 青毛
父 半血・アラミノル
母 半血・クシロホープ
母の父 ペル・2世ロッシーニ
北海道常呂郡佐呂間町・柴田秀男氏生産
競走成績/162戦17勝(1986~94年)
収得賞金/52,907,000円
主な勝鞍/87年ばんえい大賞典(旭川)、89年農林水産大臣賞典(帯広)


月刊「ハロン」1999年11月号より再掲

ばんえい名馬ファイル(5) アサギリ

2010年9月13日(月)

北見の鬼 アサギリ

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Photo●NAR

 「勝堤、今回からアサギリに乗ってくれ。(皆川)公二がホッカイリュウに乗らなければならないからな」。今は引退した渕上昭一調教師の指示だった。昭和62年の春、旭川競馬場。アサギリと鈴木勝堤騎手の出会いであった。

 のちに北見の鬼と呼ばれ、重賞競走優勝10回、史上5頭目の1億円馬に輝く名馬になるアサギリ。だがこの頃は、のちの姿が想像もできないほど、能力テストもレースぶりも平凡な馬だった。現在(※1)ばんえい競馬には35人の騎手が所属しているが、リーディング上位の10人が年間100勝以上の勝ち星を挙げるほど、ベテランの活躍が目立つ競馬である。

 毎年2~3人が難関の騎手試験をパスして騎手デビューするが、50勝と同時に10キロ減量がなくなり、それと同時に騎乗数も減るのが現状である。それほどベテランと若手では技術の差に開きがあるのも現実なのだ。大小ふたつの障害がある200メートルの走路を手綱と動作、気合い、ハミの掛け具合で1000キロもあるばん馬をゴールさせるのである。ベテラン騎手に騎乗依頼が多いのは当然のことだろう。

 鈴木勝堤騎手はばんえい競馬に入る前、水沢競馬で見習い騎手として厩舎にいて技術的にも光るものはあった。昭和60年代、現在(※2)3500勝達成の金山明彦騎手を筆頭に、2000勝の久田守騎手、1500勝の木村卓司騎手と花形ジョッキー勢揃いの時代に若手騎手がお手馬を貰ったのである。朝の調教、午後の運動と熱が入るのは当然のことだったろう。

 3歳デビュー時から華々しく活躍した馬で、後世に名を残した馬はばんえい界ではひじょうに少ない。史上初の1億円馬のキンタローでさえ3歳時、特別戦は未勝利である。3歳時に活躍すると、賞金の関係で4歳・5歳時に古馬との戦いとなるため、どうしても重賞で潰されてしまうことが多い。

 アサギリが初の重賞ウィナーに輝き、北見の鬼と呼ばれたのが平成元年、アサギリ5歳、北見競馬場で行われた全国公営競馬主催者協議会会長賞。現在の銀河賞である。2着のキタノプリンセスに6秒5の大差をつける圧勝だった。鈴木勝堤騎手にとっても初の重賞制覇である。

 『...各馬第2障害手前、さあこれからが正念場、カツラシンザンが1番手、ヒカルテンリュウも動いた、内から赤い帽子のアサギリも来た、ゼッケン番号3番のアサギリだ、強いアサギリが北見に帰ってきました、ゴールまであと10メートル、あと5メートル、アサギリだ、アサギリが突き放す...』実況アナウンサーの井馬博氏の名調子が北見競馬場に響く。

 「北見競馬場でアサギリが出走するレースは特別力が入りましたね。スタンドの熱気が3階の実況席まで伝わってきましたよ。スターホースでしたからね。でも、第2障害を降りた位置で勝ちが見えてましたから比較的楽なレースでしたし楽しみでもありました。最近は個性のある馬が少なくなったので寂しいですね」。冷静な実況アナウンサーを熱くさせた馬、アサギリ。

