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斎藤修NAR『ウェブハロン』、『優駿』、『週刊競馬ブック』、『競馬総合チャンネル』などで地方競馬を中心に記事を執筆。グリーンチャンネル『アタック!地方競馬』『地方競馬中継』解説。1964年生まれ。

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【コラム】大波乱の銀河賞を振り返る

 9月26日に行われた、ばんえい競馬の4歳シーズン三冠の二冠目、銀河賞は、7→10→6番人気という決着で、3連単は100万8700円の大波乱となった。
 ばんえい競馬の重賞では、2017年2月12日黒ユリ賞(勝ち馬:キタノミサキ)の213万6910円が最高配当で、次が2013年11月24日ドリームエイジカップ(勝ち馬:トレジャーハンター)の163万6860円、今回の銀河賞は重賞ではこれらに次ぐ3番目の高配当だったとのこと。ちなみにばんえい全レースでの最高配当は、2019年4月29日第1レースの284万4100円となっている(いずれも賭式は3連単で、五重勝・七重勝式は除く)。
 
 銀河賞は、なぜそれほどの高配当になったのか振り返ってみたい。
 
 ひとことで言えば、"人気薄の逃げ馬"ということになるだろう。ただ平地の競馬で"人気薄の逃げ馬"といえば、人気のない逃げ馬が単騎で逃げて、それを軽視した人気馬たちが互いに牽制しあって逃げ馬をとらえきれず、というもの。しかし今回の銀河賞でそれとはちょっと異なるのが、人気薄の先行馬複数が逃げ切ってしまったということ。これはばんえい競馬特有のセパレートコースがひとつ要因となったと考えられる。
 
 レースが終わって、結果と枠順を見て、ハッ!と気づいた。今回、人気を集めた近走の実績馬4頭が、7〜10番の外枠に固まっていた。一方で先行してそのまま行ききってしまった人気薄上位3頭は1〜3番だった。
 
 ばんえい競馬は、なんとなく見ていると第2障害からが勝負のように思えるが、本質はそうではない。
 もう何年も前、元騎手で引退後に亡くなられた鈴木勝堤さんから現役のときに聞いた話が強く印象に残っている。
 曰く、「第2障害の手前に着いた時点で、八割方、勝負はついている」と。
 勝堤さんは、ときに大げさな表現を使うこともあるので話八分としても、第2障害に到着するまでに、相当に騎手同士の駆け引きが行われているということだ。
 第1障害から第2障害の間では、騎手は自分の馬の脚色や手応えだけでなく、相手の馬の脚色や手応えも見ながら、息を入れたり刻んだりしている。そしてどれだけ余力を残して第2障害を仕掛けていけるか。それが勝敗を大きく左右する。
 我々見ているファンとしては、第2障害をひと腰で越えたか、二腰、三腰かかったか、もしくはヒザを折ってしまったか、などで一喜一憂することがほどんどだが、じつはそれはレース全体のほんの一部でしかない。
 
 それで先に触れた今回の枠順だ。
 人気の実績馬が外枠のほうに4頭。第2障害までの中間点では、当然、近くにいる相手がライバルと思い、互いを意識することになる。
 一方、すいすいとレースを引っ張ったのが、人気4頭からはやや離れた3番ヤマトタイコーの渡来心路騎手だった。2番フォルテシモも、これに連れられるように動いていった。
 外枠人気馬の騎手たちも当然その動きを見てはいただろうが、しかしライバルは近くにいる。それだけに第2障害で仕掛けるタイミングも難しかったのではないか。
 ヤマトタイコーの渡来騎手は、人気の一角ゴールドハンターが第2障害の下に到達する前のタイミングで仕掛けていった。そして難なくひと腰で越えたが、手前の人気馬たちの動きを見ていると、これはいかにも早仕掛けに見えた。
 しかしそれは人気馬たちを中心に見ていたからであって、このときのやや軽い馬場(水分量2.2%)ではそうではなかった。ヤマトタイコーに、フォルテシモも続いた。この2頭の先行勢が早すぎたのではなく、結果論ではあるが、人気有力勢が溜めすぎた。
 ひとつ誤算があったとすれば、断然人気キョウエイリュウが障害でヒザをついてしまったことか。もしひと腰なら3番手のコウシュハボブと同じようなタイミングで越えていたはず。ただそれにしても楽に逃げ切ったヤマトタイコーをとらえるまでは難しかったと思うが。
 人気馬の中では第2障害でおそらく最後に仕掛けたゴールドハンターが、障害を越えてからの自慢の末脚で4着まで押し上げた。それでも先行勢をとらえきれなかったのは、やはり人気有力勢は互いを意識しすぎて仕掛けるのが遅かった、という結果ではなかっただろうか。
 
