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馬券おやじは今日も行く(第13回)  古林英一

ばん馬の変化

 『昭和33年度馬籍簿綴』という資料が競馬組合の倉庫に残されていた。ちょいと思い立ってこの資料を整理してみた。またしても昔話で恐縮である。

 昭和33年(1958年)といえば小生の生まれた年である。また、昨年話題になった(まだ上映中だと思うが)映画『ALWAYS 3丁目の夕日』の舞台がこの1958年である。いつまでも自分が若いと思っているせいか、そんなに大昔のことではないと思っていたのだが、映画をみても、馬籍簿綴をみても、ワシも長生きしたもんだと思わず思ってしまう。世の中の変化がいかに大きかったかということだろう。

 小生と同じ年の北海道生まれのかたなら、馬が畑を耕したり、馬車をひいていたのを子供心に覚えているかたも多いだろうが、残念なことに、関西生まれの小生は農耕馬を見た覚えがないのである。というのは、関西では農耕に馬を使うということはほとんどなかったからだ。関西は馬耕ではなく牛耕なのである。

 どなたに聞いても、昔のばん馬は今のばんえいの競走馬に比べれば小さかったとおっしゃる。1963年までの格付け区分は肉眼判定で、馬体重の計量もなされていなかったのだが、1964年に体重制の格付け区分が導入される。この当時の格付けは、甲級、乙級、丙級、丁A級、丁B級の5段階である(丁Bというのは、そもそもは、農家に懇請して出場してもらった農耕馬用の格付けだそうだ)。体重制導入で、甲級は800kg以上と決められた。1960年度を例にとると、全出走馬1,037頭のうち、甲級馬は21頭しかいない。比率でいえば2%である。体重制導入後もこの比率に近い線で甲級馬がいたとすれば、800kg以上の馬はほんの数%しかいなかったということになる。今なら全馬が甲級馬である。40年ほどでこれくらい馬が変わっているのである。

 品種構成も今とはまったく異なっている。1958年の出走馬は全部で470頭。このうち約27%が中半血である。アングロノルマンやアングロノルマン系というのも3頭いる。アングロノルマンなんていう品種は当時盛んだった速歩競走に出てくる馬の品種だ。中半血の馬の血統をみると、速歩競走に出てくる馬と同じような血統の馬がみられる。ひょっとしたら、ばん馬と速歩と両方に出走した馬もいるのではないだろうか。なんせ、ばんえいに限らず、平地競走でも当時は腕に覚えのある人なら誰でも騎手登録ができた時代だ。自慢の馬を連れてばんえいも平地も出場したという馬がいても不思議ではない。

 品種の違いを反映し、毛色も今と昔はずいぶん違う。今でも青毛の比率は高いが、それでも2割程度だ。今一番多いのは鹿毛で約4割が鹿毛である。1958年のデータだと、最も多いのが青毛で約半分が青毛である。そういえば、浪曲や落語なんかで馬方や農民がひく馬の名前はほとんど「アオ」だったりする。

 今も青森県の尻屋崎に「寒立馬(かんだちめ)」と称される馬がいる。南部駒の血をひく馬だというが、実際にみると、在来馬ではなく、洋種の血が強くなっていることが一目でわかるが、ばんえいの競走馬に比べればかなり小さく、青毛も多い。おそらく、40年前、50年前のばん馬というのはこんな感じだったのだろうと思う。興味のあるかたが一度ご覧になるといいだろう。

 確かに、現在のばんえい競馬の競走馬は、農耕や小型の馬車をひかせるには大きすぎるかもしれない。ばん馬がめきめき大きくなるのは1970年代以降のことだ。それは実役馬としての馬の需要がほとんどなくなり、ばんえい競走馬もしくは肉用馬としてしか農用馬の需要がなくなったからに他ならない。馬だけではない。人もまたそうである。馬を実役に使う人もいなくなり、橇をひかせる仕事はばんえい競馬以外になくなってしまう。その一方で、1970年代、ばんえい競馬の売上高が急成長し得たことで、ばんえいでメシが食えるようになったことから、「ばんえいの騎手」という職業がなりたつようになったのである。

 こうして考えると、専業的な人・馬による「ばんえい競馬」が成立したのは1970年代はじめということだ。たかだか30数年の歴史だ。祭典輓馬から数えれば、100年を優に超える歴史をもつばんえい競馬だが、近代競馬としてはたかだか30数年。長くて短いばんえい競馬の歴史である。

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