地方競馬の各地に根ざした重賞レース名について紹介する第3回は、岩手から(第1回はこちら、第2回はこちら)。
岩手競馬には、その地を象徴する重賞レース名が数多くある。
まずはJpnIのマイルチャンピオンシップ南部杯。現在の岩手県中部から青森県東部にかけての地域が江戸時代の盛岡藩で、その藩主が南部氏だったため南部藩とも呼ばれた。そこからの命名ということでは、まさしく岩手競馬を代表するレースにふさわしい。
かつて北関東以北の地方交流として水沢競馬場で行われていた時代は北日本マイルチャンピオンシップ南部杯だったが、1995年に中央との全国交流となって『北日本』ではなくなった。
中央との交流になっての2年目、1996年に現在の盛岡競馬場が開場し、その年から盛岡競馬場が舞台となった。中央との交流が進み、地方競馬がもっとも盛り上がっていた時期。南部杯の本馬場入場では、誘導馬の騎乗者が南部氏の家紋である『南部鶴』が描かれた旗を掲げていた。また南部氏の末裔にあたる現当主が来場し、表彰式ではまさに"南部杯"を優勝馬の馬主に授与していたのだが、それは今も続いているのだろうか。
そして馬産地としての岩手や岩手競馬に深く関わりがあるのが、一條記念みちのく大賞典。今年で48回目を迎えた伝統のあるレースで、かつては単に『みちのく大賞典』だったが、2001年から"一條記念"が冠された。
明治から大正期にかけて岩手の馬産発展に多大な貢献をした一條牧夫氏、その息子で戦後の岩手競馬の復興に貢献し、1995年まで使用されていた旧盛岡競馬場の設計にかかわった一條友吉氏を記念したもの。
さらに岩手を代表するレース名といえば、岩鷲(がんじゅ)賞。盛岡競馬場スタンド裏の先にその姿を望むことができる岩手山の別名が岩鷲山(巌鷲山とも)。春、雪解けの時期に山頂付近に現れる山肌が、羽を広げた鷲の形に見えることからそのように呼ばれるようになったようだ。
また、岩鷲賞のトライアルとなっている栗駒賞は、岩手、宮城、秋田にまたがる栗駒山から。
地元以外の人には知らないと読めないレース名が不来方(こずかた)賞。江戸時代、不来方と呼ばれていた地域が現在の盛岡市となった。また盛岡藩を治めていた南部氏の居城、盛岡城の別名も不来方城だった。
現在の盛岡競馬場の愛称『ORO PARK(オーロパーク)』から重賞レース名となっているのが、OROカップとOROターフスプリント。どちらも芝の重賞なのは、地方競馬ではめずらしい芝コースが盛岡競馬場の象徴でもあるからだろう。
北東北は、古くは金の産地であり、明治終盤から戦後まで開催されていた、現在の前の前の盛岡競馬場が黄金競馬場とも呼ばれていた。これは日本赤十字社総裁でもあった閑院宮殿下が名付けたと言われている。そして1996年に現在の盛岡競馬場が開場する際、黄金を意味するラテン語のOROが愛称として採用された。
またJRA東京競馬場では、盛岡競馬場との交換レースとして、毎年11月中旬にオーロカップが行われている。
絆カップが新設されたのは2011年。3.11に東日本大震災があり、第1回絆カップはその年の秋に行われた。特に被害が甚大だった東北地方では、復興を祈念して"絆"という言葉がさかんに使われたのは記憶に新しいところ。このレース名もまた、東北の象徴である。
大晦日に行われている伝統の重賞、桐花(とうか)賞は、岩手県の花となっているキリ(桐)の花から。岩手県のウェブサイトから引用すると、<本県産のキリは、材の光沢が強く淡紫色をおびて美しいので「南部の紫桐(むらさききり)」として知られています。>とのこと。岩手競馬では、かつてアラブ系の紫桐(しとう)杯という重賞も行われていた。
最後に余談になるが、JpnIIIのクラスターカップについて。新型コロナウイルスが日本でも蔓延すると、ネット上では競馬ファンの間で「クラスターカップはそのままのレース名でやるのか?」というようなコメントが見られた。
第1回クラスターカップが行われたのは、中央・地方の交流が進みはじめた1996年。当時、岩手競馬の重賞にはまだ短距離戦が少なく、新たな時代を見据え、短距離の番組も充実させようということから交流重賞として新設された。
当時の記事から引用すると、<中央競馬と地方競馬、岩手競馬をそれぞれ一つの星団(スタークラスター)に例え、互いの交流と発展を目指し、オーロパークが接点の場になることを願って名付けられた。>とある。つまり、このクラスターは星団のこと。間違ってもウイルスの集団感染のことではない。
今回で日本列島を縦断して最後にするつもりだったが、岩手競馬だけで長くなってしまった。ホッカイドウ競馬とばんえい競馬は次回に(つづく)。