コロナの世になってから3年近く。遠方への移動の制限もなくなり、競馬場は入場人員の上限が設定されていることもあるが、ひとまず多くのファンが入場できるようになった。
我々の取材に関しても、まだ一部制限している競馬場はあるものの、多くの競馬場で以前と近いかたちで取材ができるようになってきた。
園田競馬場には、今年9月15日の西日本ダービーが、コロナ以降では初めての訪問だった。そして12月21日、兵庫ゴールドトロフィーが今年2度目の取材。
コロナ禍では、ありがたいことに多くの競馬場でむしろ売り上げが伸び、ネットでのLIVE配信なども盛んになって、おそらく新規ファンも増えたことだろう。しかし競馬場では無観客開催が続いたことなどで失われつつあるものも少なくない。それは古き良き競馬場の風景。
園田競馬場では、入場門を入って右側にある食堂街が、すべてシャッターを下ろしてしまった。ちなみに、そのだ・ひめじ競馬の公式サイトにある、園田競馬場の場内施設案内図には、まだ「食堂」という表記が残っているのだが。
シャッター街となってしまった入場門を入って右にある食堂
いちばん手前にあったのが『ポニー』というお店。店内には騎手のサインや、昔の重賞の口取り写真などが飾ってあった。ここで食べた記憶は、そばめし。10年以上前だったか、そばめしが全国的なブームになったことがあり、冷凍食品としてスーパーなどに並んだこともあった。たしかそのブームが去ったあと、ここでそばめしを食べたのだが、店員のおばちゃんが言うには「そばめしは関西では昔から普通にあった」という関西のソウルフード。そしていつも食後にはコーヒーをサービスしてくれた。
『ポニー』のそばめし、500円(2014年9月)
この食堂街の一番奥にあったのが『三木屋』。あまり目立たない場所なので、カウンターに座っているお客さんの多くは常連さん。このお店で出色だったのが、プルコギライス。これがワインコイン、500円で食べられるのはありがたかった。
『三木屋』のプルコギライス、500円(2016年9月)
これら、おそらく昭和の時代から営業していたと思われるお店が相次いで閉店したのは、コロナだけが要因ではない。店主や店員さんがみな高齢となり、跡を継ぐ人もなく、引退という感じで閉店したお店は、園田競馬場に限らず全国の競馬場で、少なくない。
園田競馬場には、パドック奥にも食堂街がある。こちらはシャッターが降りているところもあるが、半分くらいは元気に営業している。
向かって左、コースから一番遠いところにあるのが、園田競馬場名物、タコ天で有名な『明石屋』。隣に『日高』という表記があるが、このお店は食堂街の真ん中あたりの広い店舗に移動して営業している。そしてホルモン専門の『西ホルモン』。
さらにその右にあるのが『園田屋』で、いちばん右のコースにもっとも近いところにあるのが、わりと最近(といっても10年くらいは経っていると思われる)オープンした『串勝や』。
園田競馬場で、定食やら麺類から、おでんなど酒のアテになるようなものまで、さまざまな食を提供しているのが『園田屋』だ。
ここで僕がよく食べたのは、焼きそば定食。
『園田屋』の焼きそば定食、750円(2018年7月)
炭水化物の二乗ということでは、関東では「ありえない」という人もいるが、ラーメンライスは普通にあるので、それと変わりないと思えばいいのではないか。僕は学生のころ、家でスパゲティ+ご飯とか食べてたし。ちなみに関西では、焼きそば定食というメニューがわりと普通にどこでもあって、お好み焼き定食というのもある。
久しぶりにその焼きそば定食が食べたくなって、この日、いざ園田屋へと入ったのだが、なんと。メニューから焼きそばが消えていた。ショック。そういうわけで、食べたのが親子丼。ここの親子丼は、玉子には完全には火を通さず、そして青ネギを使っているのが特徴。
『園田屋』の親子丼、700円(2022年12月)
さて、この園田屋さんはいつから営業しているのか、聞いてみた。すると......
