川口オート所属の35期・伊東玲衣選手にお話を伺いました。
(取材日4/8)
―優勝戦(2025年3月25日、川口ナイトレース)で先頭でゴールした瞬間の気持ちはいかがでしたか?
やっと優勝できたという安堵感がありました。
―レースは逃げる展開で、北市選手(浜松37期・北市唯選手)が後ろをずっと走っていましたが、気配は感じていましたか?
後ろにいるのは1級車だと思っていました。内側には入られないようにしていましたが、実際には唯ちゃんだったので、もっと大きく走れば良かったと思いました。内側を意識しすぎてコースが小さくなってしまいました。もう少し冷静に自分のペースで走れたら良かったと思います。エンジンは良かったですが、力が入ってタイヤが少し滑ってしまいました。それでも状態は良かったです。
―デビューして早めに優勝できて良かったですね。
早いかどうかは分かりませんが、同期がみんな優勝しているので焦りもありました。ただ、焦ると落車の危険も高まるので、自分のペースで走ることを心がけていました。
―同期の存在は意識しますか?
最初は意識しすぎていましたが、自分は自分と考えるようになってから気持ちが楽になりました。周りからのアドバイスもあり、自分のペースでやることができるようになりました。自分のグループは整備に力を入れているので、エンジンは完璧な状態で、あとは乗り手次第という感じです。
―師匠も含めて周りの環境はどうですか?
非常に良い環境です。師匠(川口26期・川原剛選手)は優しく、みんな協力しながらやっているので、やりやすい環境です。整備は養成所の時から好きでした。
―元々、オートバイには興味があったのですか?
全くありませんでした。ただ、オートレースは好きでした。バイク自体には興味がなく、モトクロスやロードレースも全く分かりませんでした。原付を通勤で乗るくらいでしたから、オートレースのバイクは全然違いました。見るのとやるのでは全然違いましたね。見ていた時は圭一郎さんや永井さんの乗り方が好きでした。綺麗に乗っていて、バイクもピカピカしていて、自分もバイクに色を付けたりしています。
―オートレーサーになろうと思ったのはいつ頃ですか?
中学2年生の時に初めて見に行って格好いいと思いましたが、なりたいとは思いませんでした。本格的にやりたいと思ったのは社会人になって2年目くらいにスーパースター王座決定戦を見に行ってからです。一発合格でした。お父さんもオートレースが大好きで、最初は信じられないという感じでした。試験もすんなり通ったので、最後に受かった時も信じられないと言っていました。デビュー戦も家族や友達が見に来てくれていました。デビュー戦のことはよく覚えています。緊張はしませんでした。次の日の方が緊張しました。デビュー戦は嬉しさの方が大きくて、緊張はありませんでした。
―ここまでやってきて苦しかったことはありますか?
デビューして3ヶ月くらいでケガをして、その後も復帰して優勝戦に行ってハンデが重くなったと思ったら、落車してケガをすることが多かったです。自分がダメな状態からさらに悪くなる感じで、それが辛かったです。乗り方も腰回りも全然合わなくて、同期はみんな速く走っているので焦りもありました。養成所ではA班とB班があり、バイク経験者はA班で、自分はB班でした。やっと今、少しずつ追いつけてきた感じです。練習でも今まではすぐ離されていましたが、今はついていけるので嬉しいです。最近は試走も安定してタイムが出ます。
―一番嬉しかったことは何ですか?
前節の優勝が一番嬉しかったです。初優勝を目標にしていたので、とても嬉しいです。
―現時点でご自身の課題は何ですか?
さばく力です。前の動きが読めなくて、外回りになってしまうので、どこで内に行けばいいのかを勉強しています。見ているのと自分が乗っている距離感が全然違うので難しいです。まくり方は分かりますが、内にもう少し行けるようにしたいです。
―当面の目標は何ですか?
次は昼間開催で優勝したいです。
―最後にオッズパーク会員の皆様へメッセージをお願いします。
優勝してハンデが下がったので課題は多いですが、綺麗なレースができるように頑張りたいと思います。
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飯塚オート所属の27期・新村嘉之選手にお話をお聞きしました。
―オートレーサーになろうと思ったきっかけは何ですか。
小さい頃から車でも電車でもバイクでも乗り物が好きだったのと、オートレースは素人が集まってゼロから始まる競技だったし乗り物に関われる仕事を探していたんです。
―初めてオートレースを知ったのは何だったのですか?