 そしてもうひとつ。世代限定の重賞で50kgも60kgもハンデ差がつくと、ハンデを背負った馬たちはよほど能力差がないと勝ちきるのは難しい、ということもある。
 逆にいえば格付けの妙で軽ハンデとなった馬が狙い目となる。今回でいえば3着のフォルテシモは、B1を連勝してもなお今回B1格付けで、牝馬の20kg減もあってトップハンデのカイセドクターとは60kg差の690kg。ただ勘違いしないでほしいのは、ハンデ差が大きいときに単純に最軽量の馬を狙え、ということではない。フォルテシモはここ7戦ですべて3着以内の好走。現在の格付け以上に力をつけていたと考えられる。
 また、勝ったヤマトタイコーは、ばんえいダービー2着、柏林賞3着という重賞実績があっても人気がなかったのは、近走の着順からだろう。しかし過去の重賞実績で賞金を稼いでしまった馬は、実際の能力以上のクラスに格付けされたことで、自己条件では惨敗が続くということはある。それが今回は同世代同士の対戦となって、カイセドクターより30kg軽く、またキョウエイリュウより20kg軽い720kgは有利だった、と考えることができる。
 ちなみに、予想で△を付けたフォルテシモ、▲のヤマトタイコーについては、予想の段階でもそのようなことを書いていた。
 ところが今回、そうした理屈も及ばないほど激走したのが、2着のコマサンダイヤだった。近走の成績からA1格付けの730kgではいかにも厳しい。それゆえの最低人気だったのだろう。しかしそのコマサンダイヤにしても、イレネー記念、ばんえい大賞典という同世代同士の重賞で2勝という実績があった。
 
 余談にはなるが、同世代同士の重賞で50kg以上のハンデ差があっても勝ちまくったのが今年9歳のセンゴクエースだった。4歳時のポプラ賞、銀河賞、5歳時のポプラ賞では、いずれも最大60kgのハンデ差をものともせず、いずれも完勝。センゴクエースはやはり10年に1頭出るか出ないかという別格の馬だ。
 
 有力馬同士の駆け引きや、微妙な重量差、その上での馬場水分量や、さまざまなことが作用しての100万馬券だった。

2021/09/29
思うこと
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【コラム】高知三冠を振り返る

 29日に高知競馬場で行われた黒潮菊花賞。ハルノインパクトに高知三冠の期待がかかり、単勝1.1倍の断然人気に支持されたものの、惜しくもクビ差で2着。今回も強気に攻め3コーナーで先頭に立ったが、8番人気の伏兵ダイヤマリーに4コーナー手前で並びかけられ、直線を向いてこれを振り切ったものの、内を突いたトーセンジェイクにとらえられた。入れ替わり立ち替わりライバルに責められる厳しい展開は、断然の人気馬ゆえ仕方ない。51歳・西川敏弘騎手の三冠を阻んだのは、デビュー3年目、23歳の多田羅誠也騎手だった。
 
 高知競馬の3歳三冠の歴史はそれほど古くはない。高知優駿こそ1973年に第1回が行われ、今年が第49回だったが、黒潮皐月賞、黒潮菊花賞は1997年が第1回で、今年が第25回。高知に三冠体系ができてまだ四半世紀。
 
 そもそも高知優駿のレース名もさまざまに変遷してきた。創設当初は『サラブ4歳優駿』で、1979年からは『サラブ4歳優駿・やいろ鳥特別』、1984年から『黒潮ダービー・やいろ鳥賞』で、1997年から高知優駿となった。現在でも高知優駿(黒潮ダービー)とカッコ書きが併記されるのは、そのレース名の歴史からだろう。距離も第1回は1410mで、第2回から1600m。黒潮皐月賞と黒潮菊花賞ができた1997年から現在の1900mとなった。
 
