飯塚オート所属の27期・新村嘉之選手にお話をお聞きしました。
―オートレーサーになろうと思ったきっかけは何ですか。
小さい頃から車でも電車でもバイクでも乗り物が好きだったのと、オートレースは素人が集まってゼロから始まる競技だったし乗り物に関われる仕事を探していたんです。
―初めてオートレースを知ったのは何だったのですか?
学生時代に、公営競技は何でもやる友達がいました。オートレースの存在自体は小学校の時から知ってはいたのですが、ちゃんと知ったのは学生時代ですかね。
その友達は競輪新聞の会社に勤めました。その友達がオートレースに連れて行ってくれたのですが、そうでなければ選手になっていなかったかも知れないですね。
自分の人生の転機になりましたね。
―バイクは乗っていたんですか?
街乗りで乗ってはいたんですけど、どちらかというと車の方が好きでした。
―オートレーサーになってみてどうですか?
25年走ってみて、まあ、もうちょっと走れると思ったんですけどね。
運動も勉強も平均よりはできてたので、もうちょっとイケると思ったたんですけどね。
―いやいや、ひと開催96人にもの選手が出場し、ただ一人の優勝者しか生まれない中で、優勝10回というのはものすごいことです。あと、記念レースでも準優勝がありますよね。
そうですね。あれは2019年で、神がかっていた年ですね。G1で2回準優勝をして、SGでも優出したし、全部同じ年です。
―G1では優勝もありそうな競走でしたよね。
まあ、そうですね。2着ってことはあと一人で1着ですから。
―ご自身の中で一番印象に残っているレースを挙げるとしたら何かありますか?
船橋で自分が走った最後のレースですかね。プレミアムカップが船橋の最後の開催だったんですけど、その前に自分が船橋で走る最後のレースがあり、優勝できた時です。その時も神がかってましたね。理由は分からないんですけど、神がかったんだと思います。それが一番印象に残っていますね。自分が走る船橋での最後だったし、飯塚さん(元オートレーサー飯塚将光さん)の誕生日だったし、飯塚さんももう亡くなった後だったので...。
―ここまでで苦しかったことはありますか?
ずっとうまくいってきたわけではないので、逆にずっと苦しみながら、たまに神がかる選手だと思います。自分は波が均等にあるわけじゃなく、低空飛行していて突然良くなるとかだったので、基本的には苦しいというか...。ドドドでクビになりそうな時があって、それは苦しかったかもしれないですね。一番成績も悪くなって、苦しい時も多かったので、楽はしてないですね。
―デビューは遅れたんですよね?
デビュー前にあごの骨を折ってしまって。休みの日にレストランでトイレに向かったら、ばたって倒れて意識を失って、かかえられて店員さんにも『大丈夫ですか』って言われて。
―同期の存在ってどうですか?
やっぱり特別ですよね。そんな普段関わらなくても、いつでもボクは20年前と同じテンションで話し掛けられます。養成所では朝が早いのがきついくらいで、体力的にはそんなに大変ではなかったです。朝の寒い中、走るのはきつかったですね。夏の朝はそうでもないけど、真冬でも朝イチで走ったり...。
―その時は学校を卒業した後でしたっけ?
ギリギリしてなくて、後は卒論を残してるぐらいだったので、選手になってからたまに(学校に)行って卒論を書いてって感じでした。
―体形は昔からあまり変わらないですけど?
筋肉は減ってます。だから、最近乗れない理由でそれはあると思います。筋力不足で。体重は変わってないです。とにかく筋肉が減って...。事故とかで運動ができないのもあるんですけど。
―体調面で普段から気にしていることは何かありますか?
まあ、太らないようにはしてますけど、筋肉的にもうちょっと運動しないとダメですね。夜遅くは食べないようにして、食べる量は普通か多いぐらいです。今日のお昼は『さわらの西京焼き』を食べました。それとご飯。キムチチャーハンもあったので、それも大盛りで食べました。キムチチャーハンを茶碗に普通に入れて、その上に西京焼きを食べるための白いご飯を乗っけて2層にしちゃいました。川口の食堂は評判いいですよ。
―現時点で、自分の中で挙げている課題はありますか?
まあ、常に上がありますから、全部といえば全部ではあるんですが、、飯塚さんが降臨してくれると強いですよ(笑)。船橋の最後の時は絶対ボクじゃないですね、アレは。もうスルスル回ってナカも外も自在に走れていたので。ドドドだけは克服したので、ドドドは来ないんですよ。
―当面の目標は?