 43戦21勝、2着10回、3着2回、着外10回。アサギリの北見コースの成績である。北見の鬼と呼ばれて当然の成績だが、その鬼にもウィークポイントはあった。平均の勝ちタイムは2分30秒ほど。そう、濡れた砂の鬼なのだ。砂塵の舞い上がる乾いた砂ではあの豪快な差し脚は使えない。

 北見開催は当時、春と秋の開催が多く、馬場はほとんどいつも濡れている状態で、アサギリにとっては絶好のコースだった。名馬は馬場も味方にしてしまったのである。

 「あの時、渕上先生が他の騎手に依頼していたら現在の僕はなかったでしょう。そりゃもちろん騎手は続けていたでしょうが、あの頃がいちばん苦しい時でした。新人でもなく、かといって乗り馬も多いわけじゃなかったですからね。何とかこの馬で、と思いましたが、今振り返ると逆でしたね。アサギリが僕を一人前の騎手にしてくれたんですよ。勝つ喜びも、悔しい思いも随分しました。先生にいつも言われていたのは、『アサギリの後ろに馬はいないと思え。相手は前にいる馬だけだ』ということでした。僕が乗っている間は確かに後ろから差されたことはなかったですね。3歳の頃からコンビを組んでいましたが、北見記念2連勝のあと、レースの出走に関して関係者の間に意見の相違がありまして、9歳の春から僕の手を離れたんです。その年の北見記念で、僕は服部厩舎のキクノコトブキでアサギリの北見記念3連覇の夢を破り、騎手だけ3連覇を達成したんですが、正直複雑な気持ちでしたね」

 鈴木勝堤40歳、8月1日現在、通算990勝。平成11年度、まもなく1000勝ジョッキーの仲間入りである(※3)。

文/小寺雄司

(馬齢は当時の旧年齢で表記)
※1,2:1999年当時
※3:鈴木勝堤騎手は2010年9月13日現在、通算2,296勝。

アサギリ
1985年3月28日生 半血 牡 青毛
父 半血・リウリキ
母 半血・宝姫
母の父 半血・タカラコマ
北海道中川郡豊頃町 宝田健一氏生産
競走成績/143戦41勝(1987~94年)
収得賞金/102,512,000円
主な勝鞍/89年全国公営競馬主催者協議会会長賞(北見)、91年地方競馬全国協会会長賞(北見)、91年ばんえいグランプリ(帯広)、91年北見記念(北見)、92年地方競馬全国協会会長賞(北見)、92年ばんえいグランプリ(岩見沢)、92年北見記念(北見)、93年ばんえいグランプリ(岩見沢)、94年ばんえいグランプリ(岩見沢)、94年北見記念(北見)


月刊「ハロン」1999年9月号より再掲

ばんえい名馬ファイル(4) サダエリコ

2010年8月31日(火)

父を超える重賞コレクター サダエリコ

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 皆さんはダイヤテンリユウという馬をご存じだろうか? ニセコクイン、ヨウテイクイン、コトブキクイン。井馬アナウンサーが「ばんえいの華麗なる一族」と呼んだ三姉妹の兄である。競走成績は通算で71戦29勝、そのうち重賞10勝という驚異的な成績。種牡馬入りしてからはリーディングサイアーとなること6度。競走馬としても繁殖馬としても頂点を極めたばんえい競馬界を代表する名馬といえよう。そして、そのダイヤテンリユウの最高傑作といえる産駒が今回の主役、サダエリコである。

 サダエリコのデビュー戦は2002年4月22日旭川競馬場。手綱を取ったのはデビュー6年目の水嶋恵介騎手(後のリーディングジョッキー鈴木恵介騎手)。単勝7番人気で結果は3着だった。初勝利は舞台を北見に移したデビュー4戦目の牝馬限定戦。9番人気という低評価ながら2着に10秒近くの差をつけての圧勝となった。その後いちい賞、岩見沢に移ってあじさい賞と牝馬限定の特別戦を連勝し、次第に頭角を現しはじめる。初重賞の白菊賞は3着、ナナカマド賞は8着に敗れるも、ホクレン賞では9番人気という低評価を覆しての勝利、手綱を取った水嶋騎手ともども重賞初勝利となった。その後は牝馬限定の黒ユリ賞を制して重賞連勝。大一番イレネー記念では3着に敗れたものの、デビューシーズンの成績は21戦8勝で重賞2勝。受賞額7,756,000円はイレネー記念馬エビステンショウを抑えて2歳馬首位。若きヒロインの誕生である。