 また1989年から98年まではRKC杯という3歳重賞が行われたこともあった。ちなみにRKCは高知放送のこと。
 
 そもそも西日本の地方競馬は、兵庫や福山などが、かつてアラブ系のみで競馬が行われていたように、アラブ系のほうが主流で、2000年代の初期までは高知競馬でもアラブの重賞のほうが充実していた。高知優駿の前身が『サラブ4歳優駿』というレース名だったのは、アラブ系と区別するためだろう。ちなみに、サラブレッドを「サラブ」と呼ぶのは西日本独特の言い方で、園田・姫路競馬がアラブ系のみで行われていた頃のベテラン記者などは、「中央のサラブが......」などと言うのをよく聞いた。
 
 ここ10年か15年ほどで競馬を始めたという方は、「アラブ」と言ってもピンとこないかもしれない。中央競馬でもかつてはアラブ系のレースが行われていたが、1995年限りで廃止。地方競馬でもアラブ系の競馬が徐々に衰退すると同時に生産頭数も激減。アラブのメッカと言われた兵庫が1999年からサラブレッドを導入したことで、地方競馬も一気にサラブレッドへという流れになった。「アラブ系」という品種が何か、というとまた話が長くなるので、詳しく知りたい方は、「アラブ系 馬」「アングロアラブ」などで検索してください。
 
 黒潮皐月賞、黒潮菊花賞が1997年に創設され、高知競馬でもサラブレッドの重賞が充実したのも、アラブ系の衰退と無関係ではないだろう。またそれと前後して1995年は『交流元年』と言われ、地方と中央の交流が一気に進んだ時期にあたり、高知競馬でも他と同じようにレース体系を充実させようという機運が盛り上がったと思われる。
 
 高知の三冠馬はこれまで3頭。三冠体系ができて2年目の1998年に三冠を制したカイヨウジパングは、先のRKC杯も勝っていたので実質"四冠"。地方競馬同士でも交流が盛んになり始めた時期で、黒潮菊花賞の前には、地方全国交流として行われていた金沢・サラブレッドチャレンジカップに遠征して4着。黒潮菊花賞を勝って、今度は盛岡のダービーグランプリに遠征。しかし大雪のため中止。3週延期され舞台を水沢に移して行われ、カイヨウジパングは高知から岩手まで再度の遠征。中央馬が上位4着まで独占というなかで、勝ったナリタホマレから0秒7差の6着と健闘の走りを見せた。しかしカイヨウジパングは黒潮菊花賞を最後に勝ち星がなく、5歳時には中津競馬に移籍して引退した。
 
 2頭目の三冠馬は2000年のオオギリセイコー。2歳8月のデビューから5連勝で、兵庫ジュニアグランプリGIIIに挑戦して4着と健闘。3歳になってJRA皐月賞トライアルの若葉ステークスにも挑戦(16着)した。三冠馬となったあとは重賞タイトルがなく、一般戦で2勝を挙げたのみだった。
 
 グランシングが3頭目の三冠馬となった2009年は、高知競馬の売上がどん底の時代。三冠いずれも1着賞金が、わずか27万円だった。黒潮皐月賞と高知優駿の間に佐賀の九州ダービー栄城賞に遠征して2着。その2着賞金は115万円で、高知三冠の1着賞金の合計よりも高額だった。グランシングも黒潮菊花賞のあとは3歳11月のA級特別で1勝を挙げたのみ。4歳時には建依別賞で2着などがあったが、4歳以降は勝ち星がないまま引退した。
 
 出ていれば三冠確実と思われたのが、2017年のフリビオン。三冠目の黒潮菊花賞が10月15日で、前年から始まった西日本ダービー(この年は佐賀)が翌週22日という日程。選択したのは西日本ダービーで、見事に勝利を収めた。この年は黒潮菊花賞の1着賞金が160万円で、西日本ダービーが500万円ということでは、当然の選択ともいえる。フリビオンはその年、高知県知事賞も制し、3歳馬として高知県知事賞を制したのは、2005年のシルバークロス以来、史上2頭目という快挙も達成した。
 
 ちなみに今年の高知三冠の1着賞金は、黒潮皐月賞600万円、高知優駿1000万円、黒潮菊花賞600万円。先にも触れた三冠それぞれの1着賞金が27万円だった時代は2007年から2012年まで6年間もあり、高知競馬はその時代をよく耐え抜いたとしみじみ思う。

2021/08/31
思うこと
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【コラム】三冠馬で振り返るホッカイドウ競馬

