マウンテンバイクのトップ選手として活躍していた102期の飯塚朋子(いいづか ともこ)選手(大阪府)。競輪に転向後は一転して劣等生になったといいますが、そこから努力を重ねて活躍を続けています。ここまでのことを振り返っていただきました。
赤見:選手を目指したきっかけからお聞きしたいのですが、マウンテンバイク競技をされていたそうですね。
飯塚:友達がやっていて、体を動かすことが好きだったので「やってみる?」って言われて。24歳の時ですね。
赤見:大人になってからだったんですね。
飯塚:そうです、そうです。中高は水泳をしていました。マウンテンバイクと出会った頃は、鍼灸師の免許を持っていたので仕事をしていたんです。鍼灸師の大学を出て、研究室に残って、バイトしながら神経系の研究をしていました。普通の治療院で働くというより、何かを極めたいなと思っていて。でも結局、勉強じゃなかったみたいです(笑)。
赤見:そこからマウンテンバイクにハマっていくわけですね?
飯塚:研究室がけっこう厳しくて、遊びに行く暇があったら論文の1本でも読みなさいという感じだったんです。でもわたしは仕事のための仕事はしたくないなと思ってて。しんどくなってしまいました。仕事をがんばるからこそ、夏はマウンテンバイクをしたり冬はスキーに行ったりしていたんですけど、それがダメって言われると何のための仕事かなって思って、結局研究室は辞めました。
赤見:マウンテンバイクの競技というのは、どんな感じなんですか?
飯塚:ダウンヒルっていう名前のまんまで下る競技なんですけど、冬場スキー場のところが夏場にマウンテンバイクのコースになるところがあって、ゴンドラに自転車を乗せて上まで行って。ゲレンデをスラロームみたいにして下りて来るコースもあれば、ゲレンデの横にある林の中にコースがある場合もあります。
赤見:競輪とは全然違いますね。
飯塚:そうですね。最初は怖かったんですけど、ちょうど同じような時期に女友達も始めて、負けたくなくて。やっているうちに「レース出てみる?」ってことになって、レースに出ると楽しいし負けたくないし。心のどこかでは、スポーツで極めたいっていう気持ちもあったと思うんですけど、年齢も考えるとメジャーなスポーツはムリじゃないですか。マウンテンバイクは下るだけなので、なんとかなるんじゃないかって思いました。トップまで上るなら、これしかないなって。
赤見:そこから、ガールズ1期の102期を受ける経緯というのは?
飯塚:最初ガールズ復活って聞いてもあんまり興味がなかったんですけど、トレーニングでピストレをしようかなって思っていたんです。競輪用の自転車で、バンクで走るトレーニングです。ロードでは乗っていたので。その頃にガールズサマーキャンプに申し込んでみたら選考で落ちて参加できなくて、その辺りから意識し始めました。
赤見:マウンテンバイク競技では日本を代表する選手として活躍していたわけですが、それを辞めるというのは大きな決断でしたね。
飯塚:マウンテンバイクは夏がシーズンで冬がシーズンオフなんですけど、オフの時にスポンサーを見つけないといけなくて。その頃、日本では上位になれても世界だとなかなか上手くいかなくて、これ以上スキルアップするなら海外を拠点にしないと伸びしろがないなと思っていたんです。それも含めてスポンサーを探したんですけど見つからなくて、年齢が30歳だったこともあって、一区切りつけようかなって。それで、1期生を受けてみたんです。
赤見:競輪学校に入ってみていかがでしたか?
飯塚:マウンテンバイクとは全然違うし、今まで自転車をやってきたというプライドは全部捨てたつもりだったんです。でも、入学した時はみんな同じようなところにいるんですけど、どんどん強くなっていくんですよ。わたしが弱すぎたんですけど。わたし、卒業できないくらいタイムがよくなかったんです。悩んだというよりも、みんなと同じようにやってて全くタイムが伸びないので、これはもうダメなんだと。教官に、「もう辞めます」って言ったんです。
赤見:なんで踏ん張れたんですか?