「90年」と。
ん?1990年から?と思ったが、そんな最近のわけがない。なんと!90年前から、3代に渡って受け継がれているのだそうだ。ああ、びっくり。
仮にちょうど90年前とすると、1932年は昭和7年。園田競馬場の歴史を地方競馬全国協会発行『地方競馬史 第一巻』で調べてみると、戦前の地方競馬規則のもと、旧・園田競馬場が兵庫県川辺郡園田村(当時)に開場したのが昭和5年(1930年)とある。「90年」というのは、おそらく「ちょうど90年」ということではないだろうから、園田屋は、旧・園田競馬場の開場とほとんど時を同じくして営業を始めていたことになる。
当時、庶民の食べ物として親子丼というメニューがあったかどうかわからないが、とにかく90年の歴史を重ねた親子丼かと思うと感慨深い。
さて、園田競馬場で忘れてはならないのが、吉田勝彦アナウンサーだ。
実況を引退されてほとんど表に出ることはなくなったが、実は今でも開催日には毎日、実況席に"出勤"して競馬を見守っておられる。
この日も吉田さんはお元気にしておられた。
吉田さんの実況最後の日となったのが、2020年1月9日。その日の第6レースが最後の実況となり、その後、そのたんショップの前で行われたサイン会はたいへんな行列となって、並ぶ人数が制限されるほどだった。引退セレモニーには、小牧太騎手や岩田康誠騎手も来た。
マスコミのカメラもズラリと並んだ吉田勝彦さんのサイン会(2020年1月9日)
中国ではすでに新型コロナウイルスが発生していたが、大型客船ダイヤモンド・プリンセス号の乗客から感染者が確認されたのは1月下旬のことだから、まだまだ日本ではコロナはほとんど知られていない存在だった。
しかしその後、コロナが日本にも上陸してあっという間に広がり、各地の競馬場が無観客開催となったのが2月下旬のこと。
1月9日が最後の実況となったのは、その翌週から姫路開催となり、「園田で実況を終えたい」という吉田さんの思いからだった。
7年半ぶりに姫路競馬が再開したのは、まさにその2020年。姫路がなければおそらく1月9日という年初の慌ただしい時期での引退とはなっていなかったはずで、仮にそれが年度替りの3月までということであれば、すでにコロナの無観客開催となっていて、引退セレモニーなどは不可能だった。
「最後の実況に日には、たくさんのお客さんに来てもらって、ほんとうによかった」と吉田さんが、懐かしく思い出すように語ってくれた。
そんなあれやこれやを思い出すと、吉田さんの引退のタイミングというのは、ほんとうに幸運だった。と、しみじみ思う。
ばんえい競馬のトップジョッキーとして活躍してきた松田道明騎手が調教師試験に合格(12月1日付免許)、11月28日がラストライドとなった。
重賞での最終騎乗となったのは、前日27日のドリームエイジカップで、コウシュハレガシーに騎乗して5着。最終日となった28日の第7レースではダイヤディープで勝利を挙げた。
そして最後の騎乗となったのが最終レース。3番手で第2障害を越え、一旦は前に迫る見せ場があったが、5着でゴール。1990年4月のデビューから、通算21,673戦2,630勝という成績を残した。
その最後の騎乗のゴール後には、騎手たちからの胴上げとなり、その様子はばんえい十勝の公式YouTubeの動画で見ることができる。
引退セレモニーなどは、本人の意向により残念ながら行われれず、引退に際してのコメントは、ばんえい十勝の公式サイトに掲載されている。
松田道明騎手といえば、思い出されるのはカネサブラックだ。ばんえい記念2勝を含め重賞21勝は、その後オレノココロに更新されるまで、ばんえい競馬の重賞最多勝記録だった。
松田騎手がカネサブラックの主戦となったのは、2007年5歳時の9月から。その後は一度も他の騎手に手綱を譲ることがなく、松田騎手では重賞18勝。カネサブラックが古馬路線の中心勢力となってからのほとんどの時期のパートナーであった。
2011年、1度目のばんえい記念制覇が、松田騎手にとっても初めてのばんえい記念制覇でもあった。