 7月22日、門別の王冠賞を制したラッキードリームが、ホッカイドウ競馬史上6頭目の三冠馬となった。
 
 近年、地方競馬では多くの競馬場(主催者)で3歳三冠の体系が整備されるようになってきたが、古く昭和の時代から"三冠"として認識されていたのは、南関東、北海道のほかには、アラブ系の時代の兵庫、そしてばんえい競馬くらいではなかったか。
 
 なかでもホッカイドウ競馬は、かつては札幌、旭川、帯広、岩見沢(古くは函館も)の各競馬場で行われたため、三冠の体系が年を追うごとに変化してきた。今回は、6頭の三冠馬と、その時々の三冠体系やホッカイドウ競馬の背景を振り返ってみたい。
 
 ホッカイドウ競馬の三冠では、北海優駿の歴史がもっとも古く、第1回は1973年に行われた。続いて北斗盃が1977年、王冠賞が1980年にそれぞれ第1回が行われた。とはいえ、当初からその3レースが「三冠」と言われていたかどうか、今となっては資料も少ないので定かではない。
 
 それでも三冠のうちもっとも後発だった王冠賞が第2回の1981年に初代三冠馬となったのがトヨクラダイオーだ。この年、一冠目の北斗盃は6月21日に旭川1600mで、二冠目の王冠賞は8月16日に帯広1800mで、そして三冠目の北海優駿は10月10日に札幌1800mで行われた。三冠いずれも鞍上は佐々木一夫騎手(のち調教師)、管理したのは成田春男調教師だった。
 
 2頭目の三冠馬誕生はそれから18年ものちのこと。1999年のモミジイレブンで、父は、中央でマイルチャンピオンシップ、阪神3歳Sなどを制したサツカーボーイ。門別1200mの北斗盃は5月5日の予定が取止めとなって11日に延期された。王冠賞は9月2日の旭川1600m、そして北海優駿は10月11日の札幌2400m。それまで調教専用施設として使用されていた門別のトレーニングセンターが、門別競馬場として開場して3年目のことだった。
 鞍上は三冠いずれも松本隆宏騎手(現調教師)、管理していたのは鈴木英二調教師。ちなみにこのコンビは、1983年に北海道のアラブ系三冠(北海盃、帝冠賞、アラブ優駿)もバンガードライデンで制している。
 
 3頭目はそのわずか2年後でミヤマエンデバー。北斗盃は5月24日の札幌1000m、王冠賞は8月15日の旭川1600m、そして北海優駿は10月18日の門別2000m。鞍上は堂山直樹騎手、管理するのは堂山芳則調教師で、親子のコンビによる三冠達成だった。
 
 ホッカイドウ競馬の"ダービー"にあたる北海優駿は、第1回からながらく9月か10月に行われてきた。地方競馬では2006年に『ダービーウイーク』(2017年からダービーシリーズ)が行われるようになり、各地の"ダービー"は5月下旬から6月にかけて実施されるようになったが、それ以前は主催者ごとに実施時期はさまざまだった。
 そもそもダービーウイークの最初の年に、ホッカイドウ競馬でダービーウイークに組み込まれたのは北海優駿ではなく、一冠目の北斗盃(札幌1700m)だった。4月下旬にシーズンが始まるホッカイドウ競馬で、それまで三冠目として秋に行われてきた北海優駿をいきなり6月にスライドすることはできなかったと思われる。それゆえ北斗盃を『札幌ダービー北斗盃』という名称にしたのは苦肉の策だった。ちなみに翌2007年には一冠目の北斗盃が5月3日に繰り上げられ、北海優駿は6月5日に実施され、この年から北海優駿は二冠目となった。
 
 4頭目の三冠馬は2010年でクラキンコ。今年まで6頭の三冠馬のうち唯一の牝馬。この年からホッカイドウ競馬は門別単独の通年ナイター開催となり、4月29日の北斗盃は1200m、6月1日の北海優駿は2000m、8月19日の王冠賞は2600m。1200mから2600mまで、もっとも距離に開きがある体系での三冠だった。一冠目の鞍上は小国博行騎手(現調教師)、二冠目と三冠目は宮崎光行騎手、管理したのは堂山芳則調教師。
 クラキンコの父は、2000年に王冠賞、北海優駿の二冠を制したクラキングオー。母は、1994年に北海優駿を制したクラシャトル。父・母ともに"ダービー馬"から生まれたダービー馬が三冠を制した。
 さらに奇跡的だったのは、クラキンコはわずか1頭しか生まれていないクラキングオーの初年度産駒で、クラキングオーの産駒で血統登録されたのは通算で3頭しかいないこと。クラキンコは、さまざまにドラマのある三冠達成だった。
 
