何故ばんえい競馬を失ってはならないのか?
今年度のばんえい競馬情報局の小生担当分は本日をもって終了である。そこで、本日は、余は何故輓曳に肩入れする哉につひて開陳せむと思ふ(と、旧仮名遣いで書こうと思ったが、ワープロソフトで旧仮名遣いはたいへんなので無意味な努力はやめる)。
先々週3月6、7の両日にわたり、東京大学を会場に、ヒトと動物の関係学会というまことにもって語呂の悪い学会が開かれた。英語表記は、Society for the Study of Human Animal Relations (HARs)となっている。Study of Human Animal Reltions を「ヒトと動物の関係学」と直訳しているわけですな。他に何か手頃な言葉はなかったんかいなとも思うが、そんなことはどうでもいい。
今年のシンポジウムテーマのひとつが「牛を語る」であった。このシンポジウムで、東京大学東洋文化研究所の菅豊教授が「ヒトと牛と地域社会」と題して講演をおこなった。これがめちゃくちゃ面白い話であった。この先生、文化人類学が専門らしく、新潟の闘牛を通じた地域社会のあり方を研究テーマにしているのである。単に研究テーマにしているだけではない。自ら闘牛のオーナーとなり、闘牛の開催時には法被を着てみずから手綱をひいて出場するという御仁なのである。この小さな写真ではわかりにくいが、この学会の学会誌25号の表紙右下の小さな写真が菅先生の闘牛出場時の勇姿である。
われわれ経済学者はつい経済効果が云々なんぞということをいう。もちろん、経済効果は重要である。闘牛の経済効果も確かにあるが、しかし闘牛を支えている根底にあるのは地域のアイデンティティや文化を守ろうという地域住民の自然発生的な意思なのだというようようなことを菅先生は述べていた。
そもそも闘牛は自分ちの牛自慢からはじまったらしい。ここらはばんえいと全く同じである。だから、本来、闘牛の牛には固有の名前がないのだそうだ。屋号が四股名なのである。小生が昔徳之島に行って闘牛の話を聞いたときもそういっていた。徳之島の闘牛の番付も「××兄弟号」とか「喫茶○○号」などと記載されていた。牛は家を代表しているわけである。馬には名前がついているが、ばんえいという競技は馬と共に生きる人々が自分の馬を自慢するためにはじめた競技であるから、似たようなものだ。
闘牛は牛のオーナー飼育者のみならず、それぞれの立場の人がそれぞれの役割を担ってお互いが結びつきあって成立しているのだそうだ。それが地域社会のひとつの紐帯となっている。中越地震の後、自分の家よりもまず牛舎を建てた人もいるそうな。闘牛はいわば地域の誇り・シンボルなのである。
さて、わがばんえいを考えてみよう。確かに元々は闘牛と同じようなものだった。だが、騎手や調教師が専業化し、「近代化」(あくまで「 」付きの近代化だけれど)するにつれ、地域社会との関わりが希薄化していった。馬券さえ売れて収益が上がればいい。そうした方向を辿った行き着く先が存廃問題だった。
小生は、ばんえい十勝と名を変えた意味をもう一度訴えたい。世界で唯一のばんえい競馬は十勝の文化でありアイデンティティのシンボルであるべきなのである。「自治体の財政支出が怪しからん」なんぞと言いたがる人も多い。こうした意見は、例えていえば、「爺さん婆さんは銭儲けしないからわが家には要らない。さっさとあの世に行ってくれ」と声高に叫ぶようなものである。
スケート場が怪しからん。ばんえい競馬も怪しからん。確かに、ごく短期的な経済合理性からいうとそうかもしれない。では、これらを排除した十勝に、そして北海道に何が残るのか? フロンティアスピリットなんぞは遠い昔に失われ、日本中どこにでもあるような町がそこにあり、特に何かを語れるものもなく、そんな町に愛着や誇りをもって育つ子供がいるだろうか?
スキーやスケートの一流のプレイヤーを身近に見て育ってこそ、自分は北海道の出身だといえるのではなかろうか。日高で育った子が長じて他の土地で働くようになったとしよう。「北海道の日高で生まれ育ちました」と自己紹介すると、他の土地の人は「日高って馬のいっぱいいるところでしょ? 乗ったことあるの?」と尋ねるでしょう。「一応小学校で乗馬の時間があった。僕は下手だったけど」くらいのことは言ってほしい。いや言えるようになるべきなのである。
大阪の子は学校から帰ったら吉本新喜劇を見て育つのである(少なくとも小生はそうだった)。「僕の生まれ育った十勝・帯広にはばんえい競馬っていうのがあって、サラブレッドみたいなか細い馬じゃなくて、すごい象みたいな馬がすごいレースをやるんだ。僕も橇に乗っけてもらったりしたけど、本当にすごいよ」くらいのことをいえるようになってほしい。そうして世界に散っていった子たちが帯広を広めてくれるのである。ひいてはそれが観光にもつながっていくのである。
そのためには、馬券の収支や経済効果だけに話を矮小化するのではなく、ばんえいを応援する人たちがそれぞれの立場で、それぞれのやり方で、それぞれの役割を果たして行くことが重要なのだと小生は思う。
十勝・帯広の人たちに訴えたい。あなたたちはどんな町を、地域をつくりたいのですか? 何の変哲もなく、そこで育った子供たちが世界のあちこちで、ただ寒かったとだけしか語ることのできない町をつくりたいのですか? 小生が地域経済学科の教授(知らない人も多いだろうが、恥ずかしながら実はそうなのである。ついでにいうと、札幌大学でも地域経済論なる講義をやったりしている)だからいうのではないが、地域づくりとか、町起こしというのは、どこかでやっていた祭をパクって企業の広告を集めることではないと思う。他にない文化があって、それをベースにしてこそ、真の地域づくりなのだと思う。
ばんえい競馬の厩舎関係者のみなさんにも訴えたい。あなたがたは他に代え難い技能の持ち主なのです。あなたがたがばんえいと共に生きる覚悟があるならば、住民税の納付だけでなく、地域の発展に貢献しうる希少な資源であるという自覚をもっていただきたい。
そして、ばんえい競馬情報局の読者のみなさんにもついでに......ついでにというのも何ですが、訴えたい。自分自身も含めてであるが、出来るだけ多くの人にばんえいを宣伝しよう。馬券も買おう。例え、自分の買った馬がゴール前で止まり、「大口のばかやろー!」とテレビの前で叫んでも、大口騎手はとってもいい人です。何度裏切られても、やっぱり乗り替わりの大口は買いましょう。小生、Aiba石狩の場立ち予想会では大口騎乗馬はほぼ毎回推奨してるんだからねっ! その分、裏切られたときの怒りも......。
とまあ、なぜか、最後に大口騎手への熱い応援(?)になったけど、そういうことです。ご愛読多謝!
なお、3月22日午後6時半から帯広市のとかちプラザ・レインボーホールでばんえいシンポジウムを開催します。お友達、お知り合い、ご親戚、その他何でもお誘い合わせの上、別にお誘いあわせでなくお一人でも構いませんので、お越しくださいましm(_ _)m
詳しくはNPOとかち馬文化を支える会のブログをご覧下さい。一緒にばんえいを語りましょう。