伊勢崎オート所属の20期・栗原勝測選手にお話をお聞きしました。
(取材日7/29)
―オートレーサーになろうと思ったきっかけは何ですか?
高校受験の勉強している時に、親戚のおじさんが『そんな勉強ばかりしてないで、スカッとした所に行こうぜ』って言われて、何だろうって思ったんですけど、日曜日に(オートレース場に)連れていってもらったら、すげーっ!みたいな感じで、これって自分もなれるのかなって思って。それで、高校3年にならないと受けられないって聞いて、高校3年まで待って、18期を受けたら落っこちちゃって、仕方ないから大学に行って、それで勉強していたんですけど、19期の時は不手際で受けられなくって。申し込んだんですけど、送られてきた受験票が家のポストの新聞と新聞の間に挟まっていて、気づかないままで試験の期間が終わってて...(笑)それで、大学4年の時に就職試験と一緒にオートレースも受けて、就職も決まっていたんですけど、まあ、オートレースの2次試験も合格してたんで、迷わず、会社の方は断って大学は4年で辞めて、オートレースの養成所に入りました。家族は『大学を4年も行ってたんだから、オートレースじゃなくて、普通に就職してくれよ』って、安定した方へ行って欲しいみたいでみんなに反対されたんですけど、自分を通して...。
―養成所は入ってみてどうでしたか?
まあやっぱり(家に)帰れないっていうのは初めての体験だったので、すごいキツかったですけど、体力の訓練とかはそんなに...。バイクはそれまでにちょっと乗っていました。400ccくらいのを乗っていたので、養成所ではまあまあ普通くらいで、真ん中くらいでしたよ。
―デビュー戦のことは覚えていますか。
覚えてます。今みたいな夏の暑い時で、走路がギラギラしてましたけど逃げ切って1着でした。デビュー戦の次のレースはもう1級車と同ハンで、相手は1級車だからスタートで行かれて...。その日は負けて、その次の日はまた1着でしたね。デビュー節は3日間で2回1着でした。
―今までで一番覚えているレースはありますか?
覚えているのは船橋の雨で初優勝したのと、飯塚のオールスターでSGの決勝に乗ったのと、その後、伊勢崎のSGグランプリで雨の優勝戦、その3つが一番印象に残っていますね。
―最初の配属は船橋オートでしたよね。それは自分の希望とかを出すんですか?
養成所の最後に配属が発表されるんですけど、自分は群馬県にいたので伊勢崎を第一希望、川口を第二希望、それで、船橋は当時すごく強かったんですよ。オートレース業界四天王っていう存在がいたぐらいで『あそこ行ったらすぐにクビになっちゃうぞ』って候補生の中で話題になっていて、自分は行きたくなかったので、第三希望は浜松にしたんですよ。ただ、実際には船橋になっちゃって...(笑)でも、船橋配属になったからには頑張るしかないなって。まあでも、いい先輩がいっぱいいたし、身内も良かったし、師匠の石川さん(船橋8期・元オートレーサー石川敏晴選手)が優しい人で自分のミスをフォローしてくれたんで、すごい感謝していますね。内越さん(伊勢崎14期・内越忠徳選手)も乗り方を教えてくれたし、あとは周りの片平さん(船橋19期・元オートレーサー片平巧選手)とか飯塚さん(船橋9期・元オートレーサー飯塚将光選手)とか宮城さん(船橋18期・元オートレーサー宮城秀樹選手)とか、見本になる先輩がいっぱいいたので、その走りを見てマネしたりして、まあ、マネはできなかったんですけど、そういう面では勉強にはなりました。だから船橋では成績を残せなくても遠征では優勝戦に乗れたりとか、レベルの高い所でやっている分、外では頑張れた時が多かった気がします。それもあってオールスターとかグランプリとか他の所でやったレースでああいう結果が残せたんじゃないかって思います。
―SGで優勝戦まで行った時は気持ちも高ぶってきますか?
もう全然、そういう気持ちじゃなかったので楽でしたけどね。自然体で。でも、やっぱりSGの優勝戦とかになると取る気がないと取れないっていうことを感じましたね。それで、次の時は取る気で行かないとダメかなって気持ちになって、その気持ちで行きました。でも、結果は当時、岡部さん(山陽19期・岡部聡選手)が雨で超抜だったんで、岡部さんにやられて、柿沼さん(伊勢崎21期・元オートレーサー柿沼進一選手)にもスタートで叩かれてしまって、結果3着だったんですけど一応、自分の中では結果は残せたかなって。
―ここまでオートレーサーとしてやってきて苦しかったことはありますか?
