岩手競馬の小西重征調教師が、5月22日の水沢第7レースで勝利。地方競馬通算1915勝とし、岩手所属調教師の通算勝利数記録を更新した。
岩手競馬では昭和40年代まで繋駕(けいが)速歩競走が行われており、それも含めた勝利数で故・阿部時男調教師の1914勝が岩手所属調教師では最多となっていたが、小西調教師は平地競馬のみでその記録を更新した。
小西調教師は1979年4月の初出走から今年で44年目の79歳。一昨年が43勝、昨年が39勝という成績なので、このペースであれば来年、もしくは再来年には通算2000勝となるだろうか。
小西重征調教師といえば、思い出されるのがトウケイニセイだ。
デビューから18連勝、通算43戦39勝。シアンモア記念、みちのく大賞典、南部杯、北上川大賞典、桐花賞という当時の岩手の主要古馬重賞をすべて制したほか、東北3県交流の東北サラブレッド大賞典も制した。
トウケイニセイは1989年9月の2歳時(馬齢はすべて現在の表記)にデビュー戦を勝利。しかし2戦目となったのは1年7カ月も後の4歳4月。屈腱炎を克服しての復活だったが、その不安は引退までつきまとった。
小西調教師は、この度の記録更新の際に、「自分の厩舎は馬を大事に使う馬主さんが多くて、できる限りレースを・・・という馬が多い。」とコメントしているが、1年7カ月もの休養ののちに岩手の頂点に上り詰めたトウケイニセイがその象徴といえるだろう。
ぼくが初めてトウケイニセイを生で見たのは、1994年の7歳時、12月5日に水沢で行われたフレンドリーカップだったと記憶する。『交流元年』と言われ中央・地方の交流が広まったのは翌95年のこと。当時交流レースはごく限られており、フレンドリーカップはこの年初めて行われた、岩手オープンと中央900万下(現・2勝クラス)の交流戦だった。出走10頭で岩手6頭、中央4頭。トウケイニセイが勝ち、上位6着までを地元岩手が独占した。
翌95年にも行われたフレンドリーカップは、前年の結果から中央馬は準オープンにクラスを上げられた。それでもトウケイニセイが勝って岩手勢が3着まで独占。当時中央のダート馬はたしかに層が厚くはなかったが、それにしても当時の岩手オープン馬は中央のオープンとも互角に戦えるほどレベルが高いものだった。
出世が遅れたトウケイニセイが重賞戦線を使われるようになったのは93年の6歳時から。以降、生涯のライバルとなったのが2歳下のモリユウプリンスで、2頭によるワンツー決着はじつに10回。モリユウプリンスがトウケイニセイに先着したのはわずかに2回あったのだが、それが94、95年、旧・盛岡競馬場でのみちのく大賞典。モリユウプリンスは、トウケイニセイ不在の北上川大賞典(旧・盛岡2500m)でも95、96年に連覇を果たしており、起伏の激しい旧盛岡競馬場の長距離戦で強さを発揮した。
巡り巡っていま僕の手元にあるゼッケン。トウケイニセイは94年桐花賞を勝ったときのもの、モリユウプリンスは95年みちのく大賞典を勝ったときのもの
トウケイニセイが全国から注目を集めたのは、マイルチャンピオンシップ南部杯が初めて中央との交流として行われた95年。フェブラリーステークス(当時GII)や帝王賞などダート重賞5連勝中だった中央のライブリマウントとの対決で戦前から盛り上がりを見せた。
このときは東京近郊からも多くのファンが水沢競馬場に押し寄せ、東北新幹線・水沢江刺駅ではタクシーがまったく足りなくなってしまった。水沢競馬場で開門前に行列ができたのもおそらく初めてのことで、昼前には専門紙が売り切れてしまい、そのあとは専門紙のコピーが配布された。
勝ったのは1番人気に支持されたライブリマウント。2着にも大井のヨシノキングが入り、トウケイニセイは生涯初、そして唯一の3着に敗れた。すでに8歳になっていたトウケイニセイは、その次走、大晦日の桐花賞を勝って引退となるのだが、「(能力が)ピークのときに対戦したかった」という菅原勲騎手の言葉が印象的だった。
種牡馬となったトウケイニセイは、初年度こそ24頭と交配して20頭の産駒が血統登録されたが、8年間の種牡馬生活で残した産駒は35頭。残念ながらこれといった活躍馬は出せなかった。
種牡馬引退後は、生まれ故郷である北海道えりも町で余生を過ごし、その後は岩手県滝沢市の馬っこパーク・いわてに移された。
しかし2012年3月6日、25歳で急死。横隔膜破裂による呼吸不全が直接の死因と診断された。
3月18日には馬っこパーク・いわてで『トウケイニセイを偲ぶ会』が行われた。
そして競走馬としてはめずらしいことなのだが、トウケイニセイは解剖が行われ、右前後肢の骨や蹄などが奥州市の牛の博物館に展示された。また、ホルマリン漬けにされた心臓は馬っこパーク・いわてに保管されている。
偲ぶ会で出席者に配布されたトウケイニセイのたてがみ