 2カ月の休養を経て迎えた3歳シーズン。さらなる飛躍が期待されたサダエリコだったが、年上馬との対戦や同年齢戦でもハンデが課せられ、なかなか勝てないレースが続く。三冠レース第一弾のばんえい大賞典ではシンガリ負け。続くクインカップ、はまなす賞でも着外と、苦戦が続いていた。
 そんな中で迎えた2003年8月31日のばんえいオークス。同い年の牝馬相手の定量戦というまたとない好条件、サダエリコは2着に8秒以上の差をつけて完勝。表彰式では井馬アナウンサーが「強いサダエリコが戻ってきた」と評したとおり、見事復活を果たした。続くばんえいダービーでは1番人気に推され、こちらも2着に10秒1の差をつけての大勝。ハイトップレディ(1998)、アンローズ(2002)に続く史上3頭目のオークス&ダービー馬となった。その後、北見コースに舞台を移して迎えたオールスターカップでは軽ハンデもあいまって、当時頂点に君臨していたスーパーペガサスらを抑えて単勝支持率5割を超える圧倒的な1番人気に応えての勝利。続くばんえい菊花賞にも勝って、この年4つ目の重賞勝ちを収めた。しかし、帯広に移ってからは一度も連対することなく、好不調の波がはっきりしていた馬でもあった。

 そして4歳を迎えたサダエリコ。5月には4歳馬の重賞・旭川記念を制し重賞7勝目、8月のはまなす賞を勝って8個目の重賞タイトル。この頃は古馬オープンが相手でも互角の勝負ができるようになっていた。そして圧巻はこの年の北見シリーズに移ってから。10月末のオールスターカップで連覇。帯広に移って銀河賞を制したほか、ヒロンイズカップ2着、チャンピオンカップ3着。北見・帯広で12戦して4-4-4-0。4着以下なしという抜群の安定感。

 この勢いは5歳シーズンになっても止まらず。旭王冠賞では7着に敗れるも、4着以下なしという安定したレースを続けた。岩見沢では北斗賞を制し、ばんえいグランプリと岩見沢記念は2着も岩見沢シリーズは9戦して6-2-1-0。北見では北見記念も制した。天才少女はいつしか「女傑」と呼ばれ、完全にばんえい競馬の中心を担う馬へと成長を遂げていた。ただ、一息入れた後の帯広記念以降は4戦連続で9着と、好不調の波が激しいのは相変わらずだった。

 6歳のシーズンを迎えたサダエリコ。シーズン初重賞の旭王冠賞を幸先良く勝利。しかし、その後はだんだん勝ちきれないレースが続き、勝ち星から遠ざかってしまう。いつもの一時的な不調の波に入ったのか? それともダイヤテンリユウの産駒は早熟馬が多いと言われてきたが、このサダエリコも例外ではなかったか? 結局このシーズンは24戦2勝、旭王冠賞のあとは1つも勝てないままのシーズンエンドとなる。
 そして帯広単独開催となった2007年4月。7歳になったサダエリコは6期目のシーズンを迎えた。北斗賞2着、ばんえいグランプリ3着と重賞では度々善戦するも、なかなか勝てないレースが続いた。そして、2008年1月オーロラ特別で1年7カ月ぶりに待望の勝利を挙げた後、オーナーの「ファンの期待を裏切らない引き際を」という思いから引退を表明。現役を退くことになった。

 1歳上のライバル、アンローズとともに、4市開催の最後を盛り上げたサダエリコ。獲得重賞は取りも取ったり、父ダイヤテンリユウを超える13個。これはばんえい競馬史上、牝馬による最多獲得重賞記録である。

