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2009年5月23日 アーカイブ

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馬券おやじは今日も行く(第53回) 古林英一

2009年5月23日(土)

名人・中西関松のはなし

 皆様、ご無沙汰しております。

 まず、北海道内限定のおしらせです。TVH(テレビ北海道)で毎週土曜日の朝やっている経済ナビという番組がございます。6月20日(土)にばんえいが放送される予定です。13日(土)だったかな? ともかく6月です(ちゃんと聞いたのですが何せボケ気味の小生なんで忘れてしまったのです)。道内在住の皆様、新聞のテレビ欄をちゃんと見て下さいね〜。といっても肝心要の帯広では映らないのが寂しいところなのですが…。

 どういう番組になるのかはよく知りませんが、先日、5月17日に開かれたNPOとかち馬文化を支える会2009年度総会の模様などもしっかり収録しておりました。わがとかち馬文化を支える会も発足3年目をむかえ、役員・事務局体制もちょびっとリニューアルし、さらなる発展をめざそうというところであります。入会は随時受付中でございます。ぜひ今すぐ申し込んで下さいまし。

 総会終了後、小生は急いで帯広競馬場へ…ではなく、故中西関松調教師夫人のトシエさんのご自宅にお邪魔いたしました。TVHの取材陣も同行しました。中西関松、オールドファンなら懐かしい名前でしょう。ばんえい競馬草創期の大スターです。当コラムでも一度紹介したことがあります(神様・中西関松の時代)。

 中西関松は1919(大正8)年、新十津川の開拓農家に生まれました。北海道にはかような新××という地名がちょいちょいあります。入植者が自分の故郷をしのんでつけた地名です。まあ、ニューヨークとかニューハンプシャーと同じ発想ですわな。十津川郷というのは山のなかの地域です。1889(明治22)年8月、この奈良県の十津川村で大水害が発生し、数多くの人が家や農地を失ってしまいます。そこで北海道に新天地を求め入植して拓いたのが新十津川村です。中西関松の両親も十津川からの入植者だったようです。

 奈良県の山間部といえば林業の盛んなところ。関松の父もおそらく山仕事の経験があったろうと思われます。関松は長らく山仕事を本業としますが、もしかすると子供の頃から父たちと山仕事をやっていたのではないでしょうか。

 明治も30年代になると、新十津川に北陸からの入植者がはいってきて稲作が本格的に広がります。関松の実家も水田をやっていたようです。

 1931(昭和6)年の満州事変から1945(昭和20)年まで、わが国は15年戦争の時代にはいります。関松も徴兵され中国大陸に送られます。戦地で戦闘中に関松は銃弾を腹に受けます。銃弾が左腹から右腹に貫通するという大怪我だったそうです。弾がちょっとそれていたら後年の名人中西関松はいなかったことになります。九死に一生を得て1944年北海道に戻ります。

 当時の関松は両親を新十津川に残し、滝川で馬と共に山仕事を本業としていました。出征前から近隣でおこなわれている輓馬大会には必ず出場し、その道ではすでにそれなりに名を知られる存在になっていたようです。

 1946(昭和21)年秋、新たに制定された地方競馬法に基づき、旭川と岩見沢で馬匹組合連合会主催によるばんえい競馬が各2日間ずつ開催されました。関松ももちろん参加します。

 試行錯誤で始まったばんえい競馬は順調に売上高を伸ばし、開催日数も徐々に増えてはいきますが、それでも昭和40年代前半までは年間66日しか開催していません。賞金や手当も安く、大部分の人は地元開催のときだけアルバイト程度の感覚で自分の馬をつれて参加していました。馬を貨車で輸送していた時代です。旭川、岩見沢、北見、帯広の4場を回っていた人や馬はわずかです。そのなかの一人が中西関松でした。

 すでに名手といわれていた関松には騎乗依頼も多く、また馬を中西に預ける馬主もいました。「若い衆」を雇い厩舎経営的なことも、ばんえい競馬では関松が最初の方だったようです。とはいえ、まだ、ばんえい競馬だけでは食えませんから、山仕事が本業でした。「若い衆」は山仕事もいっしょにやっていたといういいます。

 昭和40年代も後半になると、賞金・手当も増え、その一方、馬搬による山仕事は衰退していきます。結果的に関松もばんえい競馬が本業となっていったのです。

 昭和30年代の終わりか40年代のはじめ頃、ばんえい競馬で活躍する中西関松にあこがれた一人の小学生が関松のところに遊びにくるようになります。この少年は中学を卒業するのをまって中西厩舎にはいり、騎手試験に合格し、1969(昭和44)年6月14日騎手デビューします。この日から数えて19,712回騎乗3,299勝をあげ、ミスターばんえいと讃えられた金山明彦現調教師でした。

 関松は何よりも騎乗するのが好きでした。58歳まで現役の騎手として活躍します。さすがに引退する頃はレースが終わると息があがって顔面蒼白だったといいます。それでも本人はいつまでも騎手をやっていたかったようですが、周囲のすすめで騎手を引退します。実は、中西関松の騎手引退によって、ばんえい競馬では騎手と調教師の分離が実現したのです。

 70歳で調教師を引退し、中西関松は競馬場を去ります。しかしながら、馬にかける情熱はまったく衰えなかったようです。トシエ夫人によると、常々80歳まで馬を育てると口にしており、馬の育成をやっていました。しかしながら、その願いもむなしく、1990(平成2年)1月9日急性心不全で急逝してしまいます。亡くなった当日も自らトラックに乗って馬の飼料を運搬したりしていたといいます。

 1990年といえば、世はバブルまっただ中。ばんえい競馬も空前の活況にわいていた時代です。こうして考えてみると、中西関松という人はばんえい競馬の発展のなかでその生涯を全うしたといえそうです。

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