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馬券おやじは今日も行く(第2回)  古林英一

神様・中西関松の時代

 小生の今年最大のテーマは「ばんえい」である。ばんえいのすべてを知りたいというのが小生の今年最大の課題なんである。ということで、今回はちょいと趣向を変えて、ばんえい競馬の古きをちょいとたずねてみることにしよう。毎度毎度、当たった、はずれたばかりではしょうがないけんね。

 今からほぼ半世紀ほど前まで、馬は日本中いたるところにいた。農村だけではない、街のなか、山林、炭鉱、港湾、それこそいたるところでたくさんの馬が働いていた。馬とともに働く男たちは自らの馬を競い合った。ヨーロッパの貴族たちは自らの馬の速さを競い合った。これが近代競馬につながるわけだが、わが日本の馬遣いの男たちは力を競い合った。わが馬の力を誇り、自分の技量を誇る男たちは、それこそ日本中どこにでもいたであろう。そうした男たちが己の馬の力と己の技量を競い合ったのが「ばんば競走」であり「馬力大会」だった。

 1946年の地方競馬法に基づき、ばんば競走・馬力大会は馬券発売を伴う公営競技として実施されることになった。青森県と北海道でばんえい競馬が開催されたという記録はみられるが、青森では数年で姿を消し、その実態はほとんどわからない。

sekimatsu  力自慢の馬と腕自慢の男たちが続々と競馬場に集まる。当時の限られた開催日数ではそれで飯を食うプロはありえない。普段は、馬とともに、山林で、畑で、道で、港湾で働いている男たちが自慢の馬を連れて競馬場に集まる。そうした男たちの頂点に君臨したのが神様といわれた中西関松(写真中)であった。

 1919年新十津川の農村に生まれた中西関松は何よりも馬が好きだった。馬が好きであったのと同時に、類まれな負けん気の持ち主でもあった。公営競技・ばんえい競馬の草創期、中西はまさに神様であったという。残念なことに1963年以前の記録は散逸し、神様・中西がいったい何勝あげたのかを知ることは容易ではない。残っている記録だけをみても、1966年には425戦114勝という記録が残されている。

 当時は冬季は休催、中西は山仕事にいっていた。過酷な山仕事のなかで馬たちは鍛えられた。山で鍛え抜かれた馬を懸命に追い、中西は驚異的な勝ち星をあげていったのである。

 中西の騎乗は体をめいっぱい使って追いまくるというものであったという。1960年代終わりころからさすがの中西も勝鞍が減っていく。そのころから急速に台頭してきた若者がいた。中西の愛弟子・金山明彦であった。1977年を最後に中西は調教師専業となっているが、これは同時にばんえい競馬の「前近代」の終焉でもあった。

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