競輪学校卒業記念レースで完全優勝し、注目の新人としてデビューした、110期の土屋珠里(つちや じゅり)選手(栃木)。その期待通り、初出走初勝利を挙げて華々しくデビューしましたが、その後ケガによって休養を余儀なくされました。2年目の今年は、どんな気持ちで挑むのでしょうか。
赤見:まずは競輪選手を目指したきっかけから教えて下さい。
土屋:学生時代は陸上をやっていたんですけど、高校3年生の時に進路で迷っていて。ちょうどその頃にガールズが始まったっていうのをテレビで見て、カッコいいなと思いました。父からも「自転車競技は合っているんじゃないか」って後押しされて。それで、やってみようかなと。ただ、どうやって選手になればいいのかわからなくて、最初は選手会に電話したりして、いろいろ調べました。父もいろいろ伝手(つて)を探してくれて、知り合いの知り合い?の方が競輪選手を紹介してくれて、そこから師匠の宮原貴之選手を紹介してもらったんです。
赤見:戸惑いはなかったですか?
土屋:最初は師匠っていう関係がよくわからなくて。師匠って何?って感じでした(笑)。「厳しい世界だけど、やっていける?」と言われて、「がんばります!」と。すごく優しい方で、いろいろ詳しく教えていただきました。ただ、競輪学校の試験まで期間がなかったですし、自転車に乗ったこともなかったので、最初はけっこうキツかったです。
赤見:適性試験で見事競輪学校に合格したわけですが、学校生活はいかがでしたか?
土屋:自転車経験がとにかく少なかったので、練習はキツかったです。でもその分、どんどんタイムが出るようになるのが楽しかったですね。あとは、練習もそうですけど、毎日が時間に追われる生活だったので、そこもしんどかったです。それでも、1年で選手になれるわけですから、とても充実した時間でした。
赤見:わたしが体験で競輪学校に行った時は、最後まで残ってご飯を食べていましたね。
土屋:体の増量をしたくて、無理してたくさん食べていました。学校のご飯はバランスよく考えられているし、美味しく作ってくれているんですけど、それでも毎食毎食たくさん食べるのは大変でしたね。お陰でだいぶ体を作ることができました。
赤見:その甲斐あって、競輪学校の卒業記念レースは1着1着1着の完全優勝でした!
土屋:卒業レースに向けて調子が上がっていたし、もちろん優勝を狙っていたんですけど、実際に優勝できた時はびっくりしました(笑)。自分だけでなくみんなが優勝を狙っていたし、まさか本当に優勝できると思っていなかったので。でも、ものすごく嬉しかったです!初めのうちは自転車経験が少なくて、自分がどのくらいできるかわからなかったんですけど、だんだんと力がついていくのがわかって、本当に充実した時間でした。
赤見:しかも、その勢いのまま、デビュー戦を勝利で飾りましたね!
土屋:デビュー勝ちはしたくてもなかなかできないことですし、本当に嬉しかったです。実際のレースは学校とはやっぱり展開とかも全然違いますし、先輩たちはいろいろな経験をしてきているので微妙な駆け引きなどもいっぱいあって。体だけではなく、頭も使わないといけないですから、難しいことも多いですね。学校だとずっと同じメンバーで戦うのでだんだん動きがわかってくるんですけど、レースではいろいろな動きをする選手がいるので、そういうこともどんどん研究していかないといけないなと思いました。
赤見:そんな中、デビュー2節目の前橋で落車し、左肩大結節骨折というケガを負ってしまいました。
土屋:やっとデビューできて、これから!という時だったのでショックも大きかったです。それに、自分の走行技術の足りなさを痛感しましたし、落ち着いてレースができていませんでした。たくさんの方のお金がかかっているし、他の選手も巻き込んでしまって、本当に申し訳ない気持ちでした。
赤見:手術ではなく、自然治癒で治したそうですね。
土屋:剥離骨折に近いような状態でしたし、同じところを骨折した先輩からも自然治癒の方がいいとアドバイスをいただいたので。ただ、治るまでじっと待つ時間は辛かったです。デビューしたばかりでしたし、同期はどんどん経験を積んで成長していくので。でも、周りに迷惑をかけたくないと思って、しっかり治してしっかりトレーニングしてから戻ろうと思っていました。
赤見:7月の終わりに落車して、復帰が11月の初めでしたが、どんな経緯で過ごしたんですか?