文/高野直樹

サダエリコ
2000年4月3日生 半血 牝 鹿毛
父 半血・ダイヤテンリユウ
母 半血・雪椿
母の父 ペル・武潮
北海道河西郡更別村産
競走成績/138戦34勝(2002~08年)
収得賞金/36,863,000円
重賞勝鞍/06旭王冠賞(旭川)、05北見記念(北見)、北斗賞(岩見沢)、04銀河賞(帯広)、オールスターカップ(北見)、はまなす賞(岩見沢)、旭川記念(旭川)、03ばんえい菊花賞(北見)、オールスターカップ(北見)、ばんえいダービー(岩見沢)、ばんえいオークス(岩見沢)、黒ユリ賞(帯広)、02ホクレン賞(帯広)

ばんえい名馬ファイル(3) アンローズ

2010年7月27日(火)

気まぐれ夏のお嬢様 アンローズ

 帯広競馬場の入口を入ってすぐのところにある「リッキーハウス」。ここで売られている多くのばんえいグッズの中、ひときわ目立つのが鹿毛馬の写真が描かれたマグカップ。美人顔の鹿毛馬に付されたキャッチコピーは、

 「名門令嬢 アンローズ」

 その生い立ちはまさに華麗そのものといえよう。これまでに幾多の名馬を生んだ帯広市・三井宏悦牧場の生産馬。父は、ばんえい競馬史上最良の種雄馬の一頭であるマツノコトブキ。全兄は、ばんえい競馬史上3頭目の3歳三冠馬ウンカイ。母父は、こちらも大種雄馬マルゼンストロングホース、牝系を遡ると十勝種畜牧場で代々培われてきた純血ペルシュロン。近親には重賞8勝の偉丈夫コーネルトップ。さらには、父マツノコトブキにそっくりとも評されたきれいな白斑が印象的な美人顔。血筋も容姿も文句なし、まさに「名門令嬢」と呼ぶにふさわしい。

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 そのアンローズ。2001年のデビュー戦は5番人気で4着、2戦目は1番人気に推されながらシンガリ負け、初勝利を挙げたのは5戦目と、超良血馬としては若干物足りない滑り出しとなった。しかし、7番人気で臨んだ初めての重賞・白菊賞(2歳牝馬)を制して重賞ウイナーの仲間入り、青雲賞(オープン特別)では牡馬の一線級を相手に最低人気の評価を覆しての勝利と、夏の岩見沢で一気に良血開花! しかし、その後は旭川→北見→帯広と転戦するも連対は一度もなくシーズンを終える。このお嬢様、どうやら少々きまぐれなところがあるようだ。

 アンローズが本格化したのは3歳シーズン。旭川から北見に転戦し、ばんえいプリンセス賞で同年齢牝馬を、クリスタル特別では4歳馬を相手に特別戦を2勝、岩見沢へと乗り込んだ。1番人気に推されたばんえい大賞典では8着(やはりお嬢様は気まぐれである)に大敗するも、続くクインカップでは並みいる4歳牝馬をまとめて負かして重賞2勝目。9月下旬に旭川に舞台を移してばんえいオークスとばんえいダービーを連勝、1998年のハイトップレディ以来史上2頭目となる「ダービー&オークス馬」となった。しかし、この後は収得賞金の関係もあって、自己条件では古馬の強いところを相手にすることになってやや苦戦、また同世代相手ではハンデ差もあって勝ちきれないレースが多くなっていった。4歳時は結局重賞勝ちはゼロ。とはいえ、クインカップとヒロインズカップで重賞2着が2回、3着が3回(はまなす賞、オールスターカップ、銀河賞)は立派な成績だと言えるだろう。