翌2012年のばんえい記念は、残念ながら馬インフルエンザの影響で出走できず。前哨戦とも言える帯広記念を勝っていただけに、もし出走できたらと思わざるをえない。
そして2度目のばんえい記念制覇は2013年で、これがカネサブラックの引退レースでもあった。第2障害を先頭で越え、何度か止まりながらも単独先頭をキープ。しかしゴール前10mで一杯に。松田騎手は体がうしろに倒れそうなほどバイキ(手綱を大きく引いて反動をつけること)しても、カネサブラックは前脚を突っ張って動かず。いよいよギンガリュウセイが迫ってきたとき、カネサブラックはそれに気づいたのか、最後の力を振り絞って歩き出し、先頭でのゴールとなった。
2013年3月24日、引退レースとして臨んだばんえい記念を制したカネサブラック。松田道明騎手の渾身のバイキでゴールを目指す
この年のばんえい記念の1着賞金は300万円。バブル期の1989年以降、ばんえい記念の1着賞金は長らく1000万円で続いてきたが、売上の減少にともない2003年以降、賞金も徐々に減少。この年はばんえい記念の賞金がもっとも落ち込んだ年でもあった。
その後、2017年に再び1000万円に復活するのだが、カネサブラックはばんえい競馬のどん底の時期を王者として支えた存在でもあった。
松田騎手はその後、2016年にもフジダイビクトリーでばんえい記念を制した。
ばんえい競馬は2006年度に売上げの減少による廃止の危機があり、しかし翌07年年度からは帯広市の単独開催で存続。その後も経営的には苦戦を続け、先行き不透明なことから引退する騎手はいても、あらたにデビューする騎手が出てこないという時期があった。
2011年1月には、赤塚健仁騎手、島津新騎手、西将太騎手など4名の騎手がデビューし、2012年1月には舘澤直央騎手(引退)がデビューしたが、その後はしばらく新人騎手のデビューが途絶えた。
8年近くの空白があって新人騎手となったのが、2019年12月にデビューした林康文騎手。カニ漁師からの転身で、38歳でのデビューということでも話題になった。
2020年12月には金田利貴騎手が続き、そして今年12月には、今井千尋騎手、小野木隆幸騎手、中村太陽騎手と、3名の騎手が新たにデビューすることになった。
ここ10年ほど、地方競馬全体で売上が回復を遂げたなかで、ばんえい競馬も順調に売上を伸ばしてきた。そして今年、多くの地方競馬主催者で、売上の伸びが頭打ちになったかという状況にありながら、ばんえい競馬は今年度10月末現在、総売得額で前年同期比115.3%、1日平均で同114.0%と、いまなお伸びを見せている。
とはいえ、厩務員不足や、後継者不足による重種馬の生産頭数の減少など、ばんえい競馬をとりまく環境は、まだまだ憂慮すべきことは少なくない。
それでも新人ジョッキーが増えることでの騎手の世代交代は明るい話題といえる。
22年目を迎えるJBC開催が近づいた。今年は、2014年以来、8年ぶり3度目となる盛岡開催。
現在の地方競馬で、スプリント、クラシックの基本距離である1200m、2000mのレースができるのは、大井と盛岡だけ。船橋にも両距離の設定はあるが、コース形態の関係から1200mでは重賞などの主要競走が行われておらず、2000mは近年ほとんど実施されることがなくなった。
その盛岡競馬場が移転・オープンしたのが1996年。施設面でも充実していたことから、第1回の大井に続いて、第2回(2002年)のJBC開催場となった。そのときの入場者は14,287名。2度目の盛岡開催となった2014年の10,331名と比べるとかなり多い。当時はまだ馬券のネット発売があまり一般的ではなく、売上の大部分を本場および場外発売施設が占めている時代だった。
中央競馬では、ダート競馬がまだまだ芝に対して格下に見られていた時代。オープンクラスの馬で、デビューからずっとダートを使われてきたという馬は少なかった。中央の2・3歳戦はオープンクラスのダートのレースがごくわずかだったという番組的な事情もある。
JBCスプリントを制したスターリングローズは、デビューこそダートだったが、3歳春には毎日杯や青葉賞に出走するなどクラシック戦線を目指した。JBCには南部杯7着からの参戦で、1200mは芝も含めて未経験の距離だった。