土屋:1か月入院して、その後リハビリをしました。しばらく自転車に乗っていなかったので、そこからしっかりと練習したくて1か月半乗り込みの時間を作ったんです。焦る気持ちもありましたけど、同期や師匠が励ましてくれて、前向きにがんばることができました。
赤見:復帰戦は怖くなかったですか?
土屋:怖いというのはなかったですけど、緊張はしました。3日間無事に終えることができて安心しましたし、また新たな気持ちでがんばろうと。12月の玉野で復帰後初勝利できてホッとしました。自分の思い通りのレースとまではいかなかったけど、体もだんだん良くなっていたので。
赤見:そして同じく12月には、地元の宇都宮で初勝利を挙げました。
土屋:勝利はどこでも嬉しいですけど、やっぱり地元は特別ですね。選手だけではなく、普段からお世話になっている職員の方々もいますし、周りの方々もすごく喜んでくれて。この勝利がきっかけになって、今すごくいい状態なんです。
赤見:では、今年の目標をお願いします。
土屋:今はまだまだですけど、いつかは自分の思うようなレースをして、ガールズグランプリに出場したいです!わたしは梶田舞選手と地元が一緒で、近くで練習など見させてもらっているんですけど、やっぱりものすごい練習量なんですよ。グランプリ勝つのも納得です。そういうすごい方が近くにいるのは本当に有り難いですし刺激になります。今は全然敵わないですけど、少しでも近づけるようがんばります!
赤見:最後に、オッズパーク会員の皆さんにメッセージをお願いします。
土屋:まだまだ力不足なんですけど、これからもっと魅力ある走りができるようがんばりますので、応援よろしくお願いします。
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※インタビュー / 赤見千尋
※写真提供:公益財団法人 JKA
KEIRINグランプリ2016で見事優勝を果たし、年間MVPに輝いた村上義弘選手(京都)。長年第一線で活躍を続ける村上選手に、現在の想いを語っていただきました。
赤見:2016年は年末の大一番KEIRINグランプリを制覇し、見事MVPに輝きましたね。
村上:MVPは初めての受賞だったので、この年になってやっと獲れましたから、すごく嬉しかったです。KEIRINグランプリは2度目の優勝ですが、何度勝っても本当に嬉しいですね。選手みんなが目標にしているレースですし、僕自身子供の頃から憧れていた夢の舞台ですから、出場することも嬉しいのに、そこで勝つことができて本当に夢のようでした。
赤見:レースを具体的に振り返っていただきたいのですが、スタートして前を伺うような位置取りでした。
村上:グランプリは普段の勝ち上がり戦の決勝と違って、早い段階でメンバーが決まるので、いろいろなパターンでシミュレーションしていました。僕自身はスタートしてから後方から行こうかなと思っていたんですけど、ラインを組んだ稲垣(裕之選手)が、「前の方から行きたいです」って言ってきて。最近の稲垣は選手として本当に充実していますから、その判断を信じて前に行きました。
赤見:新田(祐大)選手が早い段階で仕掛け、平原(康多)選手も仕掛ける展開になりました。
村上:そうですね、そこは予想外というか、自分が思っていた以上に早くレースが動き出して、イメージよりかなり早めに稲垣が先頭になりました。そこは本当に瞬時の判断だったと思いますが、稲垣が動いたのでここは思い切って行こうと。ただ、本当に早かったですから、もう1回動きがあるかなと思っていました。もしまた動きがあったとしても、稲垣は持久力がありますから、十分挽回できるなと考えていました。
結果的には残り2周で稲垣が前に出て、そこから自分のペースで運んで。最後2回後ろを振り返ったのは、全体の動きを見たんです。誰を意識していたというのはないですけど、平原選手は本当に強いですし、浅井(康太)選手はクレバーですし、新田選手はスピードが飛び抜けていますからね。全体の流れを確認して、平原選手が来ていたのでブロックしつつ、稲垣がもう一度踏み直せるか確認したらだいぶ苦しそうだったので併せに行きました。
赤見:最後の直線はどんな気持ちでしたか?
村上:ほぼ無心ですね。レース前から、『とにかくゴールまで力を惜しむことなく全力で踏み込みたい』と思っていたので。ゴールした瞬間は武田(豊樹)選手のスピードがよかったので、武田選手かなとも思ったんですけど、なんとか勝てて嬉しかったです。
赤見:レース前のインタビューでは、あまり納得のいかない年だったと仰っていましたけれども。
村上:本当にね、キツイ一年だったんですよ。なんていうか...言葉にするのが難しいんですけど、僕が後輩の成長を願う気持ちと、後輩たちが僕を支えようという気持ちがお互いに強すぎて、上手くいかないことが多かったんですよね。後輩たちの気持ちを考えると胸が痛くなります...。そうやって一緒にたくさん失敗して、いろいろな経験をして、試行錯誤していました。
赤見:去年は稲垣選手の初GI制覇もあり、村上選手のGP制覇もあり、さらに絆が深まったんじゃないですか?