 アンローズがさらなる飛躍を遂げたのは5歳、得意としていた岩見沢シリーズに移ってからである。2004年9月20日の岩見沢記念。出走取消馬が出て6頭立てのレースだったが、スーパーペガサスにミサキスーパーという牡馬2強を相手に、見事に勝利を成し遂げたのである。牝馬がいわゆる「開催4市記念重賞」を制したのは1997年のヨウテイクイン(北見記念)以来の快挙であった。そしてアンローズは返す刀で同年11月の北見記念にも勝利、一気に古馬戦線の中核を担う存在へ。この後、アンローズは岩見沢記念3連覇を達成、まさに「夏の女王」として君臨したのである。

enrose3.jpg

 そのアンローズ、実は帯広競馬場を苦手としており、帯広コースでは未勝利という状況が続いていた。名門のお嬢様はお膝元の競馬場がお気に召してなかったのだろうか?

 時は流れて2007年。4市の開催で行われていたばんえい競馬は、帯広単独での開催として新しく生まれ変わることとなった。8歳となったアンローズは7月から戦線に復帰、これまで44戦して未勝利の帯広競馬場での戦いに赴くことになった。ファンにとっては「苦手な帯広コースでは勝てないのでは」という思いの反面「得意の夏競馬なら帯広も克服、初勝利を挙げられるのではないか?」という思いが交錯していた。初戦となった北斗賞では4着、平場戦(4着)をはさんで臨んだばんえいグランプリでは1番人気(!)に推されるも、結果は8着(お嬢様は気まぐれだし)。グランプリの後3カ月の休養を入れて11月からレースに戻るもどうしても勝てないレースが続く。

 年は明けて2008年、アンローズも9歳となった。年齢が年齢だけに「そろそろ引退では?」との声も聞こえてくる中で迎えた2月17日、牝馬オープンのたちばな賞。サダエリコや頭角を現してきたフクイズミらが出走する中、4番人気のアンローズはここで見事に勝利! 56戦目にしてついに、お膝元での初勝利を達成した。

 数日後、陣営はアンローズの引退を表明。その後はオープン特別で、今度は1番人気に応えて帯広コースでの連勝を果たし、引退レースとなるばんえい記念を無事完走(7着)。ところどころでファンを翻弄したお嬢様は、繁殖牝馬として生家である三井牧場に戻っていった。初年度のお相手は同い年、同じ牧場で生まれたトウカイシンザン。順調なら産駒は来春(2011年)デビューとなる。

文/高野直樹
写真/斎藤友香

アンローズ
1999年5月27日生 半血 牝 鹿毛
父 半血・マツノコトブキ
母 半血・ミハル
母の父 ベルジ・マルゼンストロングホース
北海道帯広市生産
競走成績/145戦33勝(2001~08年)
収得賞金/38,670,000円
主な勝鞍/06北見記念(北見)、岩見沢記念(岩見沢)、05岩見沢記念(岩見沢)、04北見記念(北見)、岩見沢記念(岩見沢)、02ばんえいダービー(旭川)、ばんえいオークス(旭川)

ばんえい名馬ファイル(2) キヨヒメ

2010年6月10日(木)

ばんえい史上屈指の女傑 キヨヒメ

kiyohime.JPG

 「今度こそ」

 昭和63年、3歳能力試験の朝。

 キヨヒメニセイの関係者たちの意気込みは、相当なものがあった。3歳能力試験は年に5回行われるが、その日が最終日であり、今回合格しなければ、競走馬としての資格は無く、レースにも出走できないわけである。その前年もキヨヒメの初仔が不合格となり、その熱の入り方もひとしおであった。

 そのキヨヒメニセイであるが、芦毛の牝馬で父に昭和55年度『農林水産大臣賞典(※1)』馬ダイケツ、母にその大臣賞を三度制覇した女傑キヨヒメと、輝かしい経歴の両親を持った良血馬である。当時のスポーツ紙でも取り上げられ、その年の能力試験の話題の中心であった。しかし四度の能力試験挑戦も不合格となり、今回が背水の陣である。古くからばんえい界には『現役時代に活躍した牝馬からは良い仔が産まれない』というジンクスがあり、このジンクスは関係者の脳裏にもわずかながらでもあったかもしれない。