 5頭目は2019年のリンゾウチャネル。5月30日の北斗盃が1600m、6月19日の北海優駿が2000m、8月1日の王冠賞が1800m。距離は1600〜2000mと大きな差はないが、門別競馬場には2015年に内回りコースが完成し、内回りの1600mと、外回りの2000m、1800mという形態の異なるコースをこなさなければならないという難しさがあった。鞍上は五十嵐冬樹騎手、そして堂山芳則調教師は、ミヤマエンデバー、クラキンコに続く、3頭目の三冠達成という快挙となった。
 またホッカイドウ競馬では2016年から『3歳三冠賞』が創設され、三冠を制した馬には2000万円のボーナス(二冠馬にも250万円)が支給されるようになり、リンゾウチャネルは初の三冠ボーナス獲得となった。
 
 そして今年三冠馬となったのがラッキードリーム。距離体系はリンゾウチャネルの年と変わらず。主戦の石川倭騎手は、一冠目の北斗盃前日のレースで落馬負傷。5月13日の北斗盃は五十嵐冬樹騎手に急遽乗り替って勝利。6月17日の北海優駿、そして7月22日の王冠賞は、石川倭騎手に戻っての三冠達成となった。
 管理するのは林和弘調教師で、馬主はその父であり、ホッカイドウ競馬の元調教師だった林正夫さん。父子での三冠達成でもあった。
 またラッキードリームでは、第1回として昨年行われたJBC2歳優駿の勝ち馬が三冠馬となったことも印象的だった。
 
ラッキードリーム三冠.jpg
白い帽子が林正夫さん、その右が林和弘調教師、石川倭騎手

2021/07/28
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【コラム】活躍目覚ましい新人騎手

 6月27日に通算100勝を達成した佐賀の飛田愛斗騎手が、地方競馬におけるデビューから最速での100勝達成の記録を更新。従来の記録は、吉原寛人騎手(金沢)が2002年1月6日に達成した275日で、飛田騎手はこれを7日短縮する268日での達成となった(以下、いずれも地方競馬のみの記録。6月28日現在)。
 昨年10月3日にデビューした飛田騎手だが、初勝利を挙げたのは、佐賀競馬の開催日にしてデビューから6日目、35戦目のこと。その後の快進撃を思えば、初勝利まで意外にかかっていた。
 しかし年明けからは、佐賀では不動のリーディング山口勲騎手を脅かすほどのペースで勝ち星を重ねて注目となった。ただ51勝を超え減量が1kgになって以降はやや差をつけらるようになって、6月28日現在の2021年佐賀リーディングでは、山口騎手101勝に対して、飛田騎手は78勝。とはいえ3位の倉富隆一郎騎手が58勝だから、3位以下にはまだまだ差をつけている。今年の勝率16.2%、連対率25.8%という数字もすばらしい。
 101勝目を挙げると、その次の開催から減量がなくなり、山口騎手をはじめ他の騎手たちと差のない条件で争うことになる。そのときに同じようなペースで勝ち星を上げ続けられるかどうか、あらためて注目となる。
 ちなみに、100勝達成時の騎乗数では飛田騎手の697戦目に対して、吉原騎手は591戦目。さらにデビューから358日での100勝達成だった御神本訓史騎手(大井、当時益田)が550戦目と、飛田騎手より少ない騎乗数で100勝に到達していた。
 飛田騎手は重賞もすでに3勝。重賞初制覇となったのは、中央所属のイロエンピツに騎乗したたんぽぽ賞で、1番人気にこたえ2着に大差をつける圧勝だった。その後、ドラゴンゲートで2月28日のウインターチャンピオン、6月6日の佐賀がばいダッシュを制した。
 ドラゴンゲートは2019年7月に大井から、のちに飛田騎手が所属することになる三小田幸人厩舎に移籍して11連勝の快進撃。昨年7月の吉野ヶ里記念では3着と佐賀で初の敗戦を喫したが、その後3カ月の休み明けとなった10月31日の準重賞・五ヶ瀬川賞に、デビュー間もない飛田騎手が騎乗して勝利を収めた。11月の佐賀オータムスプリントでは田中純騎手に戻ったが、年明けからは再び飛田騎手が騎乗し、前述の重賞2勝を含め飛田騎手では6戦5勝、2着1回という成績を残している。
 また三小田厩舎には今年になって中央オープンからノーフィアーが移籍。ここまで4戦すべて飛田騎手の手綱で4連勝となっている。
 所属厩舎にこうしたチャンピオン級の馬がいることも、飛田騎手には幸運だった。とはいえ、そうした有力馬に騎乗させてもらい、それでしっかり結果を出していることこそが飛田騎手の実力なのだろう。
 