飯塚:後悔したくなかったんで。本気でやってムリだったら後悔しないと思うんですけど、辞めてしばらくたってから、「あそこで踏ん張ってたら...」て思いそうだなって。だから、やり切ったというところまでやろうと思ったんです。卒業までは、そういうことの繰り返しでしたね。
赤見:よくそこから、デビューして盛り返しましたね。
飯塚:今の状況は、同期が一番びっくりしてるんじゃないですかね。周りに支えられましたし、本当にコツコツという感じで。いろんなトレーニングをしたり、和歌山の西岡正一選手が街道に連れて行ってくれるようになって、その辺りからですね。本当にいろいろな方々にお世話になりました。そこで何か掴んだ気がして。
赤見:それは初勝利くらいのタイミングですか?
飯塚:もう少し前くらいですかね。デビューして2年後くらいです。今まではペダルを踏んでても全然力が入らなかったんですけど、力の入れ方がわかったというか。そこから伸びていった感じですね。
赤見:何度も言って申し訳ないですけど、初勝利まで2年近くかかってますし、本当によくここまで盛り返しましたね!
飯塚:そうですよね(笑)。とりあえず、今辞めたら後悔するっていうのをずっと思ってて、もうちょっとがんばろう、もうちょっとがんばろうと思い続けて今に至ります。
赤見:今の調子はいかがですか?
飯塚:最近はいまいちですね。周りが強くなった分、点数も落ちていると思うんです。しっかり考えないといけないなと。
赤見:今後の目標は何ですか?
飯塚:優勝したいという気持ちは大きいですけど、まずは調子良かった頃に戻りたいですね。優勝はそこからだと思います。
赤見:では、オッズパーク会員の皆さんにメッセージをお願いします。
飯塚:わたしの卒業できないかもっていうくらいやばかった時代を知っている人って、2期生までなんですよ。だからあんまりわからないかもしれないんですけど、この年(38歳)で、身長も低くて、体重も増えない、スポーツするには何にも恵まれない条件ではあるんですけど、それでも這い上がっていくのを見て、少しでも何か感じていただけたら嬉しいです。
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※インタビュー / 赤見千尋
※写真提供:公益財団法人 JKA
赤見:選手を目指したきっかけから伺いたいのですが、お父様(明珍周男元選手)が競輪選手だったことが大きいですか?
明珍:もちろんそれもありますね。小さいころから競輪を知っていたというのは大きかったと思います。高校から自転車競技を始めたんですけど、当初は大学4年でやり切ったら、就職しようと思っていたんですよ。だから就活とかセミナーとかも始めて。でも当時の大学の監督ともいろいろ話して、「自転車が好きで続けていきたいなら、ガールズケイリンはどうだ」って言われたんです。競技をしている時は、競輪はまったく別物というか、わたしは長距離をメインにやっていたので、全然違うところにいくというのはすごく悩んだんですけど、自転車が好きで今までやってきて、今しか挑戦できないなと思ったので、自分がどこまでやれるかっていうのを知りたくて競輪選手を選びました。
赤見:なるほど。高校生の時に自転車競技を始めたというのは、どんなきっかけだったんですか?
明珍:高校は鹿児島に行ったんですけど、中学3年の9月くらいまでは、地元の福島の高校に行こうと思っていたんですよ。小学校からやっていたバスケットをやりたいと思ってて。でも、兄も自転車競技をやってて、国体を親と一緒に見に行ったんですけど、たまたま自分と父が歩いている姿を鹿児島の自転車関係の方が見ていて、「(鹿児島にある)鹿屋体育大学が女子の自転車部が盛んなので、自転車をやりに鹿児島にこないか」って誘ってくれたんです。半分冗談交じりの話だったんですけど、それを聞いた父が、「鹿屋体育大学は国立だし、自転車だったら個人競技で全国でいろんな人と戦うことができる」っていう感じで乗りきになって、それにわたしが乗っかったっていう形です。自転車もいつかやってみたいなって思っていたんですよ。父もそうですし、兄や親せきのお兄ちゃんもやっていたので、自分もいずれはという気持ちがあって。それで、高校から始めることになりました。
赤見:鹿児島は遠いですし、親元を離れて寮生活になりますから、大きな決断でしたね。
明珍:そうですね。それまで鹿児島には行ったことがなくて、自分の母が福岡出身だったので九州には馴染みがあったんですけど。今思うと、よくあの時「行く」って言ったなと思いますね(笑)。
赤見:高校大学と数々の大会で優勝していますけれども、ガールズ復活が決まった時はどんなお気持ちでしたか?