JBCクラシックを制したアドマイヤドンは、皐月賞7着、日本ダービー6着、そして菊花賞4着からの参戦。2歳時には朝日杯フューチュリティステークスを制しており、芝・ダート双方でのGI制覇で話題となった。アドマイヤドンはその後、JBCクラシック3連覇を果たすなど、ダートで不動の地位を築いた。
当時は盛岡のダービーグランプリが中央との交流GIとして行われており、この年の勝ち馬は、のちにダートのチャンピオン種牡馬となるゴールドアリュール。この馬も日本ダービー5着という実績があり、その後、ジャパンダートダービーからダービーグランプリを連勝。芝でもそこそこの実績を残した馬の中で、ダート適性の高い馬が、ダートのチャンピオンとなる時代だった。
コースも含めた施設面で充実していた盛岡競馬場だが、2度目にJBCが行われたのは2014年。干支が一回りもするほど期間が空いてしまったのにはわけがある。
ひとつは財政難。地方競馬専用の競馬場としては唯一、芝コースも完備された豪華施設の盛岡競馬場の移転が計画されたのはバブル期。しかしその後、地方競馬全体で売上が下がり続け、岩手競馬は盛岡競馬場建設の借金の返済も重なり、累積赤字に苦しむことになった。そして2006年度に岩手競馬は廃止の方向に動き出した。しかし、年度末ギリギリの07年3月中旬、県議会の採決でわずか1票差で存続。首の皮一枚で岩手競馬の歴史が継続された。
もうひとつは東日本大震災。存続が決まったとはいえ、苦しい経営は変わらず、さらに追い打ちをかけるように起こったのが、2011年の震災だった。水沢競馬場はスタンドなどに被害があったが、内陸部にある盛岡競馬場はほとんど被害がなかった。とはいえ競馬を開催できるような社会情勢ではなく、そもそも苦しい財政状況ながら、売上の中から震災復興に資金を拠出することで、競馬が再開されたのは5月中旬のことだった。
それから3年が経過。2014年のJBC盛岡開催は、震災復興の象徴のひとつとして行われた。地方競馬全体の売上でも2011年を底に売上が上昇に転じ、明るい未来が見えてきた時期だった。
そして今年、3回目となるJBC盛岡開催は、地方競馬全体の売上が好調に推移してきたこともあり、賞金が大幅アップした。
第1回のJBCは、地方競馬初の1着賞金1億円(JBCクラシック)として始まり、JBCスプリントも8000万円。しかしJBCレディスクラシックが加わった2011年からは、クラシックは8000万円、スプリントは6000万円に減額となり、レディスクラシックは4000万円(13年から4100万円)で続けられてきた。それが今年、クラシック1億円、スプリント8000万円という当初の高額賞金が復活。レディスクラシックも6000万円となった。
日本の競馬では、レースの賞金は1着賞金で言われることが多いが、欧米では総賞金として表されるのが一般的。総賞金で言うなら、JBCクラシック1億7000万円、スプリント1億3600万円、レディスクラシック1億200万円となる。
また同日盛岡競馬場で行われる重賞、3歳以上芝のOROカップは1着3000万円(昨年1000万円)、2歳馬による芝のジュニアグランプリは同2000万円(昨年400万円)と、ダートグレード並みの賞金に大幅アップしての実施となる。
今回のJBC当日は、地方競馬の1日1競馬場の賞金としては、おそらく過去最高額で争われる、記念すべきJBC開催となる。
9月25日に佐賀競馬場で行われた3歳馬によるロータスクラウン賞は、人気にもなってはいたが、高知勢のワンツー。3コーナー過ぎで先頭に立ったガルボマンボをヴェレノがとらえにかかっての直線一騎打ち。ヴェレノがゴール前でとらえてのハナ差は見ごたえのあるレースだった。
4コーナーでは地元のザビッグレディーもこの争いに加わったものの、結果は8馬身離されての3着。今の高知の勢いとレベルの高さを感じさせる結果でもあった。
高知の三冠では、一冠目の黒潮皐月賞をヴェレノが制し、二冠目の高知優駿、三冠目の黒潮菊花賞をガルボマンボが制していたが、これで高知から佐賀への計四冠で、高知の3歳2強が二冠ずつ星を分け合うこととなった。