うーん、やっぱり新人の時が一番苦しかったですね。やることも多いし、練習もいっぱいやらなきゃならないし、みんなのお手伝いとかもあったり。1節が終わるとグッタリで、群馬まで帰るんですけど、高速道路で途中で眠くなっちゃって、パーキングエリアで朝まで寝ちゃったこともありました。それで、当時は携帯電話もなかったので、親が心配しちゃって、帰ってこないので事故しちゃったんじゃないかって、警察に問い合わせたりしちゃったこともあったぐらいで...。ホント疲れちゃって、車の中で熟睡しちゃって。その頃が一番大変だったかな。
―オートレーサーとしてやってきて嬉しかったことはありますか?
やっぱり結果が残せた時ですね。優勝とか、そういう時。優勝は今まで10回あるんですけど、その10回はすごい嬉しいですよね。特に2019年に優勝したのが18年ぶりの優勝で、その時、自分が第一希望で行きたかった伊勢崎で初めて優勝できて嬉しかったです。その時のメンバーも青山(伊勢崎31期・青山周平選手)がいたり貢(伊勢崎22期・高橋貢選手)がいたり、10メーター後ろにそうそうたるメンバーがいての優勝だったので、すごく嬉しかったですね。まさかできるとは思わなかったし、それは嬉しかった。あとはあれですね、いい先輩にも恵まれたんですけど、いい後輩にも恵まれて、中村雅人(川口28期・中村雅人選手)、たまたま自分が選んだわけでもないんですけど、あてがわれた選手がSGや年末のスーパースターを取ったりしてくれて結果を残してくれたんで、すごい嬉しかったですね。自分のこともさておき、それも嬉しいことの一つですね。いい刺激にもなりますし、整備面でも教えてもらったりとか。今は逆にアドバイスとかもらっている現状なんですけど、そういうのでまた自分の方も上向いて、頑張るモチベーションになってる感じです。自分の息子とほぼ同じ感じ、息子みたいな感じなんですけど、楽しくやっていて全てにおいてプラスですね。振り返ると、いいつながりというか、それってなかなかない巡り合わせなので。
―あと日々、取り組んでいることはありますか?
朝晩、一日1時間か2時間は運動をするようにしてます。あとは食事制限というか、考えながら体重が増えないように、できれば軽くなるように心がけているくらいで、みんなと変わっていることはやってないです。あと、お酒を飲まないようにしたりとか。レース開催中は神経を研ぎ澄ます意味もあったり、太らないようにと緊張感を持ってやってます。
―レースしていて、走りにこだわりとかはありますか?横断幕には『炎のストッパー』なんて書いてありますが。
前から走ることが多いからどうしてもストッパーになっちゃうんですけど(笑)抜かれないようにするには抑える競争になって...。ホントはね、開け開けで、スピードで抜かれないようにするのが理想だと思うんですけど、もうこのぐらいの歳だと絶対的にスピードはないので、少し小さく走って少しでも抜かれない競争になっちゃうんですよね。後ろの人には申し訳ないんですけど、そういう競争で、昭和の競争になっちゃってます。不本意なんですけど、それしかできないので、それで3連単に絡むようにしないといけないので、なるべく絡めるように頑張るレースをすると、そんな感じになっちゃうんですけど。まくってくる分にはどうぞってなるんですけど、ナカからはちょっと行かれないように心がけて、まずスタート行って、自分の展開にしなきゃいけない。前の人を早めにさばいていくことが必須になってきますね。
―これからこうなりたいって目標はありますか?
目標っていうと、自分的にはいろいろ数字的なものしかないんですけど、500勝とかね。それはとりあえず達成したので、次の目標となると700勝とか、遠いんですけど、それを目指すということですかね。あとは山陽だけ優勝してないので、山陽で優勝できたらなって思います。あとは昭和の選手なので、昭和、平成、令和ときたので、次の元号まで走れるように、4つの元号を走れるように頑張れたらなって。元号っていうのは何とも言えないですけど、4元号を頑張れればってところを目標に頑張っていきたいです。
―最後にオッズパーク会員の皆様へメッセージをお願いします。
自分は試走タイムがあまり出ないんですよ。先ほども言ったようにスピードがないので...。そこら辺をお客さんが、ちょっと難しいかなって思うんですけど、買っても100円でいいので、来たらデカいので、買っても100円なので損失は少ないと思うので、宝くじの大きいのを買ったつもりで、これからも応援していただければなって。
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