明珍:ガールズ復活の前にエキシビジョンがあったじゃないですか。まだ大学1,2年生だったんですけど、わたしも呼ばれて走ったんですよ。その時はまだガールズが復活するとは思っていなかったので、復活すると聞いた時にはびっくりしました。大学4年生の時に、ガールズ1期生の102期が競輪学校に入っているという状態だったんですけど、正直競輪にそこまで興味がなかったので、自分もやりたいとはすぐには思わなかったです。
赤見:それが、大学卒業のタイミングで競輪学校に進むわけですが、長距離のロードと全然違う競技になるわけで、戸惑いませんでしたか?
明珍:それはありました。思った以上に悩むことが多かったです。それは今もですけど。競輪学校に入って、自転車とは違うスポーツとか違う職業をして来た人たちが入って来て、慣れれば慣れるほどどんどん強くなっていくのを目の当たりにして。自分は自転車に乗っている年数は長いけれども、目の前でポンと強くなる人たちを見ると悔しかったです。先生たちにもアドバイスをいただいて、理解はできるけどなかなかものにできなくて。学校は悩みが多かったです。
赤見:具体的にはどんなことで悩みましたか?
明珍:もともと瞬発力とかパワー的なものが足りないと感じていて、今までやってきたことはプラスになっているし、知識ではわかっているんですけど、それをいざやろうと思った時になかなか体がいうことを聞かなかったり、今までの体に染みついたものが抜けなかったり。だから、一つのことをやろうとした時にけっこう時間が掛かりました。
赤見:2013年5月、京王閣でのデビュー戦(⑥④⑥)はいかがでしたか?
明珍:すごく緊張しましたし、オッズとかを見るとお金が掛かっているんだなということを実感して、責任を痛感しました。声援をいただけることも嬉しいですし、アマチュアの時とは全然違う感覚でしたね。
赤見:デビューから5シーズン目ですけれども、現在の調子というのは?
明珍:デビューしてからトータルで見ると、すごく波があるなって思います。良くなったなって思うとまた下がったり...。今年も1月から6月まではけっこう良くて、自分の中ではずっと(競走得点が)50点を目標にしていて、やっと前期で50点にいったんです。でも5月くらいから少しずつ何かが噛み合ってないというか、成績的にも落ちて来て。今はまた悩み始めた感じです。
赤見:オフシーズンがない分、調子を維持することは難しいですよね。
明珍:そうですね。月に2本から3本開催があって、その中で自分を成長させながらとなると難しいです。ただ、それでも調子を維持している方はいるし、どんどん強くなっている人もいるので、自分ももっとがんばらないとなと思います。
赤見:今の目標は何ですか?
明珍:最低でも決勝に上がれるようになることです。優勝戦はレースの流れも違いますし、いつかは優勝したいという想いもあるので。ただ、その目標を立てる前に、まずは毎回優勝戦で走れることが大事ですから。
赤見:選手になって、お父様との関係は変わりましたか?
明珍:父が選手だった頃は子供だったんですけど、怖かったんですよ。でも今になると、やっぱり結果によって精神的に変わって来るじゃないですか。だからそういう気持ちがわかるようになりました。
赤見:では、オッズパーク会員の皆さんにメッセージをお願いします。
明珍:まだまだ毎回車券に貢献できる選手ではないんですけど、インターネットで見てたよ~とかって聞くとすごくがんばれるので、期待に応えられるようにこれからもしっかりがんばります!
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※インタビュー / 赤見千尋
※写真提供:公益財団法人 JKA
ボートのトップ選手からガールズケイリンに転向した、110期の林真奈美(はやし まなみ)選手(福岡)。デビューから1年が経ち、5月に初優勝を果たすと7月にも再び優勝!勢いに乗る今、心境をお聞きしました。
赤見:まずは選手を目指したきっかけからお聞きしたいのですが、林選手はずっとボートのトップ選手として活躍していたそうですね。
林:兄が2人ともボートをしていた影響で、高校に入った時にボート部に入りました。兄たちが全国で活躍していたので、その姿に憧れたという感じです。高校3年生の時に国体で優勝することができて、この先もボートでと考えた時に、大学と実業団の選択肢があって。恩師から、「将来オリンピックを真剣に目指すなら、環境的にすごくいい会社があるぞ」と言ってもらったんです。それで、実業団の道に進みました。
赤見:実業団での生活はいかがでしたか?