高知の勢いといえば、9月はそのほかにも他地区に遠征しての活躍が目立った。
15日、園田競馬場で行われた西日本ダービーは、勝ったのは7連勝中だった金沢の二冠馬スーパーバンタムだったが、逃げた高知のフィールマイラヴが直線でも食い下がり、惜しくもクビ差2着。黒潮皐月賞では勝ったヴェレノから3秒も離されての10着で、その後は1勝を挙げたのみ。8番人気という低評価は当然で、それでいて接戦の2着と言う結果は、ここでも高知の3歳世代のレベルの高さを示したと言っていいだろう。
翌週23日、再び園田の園田チャレンジカップでは、佐賀・サマーチャンピオンJpnIIIで2着に好走した地元のコウエイアンカが1番人気に支持されたが、自慢の末脚不発で5着。7番人気のダノンジャスティスが逃げ切り、10歳でも衰えを知らないダノングッドが2着で高知・別府真司厩舎のワンツー。ダノンジャスティスは地元で近3戦連続で掲示板を外していたため人気を落としていたが、6月の園田FCスプリントでは、ダノングッドが5馬身差で圧勝し、ダノンジャスティスは2着。今回は1、2着が逆になってという決着だった。
そして27日、名古屋の秋の鞍。デビューから6連勝で園田オータムトロフィーを制した兵庫のエコロクラージュが断然人気に支持され、4コーナー手前で一旦は先頭に立ったものの、高知の牝馬アンティキティラが内から抜け出して勝利。地元名古屋のコンビーノがゴール前でエコロクラージュをとらえ2着に入った。
アンティキティラは、2歳秋から6連勝で佐賀・花吹雪賞、名古屋・若草賞を勝利。高知三冠では最有力候補と期待され、黒潮皐月賞では1番人気に支持されるもヴェレノにアタマ差2着。その後調子を崩して高知優駿では5着。夏は休養して立て直し、9月10日の栴檀特別では3着に入って復活のきざし。そして再び名古屋に遠征した秋の鞍で約7カ月ぶりの重賞制覇となった。
高知勢のこのような遠征しての活躍は、最近始まったことではない。打ち上げがドン底だった時期にも高知の馬は他地区に遠征して活躍した。
たとえば2010年。中央1000万条件(現2勝クラス)から高知に移籍したグランシュヴァリエは、その初戦として1月3日の川崎・報知オールスターカップに遠征し、8番人気ながら2着に入る健闘。さらにその年、盛岡のマイルチャンピオンシップ南部杯JpnIに遠征すると、4コーナーでは先頭に立とうかという行きっぷりで、12頭立ての11番人気ながら3着に激走。3連単132万馬券を演出した。
時間は前後するが、2008年4月25日の笠松・オグリキャップ記念では、前年の高知県知事賞を制していたスペシャリストが3番人気で勝利。3着には8番人気だった高知のサンエムウルフが入り、3連単は20万円の配当がついた。
当時、もっとも積極的に遠征を重ねていた調教師のひとりが、グランシュヴァリエを管理していた雑賀正光調教師で、「高知の賞金が安かったから、遠征して稼ぐしかなかった」と振り返る。
その後、高知の売上がV字回復を遂げると、高知から他地区への遠征が目に見えて減った。なぜか。「高知の賞金がよくなったから、遠征する必要がなくなった」と雑賀調教師。
ところがここ2、3年、再び高知から他地区への遠征が増えてきたのは、地方競馬全体の売上上昇にともない、重賞レースを中心に、全国的にかつてないほど賞金が上昇しているためと思われる。
前半で触れた9月の高知所属馬の活躍だが、ロータスクラウンこそ高知の2頭に人気が集中していたため堅い決着だったが、西日本ダービーは、勝ったのが断然人気のスーパーバンタムでも、2着フィールマイラヴとの馬連複は2170円。園田チャレンジカップでは、勝ったダノンジャスティスの単勝が2550円で、馬単9920円、3連単は10万2360円もついた。
高知からの遠征馬は、ときに高配当も連れてくる。
熊本県の荒尾競馬が廃止になったのが2011年12月のこと。早いものであれから10年以上が経過した。
そうしたタイミングで、8月1日に発行された荒尾市の広報紙の表紙写真が荒尾競馬場のスタンドで、以下のようなキャッチが記されている、
今秋、競馬場スタンド解体予定!