学生時代に、公営競技は何でもやる友達がいました。オートレースの存在自体は小学校の時から知ってはいたのですが、ちゃんと知ったのは学生時代ですかね。
その友達は競輪新聞の会社に勤めました。その友達がオートレースに連れて行ってくれたのですが、そうでなければ選手になっていなかったかも知れないですね。
自分の人生の転機になりましたね。
―バイクは乗っていたんですか?
街乗りで乗ってはいたんですけど、どちらかというと車の方が好きでした。
―オートレーサーになってみてどうですか?
25年走ってみて、まあ、もうちょっと走れると思ったんですけどね。
運動も勉強も平均よりはできてたので、もうちょっとイケると思ったたんですけどね。
―いやいや、ひと開催96人にもの選手が出場し、ただ一人の優勝者しか生まれない中で、優勝10回というのはものすごいことです。あと、記念レースでも準優勝がありますよね。
そうですね。あれは2019年で、神がかっていた年ですね。G1で2回準優勝をして、SGでも優出したし、全部同じ年です。
―G1では優勝もありそうな競走でしたよね。
まあ、そうですね。2着ってことはあと一人で1着ですから。
―ご自身の中で一番印象に残っているレースを挙げるとしたら何かありますか?
船橋で自分が走った最後のレースですかね。プレミアムカップが船橋の最後の開催だったんですけど、その前に自分が船橋で走る最後のレースがあり、優勝できた時です。その時も神がかってましたね。理由は分からないんですけど、神がかったんだと思います。それが一番印象に残っていますね。自分が走る船橋での最後だったし、飯塚さん(元オートレーサー飯塚将光さん)の誕生日だったし、飯塚さんももう亡くなった後だったので...。
―ここまでで苦しかったことはありますか?
ずっとうまくいってきたわけではないので、逆にずっと苦しみながら、たまに神がかる選手だと思います。自分は波が均等にあるわけじゃなく、低空飛行していて突然良くなるとかだったので、基本的には苦しいというか...。ドドドでクビになりそうな時があって、それは苦しかったかもしれないですね。一番成績も悪くなって、苦しい時も多かったので、楽はしてないですね。
―デビューは遅れたんですよね?
デビュー前にあごの骨を折ってしまって。休みの日にレストランでトイレに向かったら、ばたって倒れて意識を失って、かかえられて店員さんにも『大丈夫ですか』って言われて。
―同期の存在ってどうですか?
やっぱり特別ですよね。そんな普段関わらなくても、いつでもボクは20年前と同じテンションで話し掛けられます。養成所では朝が早いのがきついくらいで、体力的にはそんなに大変ではなかったです。朝の寒い中、走るのはきつかったですね。夏の朝はそうでもないけど、真冬でも朝イチで走ったり...。
―その時は学校を卒業した後でしたっけ?
ギリギリしてなくて、後は卒論を残してるぐらいだったので、選手になってからたまに(学校に)行って卒論を書いてって感じでした。
―体形は昔からあまり変わらないですけど?
筋肉は減ってます。だから、最近乗れない理由でそれはあると思います。筋力不足で。体重は変わってないです。とにかく筋肉が減って...。事故とかで運動ができないのもあるんですけど。
―体調面で普段から気にしていることは何かありますか?
まあ、太らないようにはしてますけど、筋肉的にもうちょっと運動しないとダメですね。夜遅くは食べないようにして、食べる量は普通か多いぐらいです。今日のお昼は『さわらの西京焼き』を食べました。それとご飯。キムチチャーハンもあったので、それも大盛りで食べました。キムチチャーハンを茶碗に普通に入れて、その上に西京焼きを食べるための白いご飯を乗っけて2層にしちゃいました。川口の食堂は評判いいですよ。
―現時点で、自分の中で挙げている課題はありますか?
まあ、常に上がありますから、全部といえば全部ではあるんですが、、飯塚さんが降臨してくれると強いですよ(笑)。船橋の最後の時は絶対ボクじゃないですね、アレは。もうスルスル回ってナカも外も自在に走れていたので。ドドドだけは克服したので、ドドドは来ないんですよ。
―当面の目標は?
2級の頃はまだ開けっぷりみたいなものが良かったので、それを取り戻したいです。あそこまでいかなくても、もうちょっと開けっぷり良く乗りたいです。今は全然出し切れていないです。整備なんてやってる場合じゃないくらいなんですが、開けっぷりと体力を戻していきたいですね。
―最後にオッズパーク会員の皆様へメッセージをお願いします。
オッズパークのファンの皆様はレース場で買うことは少ないと思うのですが、試走を見てから買っていただくと、より当たりやすくなると思います。タイムだけでなく、試走の映像も参考にしていただければと思います。
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伊勢崎オート所属の19期・湯浅浩選手にお話をお聞きしました。
(取材日2/3)
―選手生活40年経ちましたが、ここまで振り返ってみてどうですか?