 スタート。金山明彦騎手が必死に気合を入れるが、関係者の「今年こそ」の願いも届かず、この良血馬は二度と本走路を走ることはなかった。十歳の定年まで牝馬が高重量を引き、戦い抜くのである。その全能力を競走で燃焼し尽くしたのであろう。

 母としてその名を残すことができなかった女傑キヨヒメは、道東の紋別町で生まれた。3歳デビュー当時から障害巧者と呼ばれ、その競走歴は『岩見沢記念』、昭和54年(旭川)・56年(帯広)・57年(北見)と『農林水産大臣賞典』を3回優勝。3回優勝はのちにキンタロー、フクイチが達成するが(※2)、当時は現在のように冬期開催は実施されておらず、砂の深い旭川、北見と雪の上で行われスピード化している現在の帯広の大臣賞とは評価が違ってくる。女傑と呼ばれるにふさわしい大記録である。

 初の大臣賞優勝は6歳の秋、旭川競馬場だった。当時騎手としてキヨヒメに騎乗していた山田勇作調教師は、「出走が決まった日に林調教師にいちばん最初に言われたのが『大事に乗ってくれ』だったんです。牝馬ですからね。結果は楽勝でしたけど、やはり心配だったんでしょう。強くて、障害だけは絶対に心配ない馬でした。あの大臣賞は今でもはっきり憶えていますよ。勝った翌年から私は同厩舎のハヤホマレに騎乗したのですが、私の騎手生活で大臣賞は3回優勝しましたが、キヨヒメが現役最後の大臣賞馬ですからね」

 「2分36秒8」

 林正男調教師にキヨヒメの話を聞こうと練習走路に会いに行った時のことである。「先生、キヨヒメの話なんですが」の問いかけに、「2分36秒8で勝ったんだよ」

 昭和54年、20年以上も前の話である。

 驚くと同時に熱いものを感じさせられた。「山田騎手に大事に乗ってくれと頼んだのはね、当時は今と違って牝馬優遇の20キロ減量制がなくて10キロだけだったんですよ。6歳の若馬でそれも牝馬で990キロは極量ですよ。そりゃあ、出走させるには馬主さんともずいぶん話し合って決めましたよ。高重量を若馬に経験させると、その後のレースにどうしても悪影響が出ることが多いんです。どうしても障害で止まってしまうとかね。勝てるなんて思ってはいなかったが、恥ずかしいレースだけは絶対しない自信はありましたよ。それに牝馬限定戦では比較的活躍できなかったが、牡馬との追い比べになると本当に強かったね。ばんえいの調教師になったからには誰でも一度は夢見る大臣賞の表彰台に四度も立たせてもらったんですからね。本当にキヨヒメとダイケツは忘れられない馬ですよ」

 ばんえい競馬は、指定馬制度を採用してレースが行われている。自分で乗り馬を選ぶことのできる騎手とは違い、レースの選択権のない調教師に大記録が生まれた。平成10年11月30日の帯広競馬場、4歳馬シャリアヤメで開業21年目にしてばんえい史上初の1000勝を達成した林正男調教師。現在(※3)ばんえい調騎会会長である。

文/小寺雄司

(馬齢は当時の旧年齢で表記)
※1:現・ばんえい記念
※2:その後、スーパーペガサスが4連覇、トモエパワーが3連覇を達成
※3:1999年当時

キヨヒメ
1974年4月10日生 重系 牝 芦毛
父 ペル・楓朝
母 重系・豊栄
母の父 重系・蘭月
北海道紋別郡興部町生産
競走成績/168戦20勝(1976~83年)
収得賞金/87,992,000円
主な勝鞍/79年農林水産大臣賞典(旭川)、81年岩見沢記念(岩見沢)、農林水産大臣賞典(帯広)、82年農林水産大臣賞典(北見)

月刊「ハロン」1999年8月号より再掲

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