荒尾競馬場、これが本当の
最後(ラスト)。
『広報あらお』PDFはこちら
表紙写真のウイナーズサークルに立っている男性は、本文を見ると、工藤榮一元調教師のようだ。
荒尾競馬場は、廃止後も場外発売施設の『BAOO荒尾』および『J-PLACE荒尾』として引き続き使用されてきた。それが今年6月、かつてのコースの一角だった場所に移転してリニューアルオープン。『あらお海陽スマートタウン』という新たなまちづくりの拠点として再開発されるため、この秋からスタンドの解体が始まるとのこと。
それに先立ち、『荒尾競馬場スタンド自由見学会』が8月28日に実施される。10時から16時まで(最終入場15時30分)、自由参加の見学会となっている。解体前に、在りし日の荒尾競馬場の姿をもう一度見ることができる、という企画だ(詳しくはこちら)。
これはわざわざ九州まで足を運んで見ておきたい!と思ったが、残念ながらその日はすでに仕事が入っているのだった。残念。
オッズパークで地方競馬の馬券発売が始まったのは、2006年4月のこと。その当時、オッズパークで発売対象だったのはわずか4主催者。そのうちのひとつが荒尾競馬だった(ほかには、岩手、笠松、佐賀)。
じつはこのブログもオッズパークのオープンと同時に開設し、4月2日付け最初のコラムには以下のようにある。
(以下、引用)
それにしても考えてみればスゴイ時代になったもの。いきなりオヤジっぽい発言で申し訳ない。地方競馬の馬券がインターネットで買えて、しかもレース映像まで見られるような時代がくるとは、10年前に誰が想像しただろう。そもそも10年前といえば、まだインターネットというもの自体がそれほど一般的でなく、文字だけのパソコン通信でせっせと情報発信と収集をしていた時代だった。
地方競馬といえば、情報が極めて少なく、現地に行かなければレースを見ることもできないし、馬券だって買えなかった。
つまりは、地方競馬の大レースなんかを知っているというのは、競馬場まで出かけて行って見た人だけの特権であり財産でもあったわけだ。
(中略)
それで思うのは、こうして東京でパソコンの前にいるだけで、岩手や笠松や佐賀や荒尾のレースの予想を出しちゃおうというのだから、時代は変わったなあとしみじみ思うのである。
(引用、ここまで)
16年という時の流れを感じさせる内容で、なんとも感慨深い。
たとえばここ10年以内に競馬を始めたというファンには、「競馬場まで行かなければ馬券は買えないし、レースも見られない」というのは、信じられないことなのではないか。
それから5年後の2011年9月、荒尾市が荒尾競馬廃止を表明。同年12月23日が最後の開催となり、足掛け84年に及ぶ荒尾競馬の歴史に幕を下ろした。
荒尾競馬最終日、最終レース後、ファンに挨拶する騎手たち
荒尾競馬が廃止となった2011年といえば、地方競馬全体の売上が1991年ピーク時の約3分の1の3314億円余りにまで落ち込んだ年。
ところが皮肉なことに、その年を境に翌2012年に始まったJRA-PATでの馬券発売などによって地方競馬は売上が回復しはじめるのだが、あの日、あのとき、地方競馬の売上がV字回復する未来などまったく見えなかった。
仮に、荒尾競馬や、その後2013年3月限りで廃止となった広島県の福山競馬が開催を続けていたとして、明るい未来があったのかどうか、それはわからない。なにしろ日本における軽種馬の生産頭数は、1992年の12,874頭をピークに、2012年には半減に近い6,837頭にまで落ち込んでいるのだ(その後、2021年には7,733頭まで回復)。
荒尾競馬の開催最終日には、普段の10倍近い8,935名の入場があった。涙もあったが、関係者には多くの笑顔もあった。時代の変化には抗えず、「やりきった」という笑顔だったのだろう。
そしてさらに10年の時が流れ、場外発売施設として往時のままの姿を残していた荒尾競馬場のスタンドやパドックなども、ついにその姿を消すことになる。8月28日の見学会は、その思い出を胸に刻む最後の機会となる。