村上:本当にその通りですね。稲垣が寛仁親王杯を勝ったのは、僕自身もすごく嬉しくて。自分も同じレースで近くで勝つところを見られて嬉しかったし、あのレースが、自分たちがこれまで積み重ねてやってきたことを肯定してくれたというか、気持ちが吹っ切れました。
僕は40代に入っているし、体力的なことだけでいえば落ちてきているわけですよ。その分若い選手が育ってくれることは嬉しいんですけど、逆に自分の立ち位置がぼやけて来ていたんです。ただがむしゃらに頑張ればいいという期間は過ぎたというか。ただグランプリに関しては、ただただがむしゃらに頑張りたいっていう、自分の原点に立ち戻りたかったので、そこで思い切ったレースができて、なおかつ優勝できたことは本当に嬉しかったですね。
赤見:競輪独特の世界観であり、素敵な絆ですね。
村上:他にも公営競技はありますけど、ラインの概念があるのは競輪だけですからね。もちろん勝負の世界なので着順がつくし、自分が勝つために最大限努力しているんですけど、ラインを組んで連携するっていうのは、ただその時のレースだけではなくて、それまで積み重ねてきた信頼関係が大事ですから。
赤見:素朴な疑問なんですけど、ラインを組んだ選手が動いたら間髪入れず一緒に動くわけじゃないですか。それは0.01秒とかの世界だと思うんですけど、どうやってゴーサインを感じ取るんですか?
村上:そこが信頼関係にも絡んで来るんですよ。普段からその選手のレースもよく見ているし、癖や状態も把握しておかないと。そして、迷わないことです。一瞬でも迷ったら遅れますから。相手の選手を信頼して、迷わない。こうやって改めて説明すると、競輪て本当に独特ですよね。でもそれが面白さの一つだと思います。
赤見:今年は1番車で、チャンピオンユニフォームを背負っての戦いになります。
村上:やっぱり注目されますし、責任は重いと思っています。前回背負った年は落車も多かったですし、自分の中ではブレたつもりはないけれど、結果的には責任を果たせなかったと感じていて。だからこそ今年は自分らしく、自分のスタイルを貫いたその先に結果がついてくると信じて頑張ります。
赤見:長く第一線で活躍し続けられる、そのモチベーションは何ですか?
村上:これはもう本当に、たくさんの方々が支えてくれるお陰です。自分ひとりだったら、楽になっちゃいたいなっていう気持ちも出てきますよ。でも、ファンの方々や仲間たちと喜びを共有したいんでね、それでまた頑張ろうって思えます。
赤見:では、オッズパーク会員の皆さんにメッセージをお願いします。
村上:生理的に体力が落ちていることは感じていますが、まだ使いきれていない部分があると思うんです。最後の最後まで自分の体を燃やし尽くせるよう努力します。しっかりとレースをしていきますので、応援よろしくお願いします!
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※インタビュー / 赤見千尋
社会人ソフトボールからガールズケイリンに転向した、104期の奈良岡彩子(ならおか さいこ)選手(青森)。デビューから5年目を迎え、さらなる高みを目指します。
赤見:奈良岡選手は競輪選手になる前、社会人ソフトボールの強豪、ルネサス高崎(現ビックカメラ女子ソフトボール高崎)で外野手としてプレーしていたそうですね。日本代表の監督を長らく務めた宇津木妙子監督のもと、日本のエースとしてオリンピックで大活躍した上野由岐子投手などそうそうたるメンバーがチームメイトだったという。
奈良岡:そうなんです。小学校3年からソフトボールを始めて、中学はバドミントンをしていたんですけど、高校でまたソフトをやっていたんです。高校自体は強豪校ってわけではなかったんですけど、社会人に行くとき、なぜか強いチームに入ることができました(笑)。ただ、チームに入ってからレベルの違いを痛感して...。チームは強いんですけど、自分はただいるだけっていう感じでレギュラーも取れなかったし、試合も何試合かしか出られなかったんです。
赤見:どういう経緯で競輪に?