林:少数精鋭のチームで、練習環境も良かったです。会社の仕事もしてましたけど、とても応援してくれて、サポートしていただきました。真剣に取り組んでいたんですけど、2012年のシーズンで、いったん区切りをつけたいかなという時期があって。年齢的に将来のことを考えるようになって、将来どこで生活したいかって考えたら、家族がいる地元にいたいなと思ったんです。
赤見:仕事もボートも辞めて地元に帰るというのは、大きな決断でしたね。
林:そうですね。いい会社に入れていただいていたし、たとえボートを辞めたとしても働き続けることができる会社だったんです。だから、ボートを辞めるからといって、会社もって簡単に決断できたわけではなかったんですけど。
赤見:ボートを辞める理由というのは何だったんですか?
林:減量がけっこうあって...。一年中苦しんでいたんです。練習よりもレースよりも、とにかく減量がキツくて。体も心もダメージを受け続けていたというか。減量せずに国内だけのレースでがんばるっていう選択肢もあったんですけど、やるからには世界のトップのところで勝負したいという気持ちがあったので。それで、「(辞めるのは)今かな」って思ったんです。12月にボート部を辞めて、次の3月に会社を辞めました。恩師や両親に、会社を辞めることに関しては相談したんですけど、「帰って来ていいよ」って言ってもらったので、その一言で「帰っていいんだ...」って、気持ちが軽くなりました。
赤見:地元に帰ってからはどう過ごしていたんですか?
林:仕事も決まってなかったし、2か月くらいはゆっくりしました。その後はスポーツクラブでアルバイトをしながら、地元の選手として国体に出られたらいいなと思ってボートは続けていたんです。ボートと両立できる仕事を探したんですけど、年齢も27歳でしたし、なかなか見つからなかったですね。いろいろ考えて看護学校に行きたいと思って、ボートは完全に辞めて勉強することにしました。
赤見:紆余曲折があったと思いますが、競輪との出会いは?
林:恩師からの繋がりで会った方からガールズケイリンを勧められたんです。それまで競輪のことはよく知らなかったんですけど、恩師や家族も背中を押してくれて。「これも何かの縁だから、もう一回体を動かしてがんばってみようかな」って思いました。初めて自転車に乗った時は、やっぱりバンクがすごいなって(笑)。あと、腕が疲れましたね。競輪学校に入るまで、1年間アマチュアで師匠(藤田剣次選手)に見てもらっていたんですけど、その時に小林優香選手がいて、1年間近くで見られたことはすごく勉強になりました。相当注目されていましたし、とにかく努力する選手なので。そのすごさを近くで見られたというのは、すごくいい勉強になりました。
赤見:競輪学校の1年間はいかがでしたか?
林:姉弟子たち(小林優香選手、児玉碧衣選手)が結果を出していたので、自分もそうでなきゃいけないっていうプレッシャーに押しつぶされそうになったんですけど、自分が同じレベルじゃないっていうことに早々に気づきました。師匠に電話した時に、「同じじゃなくていい」って言ってもらったので、自分は自分でいいって思えるようになって。あと、生徒会長になっていたので、その義務感もあってずっと気が張っている感じでしたね。
赤見:そして、2016年7月に松戸でデビュー。③②②という成績でした。
林:やっとデビューできたなっていう気持ちで、特別緊張したっていうのはなかったんですけど。レースをしていて、競輪学校の競走訓練とは違うなって、このままじゃダメだなって思いました。その後すぐに初勝利はできたんですけど、初優勝までがけっこう長かったですね。
赤見:約1年後の初優勝までの道のりはいかがでしたか?
林:練習でできないことはレースでもできないので、練習でとにかく悩んでいました。どうやったらよくなるんだろうって、悩んで、試してっていうのを繰り返していました。
赤見:今年の5月に見事初優勝!
林:本当は1年目のうちに初優勝したかったんですけど、その目標が達成できなくて...。新年になって、今年中に優勝するという目標を掲げていたので、それが達成できて嬉しかったですね。
赤見:しかも7月にも再び優勝!努力が実を結びましたね。
林:諦めずにやっていたら、100回やって1回くらいしか成功しないかもしれないけど、その1回ができるんだなって思いました。
赤見:今、絶好調ですね!