若者の時代になりましたね。新しい人の顔を見ても誰が誰だかだんだん分からないこともありますね(笑)。
―長く走っておられますけど、一番印象に残っているレースはありますか?
日本選手権の2着(第26回大会で準優勝)ですかね。まあ、ああいうところで獲れないっていうのは、努力が足りないってことでしょうね。
―あの時はエンジン出てましたよね。
あの時は整備も全然分からなかったんですよ。セアになって1年目だったから。でも当たってたんでしょうね。
その後、神戸で地震が来たんですよね。その前の年まで調子が良かったんですが、タイヤが違っていたんですよね。神戸の工場で作っていたんですけど、震災でタイヤの工場が名古屋に移転して、そこから苦しくなりました。
―湯浅さんは19期で、以前は『花の19期』と言われていましたけど同期というのはどんな存在ですか?
ど新人の時はやっぱり、みんな頑張ってるなあとか、どんな練習をしているのかとか、気にはなりました。昔はいろんなエンジンがあって、いいエンジンをつけて乗ってる人は羨ましかったです。師匠もいい人が付くといろいろ教えてもらえたし。今、セアになってからは条件は一緒ですし、今はもう全く何も関係ないです。自分なりにやっていくしかないです。
―ここまでオートレーサーとしてやってきて嬉しかったことはありますか?
嬉しいっていったら自分に(オートレースが)合ってたってことでしょうね。
―そもそも、オートレーサーになろうと思った理由って何かあるんですか。
収入がいいからですかね。あとはオートバイが好きで、それまでもオートバイには乗っていましたし、今でも乗ってますよ。まあ、オートバイが好きっていうか旅が好きですね。いろんなオートバイに乗っていました。ただ、冬は乗らないです。寒くて体が勝てない(笑)。
―逆に今までやってきて苦しかったことってありますか?
いやぁ、いつも苦しいですよ(苦笑)。エンジンの悩みで。いい日もあるんですが、続けるのが難しいです。
―レース場を離れて休みの日はどのように過ごしていますか?
8年前に大阪に引っ越して、大阪の街をフラフラしてます。観光とかはあまりしないですけど、飲食店行っていろんな所を回ってます。行ったことない所もまだまだいっぱいあるので。最初は物珍しかったです。もう60過ぎて、あっと言う間に70になっちゃいそうだから元気なうちに好きな事をしたいなあと思います。まあ、好き勝手にやってきましたけど(笑)。
―どうして大阪に引っ越ししたんですか?
子どもが(大阪の)学校に行っていて、一緒に暮らしていたんですよ。
―たしか、お子さんはボートレーサー(湯浅紀香選手/競艇)になったんですよね。
ええ、最近は調子が上がってきて、3着までに入ることが多くなったみたいですね。
―ボートレーサーになりたいって聞いた時はどう思いましたか?
勝手にもうなってました(笑)。『受かったよ』って聞いて。
―ボートレーサーに興味がありそうな感じはあったんですか?
いやあ、全然。看護師をやっていたから...。受けるとは聞いてなかったです。
―もしかしたら、小さい時からお父さんと同じ公営競技の選手になりたい思いがあったんですかね?
看護師をしながら、やっぱりなりたいなってなったんじゃないですかね。
―そういうのって親としてはどういう気持ちなんですか?
ものすごく羨ましい。自分もボートの選手になろうと思った時があるんです。体重が重いからダメでした(笑)。昔は55キロぐらいだったんですけどね。部品代もかからないし、システムがいいじゃないですか。最近は賞金を稼いでも支出の方が多くなったりして(苦笑)。今の子はそれが当たり前で入ってきてるけど、自分なんかはいい時を知りすぎているから...。まあ娘のレースを見ると楽しいですね。だいたい携帯でレースを見ています。場内には家族は行けないようになっているので。
―最後にオッズパーク会員の皆様へメッセージをお願いします。
今オートレースは若者や個性的な選手がたくさん出てきています。自分たちのことも含めてレースをいっぱい観てもらいたいですね。
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川口オート所属の23期・鈴木清選手にお話をお聞きしました。
(取材日2/3)
―選手になろうと思ったきっかけは何ですか?
父がオートレース好きで、幼少期から連れてこられていました。最初は、戦隊ものの延長じゃないですけど、子ども心にも格好いいと思いました。
それからだんだん自分もなってみたいなって思うようになりました。小学校4年生の時ですかね、はっきりと明確に選手になりたいという気持ちをおぼえたのは。
―最初、オートレースを見た印象ってどんなでしたか?
