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2007年1月 6日 アーカイブ

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馬券おやじは今日も行く(第29回)  古林英一

2007年1月 6日(土)

謹賀新年、今年もばんえい

 全世界のばんえいファンの皆様、謹んで新春のお慶びを申し上げます。

 嵐のような年末が通り過ぎ、まずもって今年もばんえいを楽しめることを素直に言祝ぎたいと思う正月である。

 昨年末発売の「週刊競馬ブック」(44巻51号)のリレー連載コラム「一筆啓上」に、日経新聞の野元賢一氏による『誰が「文化」を買い支えるのか?』というコラムが掲載されている。例によって野元氏らしい言説である。

 氏は「第一に、従来の“掛けを媒介にしたスポンサーシップ”とは異なる支援方法の確立が必要である」と説いている。まことにもって御説ごもっともである。「つづけよう!ばんえい競馬」で、われわれが提案したかったのは、まさにその点だったと小生は理解している。馬券の売上増大が至上命題であることはもちろんだが、世界に一つのばんえい競馬とその背後にある農用馬生産や北海道の馬事文化を後世に伝えるためには、馬券の売上だけではなく、ばんえい競馬の多面的機能を発揮し、地域の貴重な文化・観光資源としてばんえいを活用することが重要である。

 氏は「現在の公式競馬の枠組から逸脱するが」、「サッカーのように、業界周辺に酔狂な人がいなければ、これも絵に描いた餅となるのだが……」と続けている。

 “現在の公式競馬の枠組”なるものであるが、法学士野元氏には釈迦に説法であろうが、そもそも競馬法には競馬の目的について何の規定もおかれていない(競輪・競艇・オートレースとは違うのだ)。つまり、これまでの「地方財政への寄与」という競馬の目的は、主催者が勝手に設定したものなのである。競馬の目的そのものを、地域住民の厚生の増大とすると、主催者が決めればそれで済む話である。これを“逸脱”と呼ぼうが、“革命”と呼ぼうが、そんなことはどうでもいいことだ。念のために付言するが、小生は何も馬券収支が赤字でいいといっているのではない。馬券収支が赤字でも競馬事業を中核とした事業そのものが、地域経済のなかで収支均衡すればいいと言っているのである。

 競馬そのものは“遊びごと”である。“遊びごと”を育て、伝えることが文化の形成・伝承であると小生は定義する。その担い手は所詮“酔狂な人”なのである。今回の存続運動を主体的に担った人たちの多くは、野元氏からみればまさしく“酔狂な人”といえる人たちである。酔狂、大いに結構ではないか。国民的スポーツなどといいながら、所詮は企業の宣伝媒体でしかないわが国のプロ野球より、勝った・負けたと騒ぎながら、市民がその根幹を支えてきた競馬のほうが、はるかに市民に立脚した健全なプロスポーツであると小生は思っている。

 で、今回の重賞3連戦である。年末の競輪グランプリの後、小生のパソコンがついにダウンしてしまった。ハードディスクを交換したら無事に復活はしたものの、おかげで「重賞予想:矢野・斎藤両巨匠に挑戦!」を公表できなかったのが、まことにもって、返す返すも悔しい……と、ちょっと見栄をはった小生であるが、実際のところは、帯広記念はトモエパワーは買っていたものの、スターエンジェルには手が回らず惨敗、銀河賞はスーパークリントンからはいったお陰で辛うじて白星、つづくホクレン賞はカネサリュウよりニシキガールを選んで失敗、都合1勝2敗というさして自慢できる結果ではなかったのだ。

 馬券の結果はともあれ(外れ馬券ドランカーの小生である。今さら、そんなこと気にして生きていけるものか)、『誰が「文化」を買い支えるか?』といわれりゃ、「断るのも角が立つので(存続嘆願の署名簿に)名前を書いた」ような男にゃ頼らねえ、わしが買い支えちゃるわい!と、勢いよく啖呵を切ったものの、みなさん、わし一人ではさびしいので、みんな一緒にがんばりましょうね~(^^)/

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