2級の頃はまだ開けっぷりみたいなものが良かったので、それを取り戻したいです。あそこまでいかなくても、もうちょっと開けっぷり良く乗りたいです。今は全然出し切れていないです。整備なんてやってる場合じゃないくらいなんですが、開けっぷりと体力を戻していきたいですね。
―最後にオッズパーク会員の皆様へメッセージをお願いします。
オッズパークのファンの皆様はレース場で買うことは少ないと思うのですが、試走を見てから買っていただくと、より当たりやすくなると思います。タイムだけでなく、試走の映像も参考にしていただければと思います。
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伊勢崎オート所属の19期・湯浅浩選手にお話をお聞きしました。
(取材日2/3)
―選手生活40年経ちましたが、ここまで振り返ってみてどうですか?
若者の時代になりましたね。新しい人の顔を見ても誰が誰だかだんだん分からないこともありますね(笑)。
―長く走っておられますけど、一番印象に残っているレースはありますか?
日本選手権の2着(第26回大会で準優勝)ですかね。まあ、ああいうところで獲れないっていうのは、努力が足りないってことでしょうね。
―あの時はエンジン出てましたよね。
あの時は整備も全然分からなかったんですよ。セアになって1年目だったから。でも当たってたんでしょうね。
その後、神戸で地震が来たんですよね。その前の年まで調子が良かったんですが、タイヤが違っていたんですよね。神戸の工場で作っていたんですけど、震災でタイヤの工場が名古屋に移転して、そこから苦しくなりました。
―湯浅さんは19期で、以前は『花の19期』と言われていましたけど同期というのはどんな存在ですか?
ど新人の時はやっぱり、みんな頑張ってるなあとか、どんな練習をしているのかとか、気にはなりました。昔はいろんなエンジンがあって、いいエンジンをつけて乗ってる人は羨ましかったです。師匠もいい人が付くといろいろ教えてもらえたし。今、セアになってからは条件は一緒ですし、今はもう全く何も関係ないです。自分なりにやっていくしかないです。
―ここまでオートレーサーとしてやってきて嬉しかったことはありますか?
嬉しいっていったら自分に(オートレースが)合ってたってことでしょうね。
―そもそも、オートレーサーになろうと思った理由って何かあるんですか。
収入がいいからですかね。あとはオートバイが好きで、それまでもオートバイには乗っていましたし、今でも乗ってますよ。まあ、オートバイが好きっていうか旅が好きですね。いろんなオートバイに乗っていました。ただ、冬は乗らないです。寒くて体が勝てない(笑)。
―逆に今までやってきて苦しかったことってありますか?
いやぁ、いつも苦しいですよ(苦笑)。エンジンの悩みで。いい日もあるんですが、続けるのが難しいです。
―レース場を離れて休みの日はどのように過ごしていますか?
8年前に大阪に引っ越して、大阪の街をフラフラしてます。観光とかはあまりしないですけど、飲食店行っていろんな所を回ってます。行ったことない所もまだまだいっぱいあるので。最初は物珍しかったです。もう60過ぎて、あっと言う間に70になっちゃいそうだから元気なうちに好きな事をしたいなあと思います。まあ、好き勝手にやってきましたけど(笑)。
―どうして大阪に引っ越ししたんですか?
子どもが(大阪の)学校に行っていて、一緒に暮らしていたんですよ。
―たしか、お子さんはボートレーサー(湯浅紀香選手/競艇)になったんですよね。
ええ、最近は調子が上がってきて、3着までに入ることが多くなったみたいですね。
―ボートレーサーになりたいって聞いた時はどう思いましたか?
勝手にもうなってました(笑)。『受かったよ』って聞いて。
―ボートレーサーに興味がありそうな感じはあったんですか?
いやあ、全然。看護師をやっていたから...。受けるとは聞いてなかったです。
―もしかしたら、小さい時からお父さんと同じ公営競技の選手になりたい思いがあったんですかね?
看護師をしながら、やっぱりなりたいなってなったんじゃないですかね。
―そういうのって親としてはどういう気持ちなんですか?
ものすごく羨ましい。自分もボートの選手になろうと思った時があるんです。体重が重いからダメでした(笑)。昔は55キロぐらいだったんですけどね。部品代もかからないし、システムがいいじゃないですか。最近は賞金を稼いでも支出の方が多くなったりして(苦笑)。今の子はそれが当たり前で入ってきてるけど、自分なんかはいい時を知りすぎているから...。まあ娘のレースを見ると楽しいですね。だいたい携帯でレースを見ています。場内には家族は行けないようになっているので。
―最後にオッズパーク会員の皆様へメッセージをお願いします。
今オートレースは若者や個性的な選手がたくさん出てきています。自分たちのことも含めてレースをいっぱい観てもらいたいですね。
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