とにかく音がうるさい(笑)。今とはエンジンもマフラーも違うし、今のセアよりも音は大きかったし、とにかく音に圧倒されました。
子ども心にはうるさいけど、格好いいなって。連れていってもらうのは楽しみでした。
―養成所での生活はどうでしたか?
幸か不幸かボクらの時は携帯とかなかったので、特に(周りと)断絶されることについては抵抗はなかったですね。今は携帯があるのがあたりまえだし、今の子たちはそれを絶つっていうのは大変だと思うんですけどね。体力的なもので言ったら自分は全然苦にならなかったです。高校の時に全く似合わないけどラグビー部を3年努めたので、その延長で入ったから体力的なものは全くきつくなかったですね。一番きつかったのは朝起きること。今では苦にならないけど、最初は毎朝、決まった時間に起きることと冬の寒さは大変でしたね。教練がきつかったという記憶はないですけどね。
乗車に関してはみんな初体験でしたし、分からないことだらけでしたから、いろいろ試行錯誤しながら接しました。高校に入ってすぐ免許を取って原付には乗っていましたけれど、あれをバイク経験とまでは言えないですからね。
―デビュー戦のことは覚えていますか?
その日、秋田(鈴木清選手と同期の秋田貴弘選手)が前のレースで試走落車したんですよ。その頃はライバル心がすごくありまして、レース前は完走すれば秋田には勝てるというのが頭をよぎったのを覚えています。ただ、レース中は、無我夢中で何がなんだか覚えてないんですよね。結果は8着なんですけど、どういう展開だったとか全然覚えてないです
そのあと3走目で雨で1着を取って、それが初勝利でした。その時は本当にめちゃくちゃ嬉しかった。家に帰ったら、実家が商売していたので、お客さんがいっぱい来てくれて、家族でお祝いというよりも、みんなでお祝いという感じでしたね。
―同期ってどういう存在ですか?
ボクはですけど、人一倍ライバル意識が強いというか、負けたくないって気持ちが強かったですね。仲が悪かったってことはないけど、仲良くワイワイって言うよりは、敵というか、今よりも派閥的なこととかが濃かった時代なので、あまり同期と時間を共にするってことは少なかったし、今みたいに情報交換するとかもあまりなかったですね。
―ここまでで一番覚えているレースはありますか?
もちろん川口記念を制覇したのが一番です。ただ、もう一つ遡るとしたら清水さん(師匠で元オートレーサー清水右也さん)と優勝戦で一緒のレースになって、清水さんが先行してて、あと少しで清水さんの優勝ってところをチョイ差しして自分が優勝したんですよ。最後の最後にこっちは『良し』と思ったんですけど、清水さんの方は『ああっ』って思ったらしくて...『あれは悔しかった』という気持ちをしばらく経ってから聞きました。やはりそのレースのことも印象に残っています。
直近の中では川口記念優勝だけど、31年間の中で忘れられないというか、総合的にみたら師匠と戦ったレースですかね。記録と記憶みたいな感じで。
―現時点で、ご自身で課題に挙げていることはありますか?
課題というか、去年の12月からハンデが動いて、前の位置になって、今は結果がそこそこ出ているけど、やっぱり最重ハンに対しては自分の中でこだわりがあります。今の1着も嬉しいんですけど、後ろから抜いてなんぼって気持ちがあるので、とにかく後ろに戻りたいですね。(ちなみに、このインタビューをした節に優勝し、見事に最重ハンに戻りました)
―鈴木さんは昔から体形が変わらないですけど、何か意識してやっていることはあるんですか?