奈良岡:社会人で3年やって、ソフトを辞める決心をしました。ただ、その時は競輪選手にっていうのはまったく考えていなかったんですよね。故郷の青森に帰る前に、お世話になったトレーナーさんに今後について相談したいなと思って、話を聞きに行ったんです。その方はプロ野球選手も担当しているすごい方で、自分の中ではトレーナーになりたいなと思っていたので。相談していたら、いつの間にか競輪の話になってて、まだ21歳だったし、このまま引退するのはもったいないから、競輪やってみないか?って。ちょうどガールズが始まる時で、すごく勧められたので、「やってみようかな」という感じでした。
赤見:ソフトからいきなり自転車というのは、戸惑いはなかったですか?
奈良岡:それが、時間的に目まぐるしすぎて、あんまりそういうことは考えなかったんです。だって、相談した次の日が競輪学校102期(ガールズ1期)の願書の締め切りで。もうバッタバタでした。受けるだけ受けてみて、でも多分受からないだろうと思っていたら受かっちゃって(笑)。1次は適性で受けたんですけど、2次試験は自転車に乗るので、そこから師匠を紹介してもらって1,2か月みっちり乗り込んで。なんとか合格することができました。
赤見:無事に競輪学校に入学するわけですが、102期としては卒業できず、次の104期に編入となりました。
奈良岡:当時はかなり落ち込みました。もう辞めたい、逃げたいって思いましたけど、結局は自分のせいですからね。実は師匠に、「辞めます」って言おうとしていたんですよ。師匠の家に行って、「これからどうしたいんだ?」って聞かれて、でもなぜかその時「やります!」って言っていたんですよね(笑)。12月までやって、みんなと一緒に卒業できなかったのは悔しいですが、今になってみるとよかったかなって思うんです。
赤見:というと?
奈良岡:さっきも言ったように、わたしは全然自転車の経験がなかったですから、もし102期ですんなり卒業していたら、今の成績はないんじゃないかって思うんです。もしかしたら、今頃辞めていたかもしれないし。だから、2年間学校でみっちり学べたことは、すごくいい経験だったと思います。104期の仲間も、本当にいい人たちばかりですぐに馴染めましたから。
赤見:104期には、梶田舞選手、石井寛子選手、山原さくら選手といったグランプリ常連の選手も多いですよね。
奈良岡:その3人は本当にすごいですよ。学校時代からすごくて、だけどもしかしたら食らいついて行けるんじゃないかって思っていたけど、いざデビューしたら全然違いました。向こうはバンバン勝って行って、わたしは全然勝てなくて...。
赤見:5月にデビューして、初勝利は9月、初優勝は翌年の4月でした。
奈良岡:同期の中でも初勝利は遅かったですね。だってデビューしてみて、わたしは一生勝てないで終わるんじゃないかっていうくらい、力の差を感じたんですよ。初勝利は地元青森だったんですけど、「え?勝ったの?」という感じで半信半疑でした。でも地元だったので、たくさんの方に声をかけてもらって、本当に嬉しかったです。
決勝に関しては、3着とかでギリギリ乗っていましたけど、ペースも違うし全然勝てる気がしませんでした。それが、だんだんとレースを重ねて経験を積んでいって、ペースにも慣れた頃に優勝することができました。
赤見:デビューから今年で5年目になりますけれども、自分自身変わった部分はありますか?
奈良岡:昔は先行にこだわっていましたし、自力でっていう気持ちが強かったんですよね。でもそれでは今の自分の力では勝てないことを痛感して、じゃあどうすればいいんだ?っていう風に考えるようになりました。それに、選手の人数が増えて、一年を通して下の成績の人はクビになってしまうルールができたので、みんなの本気度が変わった気がします。わたしもですけど、長く続けたいし、絶対クビになりたくないので。
選手の人数も増えましたし、レベルも上がっています。その中で、今は安定して力を出せているのかなと。ここまであっという間でしたけど、経験を積んだことで自分なりに成長できていると思っています。
赤見:では、オッズパーク会員の皆さんにメッセージをお願いします。
奈良岡:数字にはこだわっていませんが、落車なく1年無事にレースしたいというのが目標です。オッズパークの皆さんとは、イベントなどでお会いする機会もありますし、いつも応援していただいてとても嬉しいです。少しでも車券に貢献できるようがんばりますので、もしよかったら応援してください。よろしくお願いします。
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※インタビュー / 赤見千尋
※写真提供:公益財団法人 JKA