伊勢崎オート所属の19期・湯浅浩選手にお話をお聞きしました。
(取材日2/3)
―選手生活40年経ちましたが、ここまで振り返ってみてどうですか?
若者の時代になりましたね。新しい人の顔を見ても誰が誰だかだんだん分からないこともありますね(笑)。
―長く走っておられますけど、一番印象に残っているレースはありますか?
日本選手権の2着(第26回大会で準優勝)ですかね。まあ、ああいうところで獲れないっていうのは、努力が足りないってことでしょうね。
―あの時はエンジン出てましたよね。
あの時は整備も全然分からなかったんですよ。セアになって1年目だったから。でも当たってたんでしょうね。
その後、神戸で地震が来たんですよね。その前の年まで調子が良かったんですが、タイヤが違っていたんですよね。神戸の工場で作っていたんですけど、震災でタイヤの工場が名古屋に移転して、そこから苦しくなりました。
―湯浅さんは19期で、以前は『花の19期』と言われていましたけど同期というのはどんな存在ですか?
ど新人の時はやっぱり、みんな頑張ってるなあとか、どんな練習をしているのかとか、気にはなりました。昔はいろんなエンジンがあって、いいエンジンをつけて乗ってる人は羨ましかったです。師匠もいい人が付くといろいろ教えてもらえたし。今、セアになってからは条件は一緒ですし、今はもう全く何も関係ないです。自分なりにやっていくしかないです。
―ここまでオートレーサーとしてやってきて嬉しかったことはありますか?
嬉しいっていったら自分に(オートレースが)合ってたってことでしょうね。
―そもそも、オートレーサーになろうと思った理由って何かあるんですか。
収入がいいからですかね。あとはオートバイが好きで、それまでもオートバイには乗っていましたし、今でも乗ってますよ。まあ、オートバイが好きっていうか旅が好きですね。いろんなオートバイに乗っていました。ただ、冬は乗らないです。寒くて体が勝てない(笑)。
―逆に今までやってきて苦しかったことってありますか?
いやぁ、いつも苦しいですよ(苦笑)。エンジンの悩みで。いい日もあるんですが、続けるのが難しいです。
―レース場を離れて休みの日はどのように過ごしていますか?
8年前に大阪に引っ越して、大阪の街をフラフラしてます。観光とかはあまりしないですけど、飲食店行っていろんな所を回ってます。行ったことない所もまだまだいっぱいあるので。最初は物珍しかったです。もう60過ぎて、あっと言う間に70になっちゃいそうだから元気なうちに好きな事をしたいなあと思います。まあ、好き勝手にやってきましたけど(笑)。
―どうして大阪に引っ越ししたんですか?
子どもが(大阪の)学校に行っていて、一緒に暮らしていたんですよ。
―たしか、お子さんはボートレーサー(湯浅紀香選手/競艇)になったんですよね。
ええ、最近は調子が上がってきて、3着までに入ることが多くなったみたいですね。
―ボートレーサーになりたいって聞いた時はどう思いましたか?
勝手にもうなってました(笑)。『受かったよ』って聞いて。
―ボートレーサーに興味がありそうな感じはあったんですか?
いやあ、全然。看護師をやっていたから...。受けるとは聞いてなかったです。
―もしかしたら、小さい時からお父さんと同じ公営競技の選手になりたい思いがあったんですかね?
看護師をしながら、やっぱりなりたいなってなったんじゃないですかね。
―そういうのって親としてはどういう気持ちなんですか?
ものすごく羨ましい。自分もボートの選手になろうと思った時があるんです。体重が重いからダメでした(笑)。昔は55キロぐらいだったんですけどね。部品代もかからないし、システムがいいじゃないですか。最近は賞金を稼いでも支出の方が多くなったりして(苦笑)。今の子はそれが当たり前で入ってきてるけど、自分なんかはいい時を知りすぎているから...。まあ娘のレースを見ると楽しいですね。だいたい携帯でレースを見ています。場内には家族は行けないようになっているので。
―最後にオッズパーク会員の皆様へメッセージをお願いします。
今オートレースは若者や個性的な選手がたくさん出てきています。自分たちのことも含めてレースをいっぱい観てもらいたいですね。
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