 飛田騎手だけでなく、近年は地方・中央ともに、デビュー間もない若手騎手の活躍が目覚ましい。
 今年4月には兵庫から3名の新人騎手がデビューしたが、4月14〜16日のデビュー週に3名とも初勝利を挙げた。中でも大山龍太郎騎手は6月17日まで10週連続勝利という記録をつくり、約2カ月で20勝。ただ残念なことに「騎乗法に適切を欠き、競馬の公正を害した」ことで、8月4日まで開催20日間の騎乗停止となってしまった。
 そしてすぐにその20勝に並んだのが、同じ兵庫の佐々木世麗騎手。6月16日、25日にはそれぞれ1日3勝。6月だけで10勝と、ここに来て一気に勝ち星を伸ばしている。
 
 また、ばんえい競馬では、12月12日にデビューした金田利貴騎手がここまで56勝。平地以上に新人・若手の活躍が難しいばんえい競馬においては、異例ともいえる活躍。勝率12.0%、連対率25.0%も優秀だ。
 
 地方競馬の年度表彰、NARグランプリでは、デビュー2年以内の騎手から優秀新人騎手賞が毎年1人だけ選ばれている。優秀女性騎手賞は2人ないし3人選ばれた年もあったように、優秀新人騎手賞も"最優秀"とはしていないので、複数名が選ばれることがあってもいいのではないか。そう思えるほど、近年は新人騎手の活躍が目立っている。

2021/06/29
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【コラム】追悼ラブバレット

 ラブバレットが予後不良という報せには驚き、そして何より残念でならない。
 
 5月25日の水沢第12レース、スプリント特別。リアルタイムではレースを見ておらず、お知らせのメールが来てからその事実を知ってレースを見た。
 それを知った上で見たからなのかもしれないが、スタート後のラブバレットの行きっぷりがあまりよくないように見えた。そして2コーナーを回って少し進んだあたりでバランスを崩し、競走を中止した。右第一指骨開放骨折とのことだった。
 
 地方所属馬がダートグレード競走を勝つのはなかなかに難しい。とはいえまったく勝てない年というのはなく、それでも近年では年に一桁という年がほとんど。
 かつての岩手競馬では、メイセイオペラやトーホウエンペラーがNARグランプリ年度代表馬となる活躍を見せたが、岩手所属馬によるダートグレード勝利は、2006年のエーデルワイス賞JpnIII(門別)をパラダイスフラワーが制したのがここまでのところ最後となっている。
 そうした状況にあって、ダートグレードを勝てるだろうと期待されたのがラブバレットだった。しかしそのタイトルにはついに手が届かず。ラブバレット追悼の意味をこめて、いかに惜しい機会があったかを振り返ってみたい。
 
 全国にその名を知らしめたのは、2015年4歳時のさきたま杯JpnII。スタートして果敢に先行争いに絡んでいくと、外枠ゆえに3番手にはなったが、4コーナー先頭では勝ったかと思わせた。しかし外から並びかけてきたノーザンリバーに交わされ、ゴール前では脚が上がって4着。それでもダートグレード初挑戦であったことを思えば、いずれ岩手にダートグレードのタイトルをもたらしてくれるのではないかと期待を抱かせた。
 
 2カ月半後、地元のクラスターカップJpnIIIで、そのさきたま杯JpnIIでの好走がフロックでないことを示して見せた。勝ったダノンレジェンドは圧倒的に強かったが、2着北海道のポアゾンブラックに続いての3着。中央勢で先着されたのは、ダート短距離路線の中心的存在として活躍したダノンレジェンドだけだった。
 
 その走りならと秋はJBCスプリントJpnIへの期待もかかったが、ラブバレットの父ノボジャックはJBC協会に種牡馬登録がなく、出走するためには追加登録料(1着賞金の2%)が必要。そのため11月下旬の笠松グランプリを目指すことになり、その4歳時から6歳時まで、笠松グランプリ3連覇という快挙を達成することにもなった。
 
