天下獲りの冬の陣 イエヤス
Photo●OPBM
「イエヤスが天下を獲った!」
年号が昭和から平成に変わった年の農林水産大臣賞典(現・ばんえい記念)。伏兵イエヤスが先頭でゴールした瞬間、スタンドは沸いた。この年の大臣賞はのちに1億円馬となるタカラフジ、ヒカルテンリュウの一騎打ちと見られ、連勝オッズも2倍と両馬が圧倒的な人気を集めていた。
当日の帯広競馬場は12月10日とはいっても晴れの天気で馬場水分2.5%であり、ひじょうに時計のかかる馬場状態だった。スピードを生かしたレースでの実績はあるが、11月12日の北見記念900キロが今まで経験した最高重量のイエヤスである。それに比べ、タカラフジは岩見沢で行われた地方競馬全国協会会長賞で2着のキンタイコーに15秒の大差をつける圧勝劇を演じており、そのタカラフジを5馬身突き放し旭王冠賞馬となったのがヒカルテンリュウ。超満員のファンの誰もが「銀行馬券で暮れのボーナスを」と思うのも当然だった。
5分32秒2。農林水産大臣賞典の重量が1000キロに定められてからの優勝最高所要タイムである(※1)。まさに死闘だった。ゲートが開き各馬定位置を第2障害に進み、赤い帽子の西弘美騎手・イエヤスが先頭で降りても、まだ誰も銀行馬券を疑うことはなかった。すぐあとに金山明彦騎手のヒカルテンリュウが、3番手に久田守騎手のタカラフジが差なく続いて降りたからだ。「逃げ」といってもばんえい競馬だ。10メートル進んでは止まり、5メートル進んでは止まるのである。それと一緒にファンも声援を送りながらスタンド前を200メートル移動するのだ。「これがバンバだ」と叫んでいる老人もいる。
6歳で農林水産大臣賞馬となり天下獲りを果たしたイエヤスは、昭和61年北見競馬場で行われた能力テストを1回で合格、デビュー戦もゴール前で差し切って勝ったが、タイム的には平凡だった。61年デビュー組はチカラトウショウやゴーニテンリュウ、牝馬ではミドリゴゼンと実力馬が揃うなかでイエヤスは陰の存在だった。3歳時は北見産駒特別の優勝はあるが、レース名のとおり北見産駒限定戦である。3歳オープンでは入着はするが勝てないレースが続く。
しかし不思議なことに、常に人気になる馬ではあった。そのイエヤスという馬名が人気の要素だったのかもしれない。
ばん馬の名前は昭和40年代前半までは山や河、海など出身地を思わせるものが多く、馬名で馬主さんが分かったものだったが、後半からNHK朝のドラマやコマーシャルからの馬名が多くなるのも特徴である。国民的ドラマの主人公の名をとり「オシン」、「キタノアグリ」や「アグネス」(香港出身の歌手ではなく、ハワイ出身のアグネス・ラム)にヒゲで有名な現調教師(※2)である片平俊悦騎手が乗っていたのも面白い話である。オリンピックの翌年は必ず優勝者の名前が登録馬の中に入っていて、「ルイス」や「ジョイナー」など、時代を反映した名前が見受けられたものだ。
兄弟騎手の兄として1000勝騎手となった(※3)西弘美騎手は、その後フクイチで平成9、10年の大臣賞を制したが、初めて大臣賞を優勝したのがイエヤスだった。「デビューからずっと手綱を取りました。最初は他厩舎に所属していたのですが、すぐに私の所属の山本幸一厩舎に転厩してきたんです。普段は大人しいんですが、レースが近くなると担当の厩務員しか馬房に入れることができないほどで、馬房の壁は穴だらけでした。イエヤスの同期は本当に強い馬が多くて、騎手の仲間とよく『鳴くまで待つか』なんて話していたものです。現実に大臣賞に出走させるにも、4歳時のばんえい大賞典をひとつ勝っただけの実績しかありませんでしたからね。でも1カ月前の北見記念3着の時の手ごたえが本当に良かったんです。山本先生と相談して出走させて、苦しいレースでしたが勝って良かったです。大臣賞を勝ったあとは、あんなに強いレースをしたのが嘘のように勝てなくなりました。大臣賞で燃え尽きたんですね。でも種牡馬になってからも初仔のダイカツは現在5歳オープンで活躍していますし(※4)、4歳もパワーウルフ、レーザーエッジと続いています。楽しみですよ」
10月10日(※5)に旭川で行われる旭川記念にイエヤスの長男ダイカツが出走を決めた。ダービー馬ハイトップレディなど実力馬を相手に、無冠のダイカツがどう立ち向かうか、楽しみである。
文/小寺雄司
(馬齢は当時の旧年齢で表記)
※1:その後、08年にトモエパワーが制したばんえい記念が5分35秒8。
※2,3,4,5:1999年当時。
イエヤス
1984年2月27日生 半血 牡 青毛
父 半血・アラミノル
母 半血・クシロホープ
母の父 ペル・2世ロッシーニ
北海道常呂郡佐呂間町・柴田秀男氏生産
競走成績/162戦17勝(1986~94年)
収得賞金/52,907,000円
主な勝鞍/87年ばんえい大賞典(旭川)、89年農林水産大臣賞典(帯広)
月刊「ハロン」1999年11月号より再掲