林:そうですね。トップの人たちにはまだ歯が立たないんですけど、少しずつレースでの脚は上がってきているのかなと思います。これはわたしの性格というか、特徴なのかもしれないですけど。コツコツやっていれば、時間はかかってもステップアップできるんだなって思いました。
赤見:6月29日には、オッズパーク協賛のソフトバンクホークスのイベントに参加していましたが、印象はいかがでしたか?
林:競輪ファンの方というより野球ファンの方たちだったので、競輪の会場でのイベントとまた違う雰囲気がありました。パンフレットを渡してたんですけど、お母さん世代の方々が、「あなた選手なの?」とか、「ガールズケイリンってどういう感じなの?」って聞いてくれたので、新たに知ってくれる人たちがたくさんいたかなと思うと嬉しかったですね。また機会があれば、ぜひ参加したいです。
赤見:今の目標というのは?
林:今年いっぱいは、開催ごとに優勝できるようにと思っています。そこは今年は変わらないと思いますね。
赤見:では、オッズパーク会員の皆さんにメッセージをお願いします。
林:今までは悩むことも多かったんですけど、少しずつ結果が出て、ただただがむしゃらにというところから一歩抜け出せたかなと思います。今は、「林っているんだ」っていうくらいかもしれないですけど、一つずつ上に上がって行けるようにがんばります。これからも応援していただけたら嬉しいです。
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※インタビュー / 赤見千尋
※写真提供:公益財団法人 JKA
ガールズ選手と大学生活を両立させていた、102期の増茂るるこ選手(東京)。2015年に無事大学を卒業し、現在はガールズ1本に集中しています。7月15日から伊東温泉競輪で実施される、ガールズケイリンフェスティバルに向けて、お話しを伺いました。
赤見:ガールズケイリンフェスティバル出場が決まりましたけれども、今の調子はいかがですか?
増茂:着々と仕上がっていると思います。去年もギリギリの出場だったんですけど、今年もなんとか出場が決まってホッとしました。ギリギリでの出場ではあるんですけど、爪痕を残せるように、しっかりと存在感を出して行けたらいいなと思っています。
赤見:増茂選手はガールズ1期の102期生ですけれども、選手を目指したきっかけがかなり特殊ですね。
増茂:そうなんですよ(笑)。大学の時に競輪場でアルバイトをしていて勧められて、という形です。わたしは体育大学に行っていたんですけど、小学生くらいから体育教師になりたかったし、大学がとても楽しかったので、最初は競輪選手になるつもりはなかったんですけどね。
赤見:何が決め手になったんですか?
増茂:母が、すごいごり押しで勧めて来たんです(笑)。高校までずっと真剣に部活をやっていて、大学ではサークルみたいな感じで全然運動しなかったんです。そういうのを見ていて、物足りなかったのかもしれないですね。「やってみれば?」って言われて、そこから話がトントン拍子に進んで、師匠を紹介していただいて、それで選手になりました。
赤見:大学を休学するというのは大きかったんじゃないですか?
増茂:大学が楽しかったので、本当に休学したくなかったし、休学するなら辞めたいと思っていたんです。でも、競輪学校の先生や、親とか周りの人たちから、大学はせっかくだから卒業した方がいいって言われて。その後押しがあったから、休学して復学という形にできたと思います。
赤見:競輪学校を受けると決めた頃は、自転車には乗っていたんですか?
増茂:全然です。普通にママチャリに乗ってた程度で(笑)。でも運動は好きだったので、特に抵抗はなかったです。
赤見:師匠も競輪学校側も、初めてのガールズ選手ということでかなり手探りな面があったと思いますが。
増茂:全然そういうのを考えないで競輪学校に入って、本当に手探りだったと思うんですけど、意外にそれを楽しんでいました(笑)。
赤見:実際にデビューした時はいかがでしたか?
増茂:1期生で、競輪学校からずっと同じメンバーでデビューしたので、デビュー戦も知っている顔ばっかりでした。ただ、お客さんはすごくたくさんいて、そこは緊張しましたけど楽しかったです。
赤見:デビューした後に大学に復学して卒業していますけれども、両立は大変だったんじゃないですか?
増茂:けっこう大変だったんですけど、その分時間が限られていたので、逆に集中して勉強も練習もできたかなと思っています。大学を1年行って、1年休学して競輪学校に行って。デビューしてから復学して3年間通いました。学年が1つずれたので、体育大なので実技がけっこうあるんですよ。それを友達がいない中でやらなきゃいけないっていうのがしんどかったですね。でも、これも体育大ならではかもしれないですけど、自分の学びたいことだけ学んで単位を取ればいいので、卒論も競輪のことにしました。
赤見:どんなテーマにしたんですか?