 地元のクラスターカップJpnIIIではその後も惜しいレースが続いた。
 5歳時は抜群のスタートでダノンレジェント併走して先行。ただこれは60kgを背負ったダノンレジェンドが強すぎた。直線で振り切られ、当時中央所属だったブルドッグボスにも交わされ、それでも3着を確保した。
 ラブバレットには、『これは勝っただろう』と思わせた、ほんとうに惜しいレースが生涯に2度あった。そのひとつが6歳時のクラスターカップJpnIII。
 このときも抜群のスタートを切ったが、サイタスリーレッドを行かせてぴたりと2番手。4コーナーでも抜群の手応えで、3番手以下はやや離れての直線、サイタスリーレッドを交わして先頭へ。これは勝った!と思ったところ、3番手で脚を溜めていたブルドッグボスが、わずかにクビ差、とらえたところがゴール。1分8秒8というコースレコードの決着。ラブバレットもタイム差なしの2着だった。
 そして7歳になっても地元の意地を見せ、52kgという軽量牝馬オウケンビリーヴの3着を確保した。
 
 惜しすぎるレースのもうひとつが、7歳時の北海道スプリントカップJpnIII。
 好スタートから一旦下げて外に持ち出すと、直線を向いて抜群の手応えのまま、残り200mで先頭に立った。いざ、追い出されてそのまま押し切るかにも思えたが、直後で機をうかがっていた1番人気のテーオーヘリオスに内から交わされ、ここでもクビ差。外から伸びた3着のスノードラゴンもアタマ差という接戦だった。
 
 園田の兵庫ゴールドトロフィーJpnIIIにも毎年のように遠征した。4歳時はハンデ53kgで期待されたが、左後肢挫跖で残念ながら出走取消。5歳時は好位でうまく立ち回ったものの4着。6歳時は、早め先頭に立っていたグレイスフルリープに4コーナーで並びかけ、いざ直線勝負。しかし振り切られて1馬身半差の2着。負けはしたものの、これも見せ場たっぷりのレースだった。

 7歳秋には、ついに追加登録料を払ってJRA京都開催のJBCスプリントにも出走(10着)した。
 ラブバレットが長く一線級で活躍できたのは、度重なる遠征をまったく苦にしなかったことも大きい。

 一方で、岩手競馬で発生した原因不明(当時)の禁止薬物騒動に関連して、何度か出走を阻まれたのはまったくの不運だった。
 4度目の園田遠征となった7歳秋の兵庫ゴールドトロフィーJpnIIIは、その禁止薬物の影響から"公正保持"のために競走除外とされてしまった。それは馬自身や関係者の落ち度ではない、まったくの不可抗力であっただけになんとも残念だった。
 
 なかなか原因が特定されなかった禁止薬物騒動は散発的に何度か発生し、岩手所属では出走を認められない可能性があるため、ラブバレットは中央に移籍もした。
 中央所属では5戦して結果を残せず、岩手に戻ると、6月の栗駒賞、7月の岩鷲賞を連勝して8歳でも衰えのないところを見せた。
 
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2019年7月14日、最後の重賞勝利となった盛岡・岩鷲賞の口取り(写真:岩手県競馬組合)
 
 しかしながら8歳になっては全盛時の能力を発揮することはできず、クラスターカップJpnIIIは9着、兵庫ゴールドトロフィーJpnIIIは11着だった。
 この年の秋にも岩手の禁止薬物の問題は続いていて、5度目の挑戦で4勝目を狙った笠松グランプリにはエントリーが認められず。そのため兵庫ゴールドトロフィーJpnIIIから年をまたいでの2020年、9歳春までの3戦は川崎に移籍しての出走だった。
 
 岩手に戻って11月22日、盛岡・スプリント特別での勝利が、結果的に最後の勝利となった。
 この冬、岩手は近年まれにみる大雪に見舞われ、12月後半から年明けにかけてたびたび開催が取り止めになる不運もあった。
 今年10歳の冬休み明け、2着、3着、2着のあと、冒頭の競走中止となった。
 
 通算成績は、70戦23勝(うち中央8戦0勝)。重賞は15勝で、前述のとおり笠松グランプリ3連覇のほか、地元の栗駒賞4連覇という記録もあった。
 
 5月30日(日)から6月6日(日)まで、水沢競馬場に献花台が設置されるとのこと。

2021/05/29
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