いやあ、体質ですね。若い頃からお酒が飲めないので、それがいいのかな。食べる方はすごく食べるんですけど、アルコールを摂取しないのが結果的にいい方にいってるのかもしれないです。ケガをして3ヶ月まるまる休んだ時は、体を動かす量が少なくなったせいか、復帰が見えてきた段階で久々につなぎを着てみたら、めちゃくちゃきつくなっていて、体重を量ったら4キロ増えていて、やばいと思って慌てて食事量を減らしたり、汗をかいて体重を戻しました。
―最後にオッズパーク会員の皆様へメッセージをお願いします。
オッズパークのファンの方々はやっぱり画面越しにレース観戦をしてくださってる方が多いと思うんですけど、機会があったら本場に足を運んでいただきたいです。
あともしボクを買ってくださるとしたら、穴目の時に狙ってみてください。もちろん人気に押されている時も頑張るんですけど、ボクは試走でレースと同じようなコースを通っているので、タイムが他の人よりはあまり出にくい部分はあると思うんです。だから、試走タイムが周りよりも劣っていても、数字以上の結果になることもあるかと思うので、穴目で少し買っていただけると。車券に絡めて大きなプレゼントができたらボクも嬉しいです。
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2月1日に伊勢崎アフター5ナイターで優勝した川口オート所属の29期・青木治親選手にお話をお聞きしました。
(取材日2/3)
―伊勢崎の優勝戦おめでとうございます。
ありがとうございます。エンジンは準決の方が良くて、優勝戦はちょっとエンジンが重かったんですが、まずはスタートで浅倉君(浅倉樹良選手 伊勢崎37期)を抑えていこうと思って、あとは岩沼さん(岩沼靖郎選手 伊勢崎25期)を抜いて、そのあとは後ろから来る人をどう凌ぐのかを考えていたくらいです。後ろの方も岩沼さんの好ブロックに救われて...(笑)。
―作戦としてはやっぱり、早めに浅倉選手を交わしておきたいってのはあったんですか?
そうですね。浅倉君をすぐ捕えられたので、それが良かったですね。
―エンジンは準決の方が良かったということは、優勝戦に向けては何か調整されて変わっちゃったんですか?
いやあ、ほぼ一緒だったんですけど、優勝戦の方が気温が少し下がったんですよね。それで、ちょっと感じが変わったので、準決はタイヤに自信を持っていったんですが、後半滑っていました。優勝戦は朝、当てたタイヤで行きました。レースでもそれがまあまあ良かったですね。
―今年に入ってから優出2度目で前回優勝と、流れはよい印象ですか?
昼間の開催はあんまり良くないですが、ナイターになるとタイヤがグリップするのか、その方がいいみたいですね。
―ここまでオートレーサーとしてやってきて一番覚えているレースはありますか?
なんだろう、覚えているレース...。デビュー戦だったり、ここ(川口)のG1キューポラを取った時だったり、あとはプレミアムカップを取った時ですかね。
―ここまでで嬉しかったことは何ですか?
嬉しいのは、ビッグ戦での結果もそうですし、こうやって20年やってきて優勝できたことも嬉しいです。優勝するとオートレーサーとしてレースをできたって実感がでてきますね。優勝をすると、やっぱり本当に「優勝っていいな」って改めて思いました。
前回の優勝は4年ちょっと前だったので、本当にうれしくて。
―ここまでやってきて苦しかったことって何かありますか?
やっぱり成績が出ない時は苦しいですよね。思い通りにいかないし。最近の夏は良くなったんですが、一時期は夏になると全くダメでしたから。乗り方を変えたりして、すごい良くはなってるわけじゃないけど、悪い時の底が少し上がってきました。
―青木さんは昔から体形が変わってないですけど、気をつけていることはありますか?
特にはないです。だから恵まれてる体形だと思っています。特に節制しているわけでもないんです。太りにくいんですかね。食べたいものは食べるし、ストレスもなく、人生を楽しめばいいかなって。今は健康に気をつけるくらいです。人間ドックに行くとか(笑)。気づけば自分たちがデビューした時の師匠くらいの年齢になっていて、そっか、俺50と思って。息子も今、ハタチと17がいて、自分としては若い気でいるんですけど、息子からしたら、『ああ、おっさんだな』って思うと思うんです(笑)。だから、人間として恥ずかしくない大人になりたいと思っていますし、そう心がけています。
―今、当面の目標とか課題に挙げていることはありますか?
SGに戻りたいですね(笑)。SGに参加できるようなランク、成績に戻したい。今は出れるか出れないか境目のところを行ったり来たりしていますが、SGに常に出れる位置に行きたいです。そういうところで揉まれていかないと成長していかないと思ってます。
―同期の存在って青木さんにとってどんな感じですか?
同期は人数が多いんですが、皆頑張っています。SG常連の同期もいますが、正直言うと負けたくない気持ちはいまだにあります、すごい同期を見て、乗り方をまねしたり、なんでああいうふうに乗れるんだろうと研究します。そうですね、自然と意識してしまう、身近なライバルなんじゃないのかなって思いますね。
―最後にオッズパーク会員の皆様へメッセージをお願いします。
いつもオッズパークで楽しんでいらっしゃるみなさん、オートレースは楽しいですよ(笑)。他の公営競技と違ってワクワクハラハラする時間が他の競技より長いと思うので、一緒に興奮して、楽しんだりしてください。
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