増茂:自分のトレーニングと、小林莉子選手や奥井迪選手に手伝ってもらって、データを取って、トレーニングを1ヵ月した結果を比べて、何が足りないかみたいなことをテーマにしました。自分の好きなこと、興味のあることで進めていけたので、楽しかったですね。大変なこともありましたけど、結果的に今が楽しいので、この道を選んだことは後悔していないです。
赤見:ガールズ選手の人数が増えて、後輩が増えている現状はいかがですか?
増茂:どんどん強い選手が出てきているので、なんとか埋もれないようにはしなきゃなと思っています。レースでもいろいろ動きが増えましたし、1期生だけだった時と比べるとバリエーションが出てきましたよね。展開も複雑になったなと感じます。
赤見:その中で、モチベーションになっていることはありますか?
増茂:あんまり負けず嫌いじゃないというか、人に対する負けず嫌いがあんまりないんですよ。自分に対する負けず嫌いはあるんですけど。だから、自分のやりたいように楽しく進んでいければなって思っています。今も楽しめているんですけど成績が伴っていないので...。やっぱり、強ければ強いほど楽しいじゃないですか。だからもっと脚力が欲しいですね。そのために練習がんばっています。
赤見:どんなトレーニングに力を入れているんですか?
増茂:今まではバンク練習ばっかりやっていたんですけど、今年に入ってから街道練習も行くようになりました。持久力がないし、自分の戦法も自力だし、弱点を補えるようにしたいなと思いまして。それが少しずつ結果に繋がっているかなと思います。
赤見:今の目標を教えて下さい。
増茂:みんなグランプリって言うと思うんですけど...、それだと目標が高すぎて具体的に見えないので、目の前にある1走1走を大事に走りたいです。
赤見:では、オッズパーク会員の皆さんにメッセージをお願いします。
増茂:いつも応援していただき、ありがとうございます。他の人よりいろんなことをやりながら走っているつもりです。飛ぶ時も多いんですけど...(苦笑)、そこを楽しんで見ていただけたら嬉しいです!
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※インタビュー / 赤見千尋
※写真提供:公益財団法人 JKA
106期の高橋梨香(たかはしりか)選手(埼玉県)は、5月14日に悲願の初優勝を果たしました。これまでの道のり、そして喜びの言葉を伺いました。
赤見:高橋選手は実業団でトライアスロンの選手として活躍していたそうですね。
高橋:3歳から高校までは水泳一筋だったんですけど、水泳の記録がこれ以上伸びないな、という風に悩んでいて。大学に入って、水泳を活かせることないかなと考えていた時、たまたまトライアスロンの入部のチラシをもらって、やってみようかなって軽い気持ちで始めたんです。トライアスロンは水泳ができると有利な部分があって、最初の頃は成績もよかったんですけど、だんだん周りに抜かされていって。それで火が着いて、最後のインカレで優勝したいっていう目標を掲げて練習に励んで、結局優勝はできなかったんですけど、2位を獲ることができました。それがきっかけで実業団に声をかけていただいて、選手として会社に就職したんです。
赤見:競輪との出会いというのは?
高橋:競輪という言葉は知っていましたけど、見に行ったことはなくて、詳しくは知らなかったんです。会社員時代、トライアスロン部を辞めて一般のOLとして働いていたんですけど。なんていうか...、実業団は結果を求められる世界なので、オリンピックは目指していたんですけど、日本選手権でたまたまいい成績を獲ってしまって、もういっかなみたいな、ちょっと燃え尽きたみたいな気持ちがあって辞めちゃったんです。その後にたまたまネットニュースで、女子競輪復活っていうニュースを見て興味を持って。トライアスロンを中途半端に辞めてしまったっていう想いがあったので、もう一度がんばってみたいと思ったんです。
赤見:競輪学校は女子3期生である106期での入学となりました。
高橋:実は1期生の時に試験を受けてるんですけど、2次試験の時にインフルエンザになってしまって行けなくて。2期生も受けようと思ったんですけど、親に相談して、「受験しようと思うんだけど」って言ったら反対されてしまって。それで見送ったんです。でも、3期生の時にやっぱり諦められないからって親を説得して、それで今に至るという感じです。
赤見:相当な紆余曲折があったんですね。
高橋:そうですね。すんなりとはいかなかったです。親に相談した時にはもう30歳を過ぎていたので、いまさら会社を辞めてまでっていう気持ちだったと思うんです。ケガもある世界ですし。でも、最終的には「自分のやりたいことをがんばってみれば」って言ってくれて。
赤見:学校での1年間はいかがでしたか?同期にはかなり若い方も多かったと思いますが。
高橋:最初は時間管理されて大変でしたけど、食事も全部用意してもらえるし、練習場も近いし、仲間がずっといたので、苦しいけど楽しかったですね。年齢的には自分が一番上なんですけど、同期には本当に支えられました。年下の子にもいろいろ助けてもらって、遠回りしたけど106期で入れたことはすごく良かったと思いますね。
赤見:そして2014年5月14日、西武園でのデビューとなりました。
高橋:2着2着と来ていたんですけど、最終日に落車で失格になってしまって...。学校時代の競走訓練とは違うなってすごく感じました。そこから本当にいろいろなことがありましたけど。デビュー当時は優勝するって意気込んでデビューして、でもどんどんレースをこなしていくうちに、優勝できるのかな、できたらいいなっていう気持ちになっていました。ただ、練習しないと絶対に強くなれないので、葛藤の中で気持ちを繋いで練習してきたので、初優勝した時にはすごく嬉しかったです。
赤見:2017年5月14日、デビューから丸3年の日に見事初優勝を果たしましたね。
高橋:いつもは変に動いたり、焦ってしまうこともあったんですけど、いわき平の時はなぜか周りが見えていて、無理に行こうともしなかったし、「ここで脚を溜めていれば大丈夫」って冷静にレースが見れたので、結果に繋がったのかなと思います。ゴールした時は荒牧聖未選手と接戦で、どっちが勝っているかわからなかったんですけど、ゴールした後に山原さくらさんが「おめでとうございます」って言ってくれて、そこで初めて「優勝したんだ」って思いました。
赤見:その時はどんなお気持ちでしたか?
高橋:もう...、信じられない気持ちでした。今までの想いが込み上げてきましたし、周りもすごく喜んでくれて、本当に良かったです。走り続けて来て、諦めずにやって来て良かったです。
赤見:念願の初優勝を果たしましたが、現在の調子はいかがですか?
高橋:今年になって、自転車を替えたりトレーニング方法を変えたりしたので、それがいい方向に向いているみたいです。体のケアも今まで以上にするようになったし、体調がそこまで崩れることもなくなりました。
赤見:現在37歳ですが、若い選手がたくさん出てきた中で、年齢のことは何か感じますか?
高橋:自分としてはそんなに感じていないですね。若い子とは考え方の違いはあると思うんですけど、自分はコツコツすることしかできないので、特に年下が多いとかは意識していないです。
赤見:ちなみに、初優勝で何かご褒美的なものを買いましたか?
高橋:買ってないですね。貯金が趣味なので(笑)、銀行に入れちゃいました。何事もコツコツ型なので(笑)。
赤見:豪華なご飯に行ったとかもないですか?
高橋:ないです(笑)。わたし、高級魚介類が苦手なんですよ。ウニとか、カキとか。イクラだけは食べられるんですけど、マグロも美味しいと思わないし。
赤見:では、好きな食べ物は?
高橋:お寿司でいえば、美味しいと思うのはイカとか納豆巻きです。安いのが好きなんですよ(笑)。
赤見:それでは、今後の目標を教えて下さい。
高橋:今年中にまた優勝したいです!1回だとまぐれ的な感じもするので、もう1回早めに優勝したいですね。そのためには毎日の練習が大事なわけですけど、やった分だけ成果がでるので、会社員時代には得られなかったことをたくさん得られていると思います。当時の同僚や上司も応援してくれているので、その人たちのためにもがんばらないとなっていう気持ちです。
赤見:最後にオッズパーク会員の皆さんにメッセージをお願いします。
高橋:プロでやっている以上、3日間車券に貢献するのが一番だと思うので、3日間車券に貢献するために努力しますし、最後まで諦めずに走っている姿を見て欲しいです!
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※インタビュー / 赤見千尋
※写真提供:公益財団法人 JKA